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「ラッセル開廷にあたってのメッセージ」
ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会(編)『ラッセル法廷』(人文書院,1968年5月)pp.17-20.

* 英文タイトル: Address to the Copenhagen Session of the International War Crimes Tribunal, 20 Nov. 1967, by Bertrand Russell.

 ラッセルのこのメッセージは, Against the Crime of Silence: Proceedings of the Copenhagen Session of International War Crimes Tribunal, Nov. 1967 に収録されたものであり,邦訳は,アリス・ハーズ(著),芝田進午(編訳)『われ炎となりて』(青木書店,1975年6月刊/青木文庫)pp.270-274 にも再録されています。『われ炎となりて』に再録されたものには,(芝田進午氏が付加されたものか,)「正義の側に人類の結集を」というタイトルがつけられています。また,最後に,以下の注がつけれらています。
 アリス・ハーズ夫人(Alice Herz,1882年-1965年3月26日:アメリカ合衆国の平和運動家。ベトナム戦争の継続に抗議して焼身自殺)はベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を告発した最初の知識人であった。このアリス・ハーズを記念して,イギリスの哲学者バートランド・ラッセル卿からつぎの手紙(1968年7月3日付)が編者にとどいた。 「親愛な芝田教授。6月21日付のすばらしいお手紙,大変ありがとうございました。拝見して大変うれしく存じます。アリス・ハーズの本に寄稿するようにとの御依頼でございますが,残念ながら時間的余裕がございません。それで,これまでわたくしの書いた論文のうち,どれでも適当なのをもふくめていただきたいと存じます。……」この趣旨により「ラッセル法廷へのメッセージ」(1968年11月)をここにふくめた(→ 松下注:1967年11月の誤記)
 なお,原文は,入手しだい掲載します。

 われわれが静かに落ち着いて,ここ(注:,1967年11月20日にコペンハーゲンで開催されたラッセル法廷)に集まっているあいだにも,ベトナム人民は,新たな,さらに大きな犯罪に苦しめられています。時がたち,日をおうにしたがい,惨禍は増大し,いまだに平和を知らぬこの民族にたいして,はかりしれない苦しみがくわえられています。われわれはただ静かにすわり,いらだってもいません。われわれはこんなにも長いあいだ,静かな研究室や読書室で仕事をつづけてきました。われわれは,学者としていつものやりかたでこの戦争を検討してきました。文書,写真による証拠。焼きつくされた村々の廃墟。こうしたすべてのものが資料としてわれわれに送られてきています。われわれは,古代の戦争でどちらが正義で,どちらがまちがっていたかを判断するのと同じように,ベトナム戦争について判断をくだしています。ベトナム人民の苦しみは,何世紀も昔の人びとの苦しみと同じように,われわれの生活からはるかかなたにあるかのようです。

 われわれは,ベトナム人民の苦しみをともにわかちあってきたわけではありません。本法廷の判断は,ベトナム人民を弁護するものではなく,われわれ自身を弁護するものであります。なにもしない人間は,残虐と不正にたいする積極的な闘争によって道義と正義の概念をささえている人びとにたいしては,判断をくだす権利をもっておりません。われわれの発言は小さな好意というべきもので,発言したからといって,われわれが苦痛をうけるわけではありません。われわれの言葉は,歴史のなかではつまらぬ役割にすぎません。ベトナム農民と,ワシントンからさしむけられた機械化虐殺部隊とのあいだの死活のたたかいが現代のドラマであるときに,どうしてわれわれが自分たちに主役を与えることができるでしょうか。

 歴史の歩みは,ベトナムにおいてつくられつつあります。われわれは言葉によっては,歴史の方向をさほどかえることはないでしょう。歴史をかえつつあるのは,アメリカのヘゲモニーに屈服することを拒否しているベトナム人民であります。ベトナム人民は,理想にもえる人間の強さを証明しつつあります。彼らは,もっともよく武装した軍隊,もっとも近代的な皆殺し兵器にたちむかっています。アメリカは,皆殺しをやるために,一日に七千万ドルをつぎこんでいますが,この貧しいベトナム民族をくじけざせることはできません。この模範的な力は,貧しい人びとが抑圧者の軍事力にさらされているすべての大陸で,ひしひしと感じとられることでしょう。このような模範的な力はさらに西欧のゆたかな諸国民にまで伸びて,ベトナム人民の英雄的精神は,政治的に無気力な諸国民をゆりうごかして,ペンタゴンのあらたな野蛮行為にたいする広範な抗議にたちあがらせています。ベトナム人民の行動にくらべれば,われわれの発言はとるにたりません。ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を調査し,暴露することによって,われわれは正義のためにたたかっている人びとのがわにくわえてもらいたいとねがうだけであります。われわれの知るかぎり最低限度の責務を果たすことによって,われわれは,ただ道義的無能力をさけようとしているにすぎません。

