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バートランド・ラッセル(著),市井三郎(訳)「歴史を読むことと理解すること」

* 出典:『ラッセル』(河出書房新社、1966年5月刊。415pp. 20 cm. 世界の大思想v.26)

* 原著: Bertrand Russell: How to Read and Understanding History; the past as the key to the future. Kansas, U. S. A.; Haldeman-Julius Co., 1943.

冒頭部分(市井三郎・訳)

 わたしが書こうとするのは、大学での授業課目としての歴史についてではない。若者たは学業を終えるときに十分な歴史知識をもっていない、といろんな新聞は書きたてるが、若者たちの方では、試験のためのつめこみ勉強をやったあとで、自分たちは知識をもちすぎたと感じるのであり、したがってできるだけ早く、勉強したことを忘れようとかかるのである。いろんな大学では、職業的歴史家たちは二種類の講義をやっている。つまり単位をとるために必要な期間だけは記憶されることになる概論コースと、歴史を教えることに生涯をかけるつもりの者たち--かれらが教えるのもまた将来、歴史を教えることになる連中だ--のための上級コース、という二種類である。疑いもなくそういった講義はすべて非常に価値があるが、それはこの論文の主題ではない。わたしの主題は、一つの楽しみとしての歴史、つまり苦難を要求する世界でも許容されるような余暇を、快適にまた有効についやす一方法としての歴史〔読書〕のことである。わたしは職業的歴史家ではないが、素人として多くの歴史書を読んできた。わたしの目的は、わたし自身が歴史書からひき出したものを、そして他の多くの人々も専門家になろうと目指すことなしにひき出しうる--とわたしが確信する--ものを述べてみようということにある。(右下写真:ラッセルが晩年住んだプラスペンリン山荘の書斎/左に見えるのは故・牧野力教授、1972年撮影)
 さてまず第一に、歴史が諸君の経歴にとって必要なものでない場合には、歴史書を読むことはそれが楽しみで興味がもてるのでないかぎり、意味はなくなってしまう。歴史書の唯一の重要性が楽しみを与えることにある、などとわたしはいうつもりではない。けっしてそうではなく、歴史書には他の多くの有用性があり、そのことはこの論文の中で説明してゆくつもりである。だがその有用性も、歴史書を楽しんで読む人々にとっての話であって、そうでない人人の場合には存在しないことになろう。
 同じことが音楽とか絵画、詩、といったものにも当てはまる。そういったものを学ぶのに、強制的にやらされるとか、教養を身につける目的とかでやるならば、それらが提供しうるものを獲得することはほとんど不可能になる。〔たとえば]シェイクスピアは人々に喜悦を起こさせる目的で作品を書いたのであり、諸君にいささかでも詩文を好む感情があれば、その作品は諸君を喜ばせることだろう。だが読んでも面白くないとすれば、シェイクスピアなど放っておく方がよい。学校の児童たちにシェイクスピアを強要して、子供らがその名を聞くことさえいやになる、というのは憂うつなことだ。そういったことはシェイクスピアヘの侮辱であり、また児童たちへの加害行為である。シェイクスピアを楽しむ機会が子供らに与えらるべきであり、いっしょに劇をやるというようなかたちをとったならば、しばしばうまくゆくであろう。しかし、シェイクスピアがただ退屈なだけだという子供たちは、他のやり方で時間をついやすことを許さるべきである。
 歴史がそれとまったく同じである、というわけにはゆかない。なぜならある程度まで歴史は、学校でぜひとも教えねばならぬからである。だがその程度をこえることは、どのような歴史であれ、知りたい児童だけが学べばいいのであって、必要限度の歴史授業でさえ、できるかぎり楽しく興味深いものにすべきである。たいていの子供は、学校へゆくようになるまでにものを知りたがるものであり、かれらを愚かで探究心のない子供にするのは、多くの場合、授業のまずさにある。広範囲のことを扱う歴史と、細かいことを扱う歴史とがあり、それぞれがそれなりに価値をもっているのだが、それらの価値は異なっている。
 広範囲のことを扱う歴史は、世界がどのようにして現在のような状態に発展したか、ということの理解を助けるものであり、細かいことを扱う歴史は、興味ある人物(男性や女性)をわれわれに知らせ、人間性に関する知識を助長するものである。最初からこれら両方の歴史が教えらるべきであり、幼児期に教える方法は、説明して話しながら映画を見せる、というやり方を大はばに用いねばならない。・・・。引用はここまで。//