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アラン・ウッド(著)、碧海純一(訳)(新装版)『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家-』への訳者(碧海純一)あとがき

* 出典:アラン・ウッド(著)、碧海純一(訳)(新装版)『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家-』(木鐸社、1978年9月 389,ix p. 20cm.)
* 原著:Bertrand Russell: the passionate sceptic, 1957, by Alan Wood.)
* アラン・ウッド略歴
* 訳者・碧海純一氏は当時、東大法学部教授。右下写真は、邦訳新装版(1978年刊)の表紙

 邦訳新装版への訳者あとがき(1978.06)

 この邦訳書の初版がみすず書房から公刊されたのが1963年の2月のことであったから、その後、15年の歳月が経過したことになる。原著の初版は1957年に出たが、その後、間もなく原著者のアラン・ウッドは40代半ばの若さで世を去り(邦訳初版の「訳者あとがき」では、「1958年」と書いたが、1969年に出たラッセル自伝第3巻第3章によると、ウッドは1957年の10月に逝去し、ウッド夫人メアリーも2ヶ月後に夫の後を追うように亡くなった、と書いてある)、この書物では、従って、1956年頃までのラッセルの事蹟しか論じていないことになる。その後、当の御本尊のラッセルは実に1970年の2月2日に満97歳9ヶ月で没するまで、稀な長寿に恵まれて、精力的な活動をつづけたのであった。この意味で、当然のことながら、本書がラッセルの最晩年の約14年間の活動を扱っていないこと、ならびに、1960年後半頃からイギリスでも日本でも相ついで出版されたラッセルに関する研究書や、3巻に及ぶラッセルの浩灘な自伝(1967~1969刊)にもふれていないことをまずおことわりしておきたい。過去約10年の間に刊行されたラッセルに関する内外の文献は相当な数にのぼる。それにも拘らず、1957年に出版された本書の邦訳を再び世に出すことにいかなる意義があるのか。この問に対する答えは、畢竟、読者諸賢の独自の御判断に俟つ(まつ)ほかはない。邦訳者の私としては、私の訳文の拙なさは別として、原著は、その後の新しい文献によっても凌駕されていない独自の価値を今日でもなお保っているものと考えている。すべての伝記は、叙述・評価の対象である人物の描写であると同時に、その著者の姿を間接に反映する鏡でもある。本書の著者アラン・ウッドがその妻と共にラッセルに親炙(しんしゃ)した期間は決して長いものではなかった。この意味で、著者をサミュエル・ジョンソンにおけるボズウェルやゲーテにおけるエッカーマンに比することは、誇張のそしりを免れないであろう。しかし、著者が人間的にも思想的にもラッセルの最も良き理解者のひとりであり、かれの生涯と業績とを言わば内側から眺めることのできた伝記作者であることは、おそらく、大方の読者にも理解して頂けるであろう。
 原著者のウッドについて、ラッセル自身こう語っている。
……この本は、あまり熱心に広告されなかったが、それにも拘らず評判がよかった。…〔中略〕…ウッド夫妻の逝去は私にとって測り知れないほどの痛手であった。私はこの夫妻に非常な好感を懐いていたし、それだけでなく、いつのまにか、私に関するあらゆることがらについてのかれらの知識と〔私への〕共感に溢れた理解とを頼りにするようになっていたのであり、かれらとの交渉は本当に楽しいものであった。(『ラッセル自伝』、アレン・アンド・アンウィン、ペーパーバック版、第3巻、1969年、101ページ)