 本法廷(ラッセル法廷)はすでに,アメリカのベトナム干渉の侵略的性格にかんする総括的な証拠を提出しています。審理をすすめるにあたってわれわれは,侵略の概念がベトナムにおけるアメリカのすべての犯罪にいかに深くかかわりあっているかを心にとどめなければなりません。われわれは,どちらが他国の国境をはじめに侵した国であるか,したがって,どちらが侵略者であるかをきめる大国間の国境紛争を審理しているのではありません。そのような場合には,国境が侵犯されたからといって,それがひきつづく戦闘で犯されるすべての戦争犯罪全体の原因になるということには,私はためらいを感じます。広島と長崎への原爆投下は,第二次世界大戦中の枢軸側の犯罪と同じ道義的次元におくべきものでありますが,これをしりぞける公式定義のかたくなな固執には,私は賛成できません。日本が侵略したからといって民間居住中心地への原爆投下についてアメリカが免罪されるものではありません。しかし,アメリカのベトナム侵略がベトナム征服をめざす明白な犯罪であり,侵略者と犠牲者ははっきりしていると確信しています。「むきだしの侵略」という言葉が流血の意味をこれほど深刻に説明するような戦争は,私の生涯をつうじて一度もありません。

 ベトナムには,現代史上,自由であったことがなく,平和を味わったこともない民族がいます。この戦争が民族として救われるか,皆殺しか,の中間の道を知らぬ理由を説明するものがこれであります。戦争と不正義と苦しみしか味わったことのない人びとが妥協することを知らぬのは,譲歩すべきものをもっていないからです。彼らは生を失うかもしれませんが,彼らはすでに生をうばわれていたのです。彼らの文化は荒廃するもしれませんが,それはかつては外国軍隊の力でゆがめられ,堕落させられたのです。彼らの富はつかいはたされるかもしれませんが,その富はかつては盗まれていたものなのです。一世紀にわたる西欧の抑圧は,四分の一世紀にわたるはげしいたたかいの序曲であります。たたかいの目的は過去をとりもどすことではなく,未来をつくりだすことです。ベトナムの英雄的なたたかいは,ひとりでも生きているかぎりはつづきます。そしてこのような希望の実現をめざし,貧困と不安から自由で,尊厳で勇気にみちた新生活を建設することをめざしているのです。アメリカに買収されていないこの民族のすべての人びとは,こうした願いをいだいています。ひとりひとりがアメリカにたちむかっています。アメリカの意志が支配することになったら,ひとりのこらず絶滅されるからです。

  われわれがこれから数日間,ここに集まるのは,アメリカがもっとも厳密な法律的意味においてすでに犯しているジェノサイド犯罪(注:民族「浄化」/民族絶滅)の程度を審理するためであります。アメリカの意図は明白です。したがって法廷の結論はまちがえようのないものです。われわれの任務は,証言を聴取し,残虐行為を記録し,ジェノサイド,すなわちもっとも憎むべき犯罪がどれほど犯されているかをあきらかにすることです。

 ベトナムは,正義のための他の諸闘争と多くの共通のものをもっています。他のたたかいを検討することは,本法廷の任務ではありませんが,われわれはそれを忘れることはできません。それらのたたかいは,あらたに設置される法廷と今後の審理の存在理由であります。われわれのささやかな努力をとおして,われわれは,文明に貢献することだけをねがう人びとの義務を確認し,文明の価値をたかくかかげるためにたたかっている人びとと連帯したいと思います。裁かれないと思って安心している人びとに,アメリカ黒人にたいする犯罪もやがて徹底的な審理をうけるであろうことを思いださせましょう。「アメリカの世紀」の厚顔なスポークスマンたちに,ラテン・アメリカ人民にたいする犯罪も暴露されるであろうことを警告しておきましょう。

 われわれは裁判官ではありません。われわれは証人であります。われわれの任務は,人類をこのおそるべき犯罪の証人にし,ベトナムにおける正義のがわに人類を結集することであります。

(掲載日:2013.07.12/更新日: )