 ラッセルという人は、ヴィクトリア時代(1872年)に生を享け、両世界大戦を身近に体験し、古来稀な長寿に恵まれて、戦後の4半世紀においても倦むことを知らず思索と実践の道を一途に歩んだ稀有の思想家であるが、ウッドの筆になるこの伝記は、19世紀後半以来のイギリスおよび世界の思想界を背景としつつ、この知的巨人の歩みを見事に活写した作品だといってよいであろう。ラッセルの簡勁・明快で機智と調刺に富んだ文体は、当代一流と称せられ、大学の教養課程などにおいてもひろく教科書に用いられているが、ウッドの文章も、控えめながら、やはりイギリス人らしく、ときにヒューモラスな味わいを湛えて(たたえて)いる。拙訳でこの興趣をどこまで再現しえたか、余り自信がない。訳者である私自身がラッセルの業績をどう解釈・評価しているかは、拙著『ラッセル』(勁草書房、1961)、『合理主義の復権――反時代的考察』(木鐸社、1973、増補第3版、1976)などにおいても不十分ながらのべておいたが、こうした著書を一般の読者にひろく読んで頂くことは望み難いと思われるので、ここで、ラッセルの思想に関する私見を簡単に示しておきたい。
 (以下)に掲げる拙稿は、1970年2月2日の夕方(日本時間で2月3日の早暁)ラッセルが最後の息をひきとった翌日、朝日新聞社の需めに応じて書いたものである。忽卒の間に草したものであるために、かえって、今になって読んでみると、私の平生のラッセル観の卒直な表明になっているように思われるので、ここに再録することを許して頂きたい。
「哲学の系譜の上でみるならば、バートランド・ラッセルは、ロック――ヒューム――ジョン・スチユアート・ミルと続いてきたイギリス経験論の現代における最大の継承者だったといえる。しかし、他面、彼は、若いころから数学基礎論および論理学に深い関心を持ち、ことに後者の領域においては、19世紀後半以来の先人の業績を集大成するとともに、また、みずから前人未踏の境地をも開拓してきた。現代の記号論理学を学ぶものなら、だれでも、この学問がいかに多くのものを『数学原理』(『プリソキピア・マテマティカ』、全3巻、1910年~1913年、A.N.ホワイトヘッドとの共著)に集約されたラッセルの業績に負うているかをよく知っている。
 数学および論理学への関心は、哲学史上、どちらかといえばデカルトやライプニッツによって代表されるヨーロッパ大陸「合理論」と結びついてきたが、ラッセルはこの両分野への関心と貢献を媒介として経験論と合理論とのあらたな総合を試みた学者として、2世紀前のカントを想起させる。彼はまた、自らその発展に貢献した論理分析技術を用いて伝統的な哲学の諸問題への斬新なアプローチをくわだて、この点において、1920年代後半に「ウィーン学団」を中心として起った現代分析哲学の先駆者としての役割をも果した。
 ラッセルの本領が犀利な論理的洞察と分析力にあり、数学基礎論、論理学および理論哲学(とくに認識論)における功績が不朽のものであることは、おそらくだれも疑わないところであろう。しかし、哲学史および社会思想における貢献もまた見逃すことのできないものである。
 哲学史上の著作としては、『西洋哲学史』(1946年)(松下注:1945年の間違い)と『西洋の知恵』(1959年)とがあるが(ともに邦訳あり)、特に前者はいろいろな意味で非常に重要な書物である。第1級のオリジナルな哲学者の手になる本格的な哲学史としてユニークであることはもとより、古代ギリシャのソフィストやプラトン、ドイツ観念論者(特にへーゲル)やマルクスに対するラッセルの解釈や評価の斬新さは、この大著が比較的短い期間(主として第2次大戦中)に独力で書かれたことから生ずる内容上・構成上の制約を補ってあまりあるものと評すべきであろう。
 彼の社会思想上の業績は、どちらかといえば「余技」とみなされがちであるが、決してそうではなく、それ自体やはり後世に残るものと私は信ずる。彼の最初の著書が『ドイツ社会民主主義論』(1896年)であることが示すように、人間社会へのラッセルの関心は、すでに青年時代に始っていたが、特に第1次大戦中の体験は彼に平和の問題との全身全霊をこめた対決を迫り、周知のように、筆禍事件のため、大戦の末期に数ヵ月の獄中生活を強いられることになる。第2次大戦後、なかんづく水爆の開発に触発された「ラッセル=アインシュタイン声明」(1955年)(右下写真:ラッセル=アインシュタイン声明を発表するラッセル)以後の彼の献身的な平和運動は、わが国でも広く知られているところである。
 1890年代のはじめ、ケンブリッジ大学の学生だった頃、マクタガートに師事したラッセルは、その影響のもとで当時イギリスでもてはやされていたへーゲル哲学に傾倒したが、間もなく反旗をひるがえし、その後、終生へーゲルのもっともきびしい批判者の1人となった。このことは、マルクスに対するラッセルの評価とも密接に関連する。
 いまをさる74年前、すでに前記の『ドイツ社会民主主義論』において、ラッセルはマルクスの思想を徹底的に検討しているが、彼のマルクス観はその後も基本的には終始変らなかったとみてよいであろう。彼は、マルクスの人道主義的な義憤に満腔の同感と敬意を表し、またマルクスが感傷におぼれずに資本主義社会の科学的な分析に基づく社会理論を展開したこともきわめて高く評価する。
 しかし、ラッセル自身の言葉によれば、「大体において、マルクスの哲学の中でへーゲルに由来する部分はすべて非科学的である」。中でも、終末論的歴史観及びそれと結びついた弁証法の観念に対し、彼はいたるところできびしい批判を加えている。また、徹底した自由主義者、個人主義者としてのラッセルは、あらゆる狂信と暴力、特に集団的な狂信と暴力をにくむ気持が異常なほどに強く、この点でも、マルクス主義と結びついたファナティシズムに対しては、反対の態度を貫いてきた。ラッセルを語るに当って、どうしても逸することのできないのは、彼の簡潔・明快で、しかも機知と諷刺に富んだ文体である。社会、人生の問題はもとより、哲学や論理学の抽象的なテーマについて語るときでさえも、彼の珠玉のごときウイットは、読者の緊張を解きほぐし、しかも同時に、彼の論旨を実に単刀直入に感得させてくれる。彼の数多い人生論的、自伝的著作は、文学作品としても今後その光芒を失わないであろう。

 哲学者・論理学者・社会思想家・随筆家としてのラッセルを全体としてどう評価するかは、彼の著作が厖大な量にのぼるだけに、非常にむずかしい、そして後世に残された課題である。しかし、彼が97年余の波乱に満ちた生涯を閉じたこの時点において、少なくとも次のことだけは確実にいえるものと私は信ずる。バートランド・ラッセルは、人類思想史上、プラトン、アリストテレス、カントなどにも比肩し得る第1級の器量の人であり、透徹した哲学的洞察および時には職人的とさえ思われるほどの緻密な論理的分析力と、宇宙および人間に対する深くかつ広い関心とを一身に兼備した稀有の人物であり、またまさにその点において(わが国における通常の理解に反して)、タレース以来の西洋哲学の正統を現代において代表する思想家であった。」(『朝日新聞』1970年2月4日夕刊・第7面より、かなづかいを改めたほかは原文のまま)
 本訳書の新装版に当っては、原版に見られた誤植や若干の不適訳を直し、少しでも読みやすくするように努めた。英語、独語、イタリア語などの文献の邦訳を若いころから多少手がけた人間として、私は翻訳というものの充たすべき諸条件について若干の見解をもってきたつもりであるが、本書の訳文を読み返してみると、所詮は眼高手低(がんこうしゅてい)で、「横のものを縦にする」ことがいかに至難のわざであるかということを更めて痛感せざるをえなかった。私の努力にも拘らず是正しえなかった誤訳、不適訳などについては、読者諸賢の厳正な御叱正を請いたい。
 本新装版の上梓に当っては、旧版の出版を引き受けて下さったみすず書房の小尾俊人氏からあらゆる点について好意ある御高配を頂いた。木鐸社の能島豊氏および坂口節子氏は、旧著『合理主義の復権』の刊行の折と同じく、至れりつくせりの協力をして下さった。また、埼玉県の開業医三島卓朗先生からは、関連文献の入手その他多くの面で一方ならぬ御世話になった。これらの方々の御好意に対し、心より厚く御礼申し上げたい。 1978年6月 碧海純一