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バートランド・ラッセル(著),勝部真長・長谷川鑛平(共訳)
『ヒューマン・ソサエティ−倫理学から政治学へ』
(玉川大学出版部,1981年7月刊。268+x pp.)

(原著: Human Society in Ethics and Politics, 1954)
原著者まえがき
Human Society in Ethics and Politics, 1954, Preface

(まえがきの一部の松下訳) n.1 n.2


 この本の初めの9章は,1945-1946年に書き,その他は,第2部の第2章を除いて全部,1953年に書いた。第2部第2章は,ノーベル文学賞を受賞した際(1950年)にストックホルムで私の行った講演である。私はもともと倫理学についての論議は『人間の知識』(Human Knowledge, 1948)という私の本に含めるつもりであったが,そうしないことに決めた。というのは,私は,倫理学を「知識」とみなし得るという感触には確信がもてなかったからである

 この本には2つの目的がある――第1に,独断的でない倫理を打ち出すこと,第2に,この倫理をいろいろな当面の政治間題に適用すること,である。この本の第1部に展開されている倫理には,人を驚かすようなオリジナルなものは何もないし,私も,私がさまざまな政治問題に対して倫理的判断を下す際に,倫理的判断の客観性を信じていない以上,私には,そのような権利はないのだとつねづね批評家たちから言われる,という事実がなかったなら,それを公表する値打ちがあろうなどとは確信はしていない。私はこの批判を妥当なものとは考えない。しかし,それが妥当でないことを明らかにするためには,必ずしも簡単には行くまいが,ある程度詳しい(議論の)展開が必要である。
 この本の第2部は,完壁な政治理論たろうとするものではない。私は今までのいくつかの本で政治理論のさまざまの局面を論じてきた。そこでこの本では,もっぱら,倫理学と密接な関連がある上に,今日,差し迫った実際的重要性をもつような局面を,論じることにする。われわれの現実の諸問題を非個人的な大きな枠組に入れることによって,ただ単に今日的情況においてのみ眺められた場合よりも,これらの問題が,一層冷静に,さほど熱狂的にならずに,かつ不安や苛立ちは余り抱かないで,展望して貰えるかもしれない,と私は期待している。
 私はまた次のようにも期待している,この書物は,人間的情熱とそれが人間の運命に及ぼす効果とを終始問題としているので,これが,私のこれまで書いてきたものばかりではなく,私とだいたい意見を同じくするひとびとによって書かれたすべてのものの誤解を,解く助けになってくれれば,と。批評家たちは私に対してある種の非難を加えるのを常としているが,その非難は,彼らが私の書くものに相当強い先入見をもって近づき,そのために,ほんとうに私が言っていることに気づき得なくなっている,ということをほのめかしているように思われる。私は,人事における理性の役割を過大評価している,とくりかえしくりかえし批難された。このことは,私の方が,ひとびとというものが,批評家たちの信じているのに比べて,より理性的だ,あるいはより理性的であるべきだと考えている,ということかもしれない。しかし,私は思うに,批評家の側により重大な誤りがあるのである。すなわち,私ではなく批評家たちこそ,理性の演じ得る役割を非合理に過大評価しているのであって,しかも,このことは,彼らが「理性」という語の意味するところについて,まったくの混乱におちいっているということからきていると私は考える。
 「理性」には完全に明晰で正確な意味がある。それはわれわれが達成したいと思うある目的に対して正しい手段を選ぶということである目的の選択とは何らの関わりもないのであるところが反理性論者にはこのことがわからない。そこで彼らは,合理性唱道者が理性に,手段はもちろん目的をも指図させたがっているのだと考えるのである。合理主義者の書いたもののうちには,こうした見解の口実になるものは何もない。「理性は情熱の奴隷であり,またそれにとどまるべきである」という有名な句がある。この句は,ルソー(1712-1778)やドストエフスキー(1821-1881),ないしはサルトル(1905-1980)の著作から出たものではない。その出所はデーヴィッド・ヒユーム(1711-1776)である。それが表明しているのは,誰でも理性的であろうとする人と同様に,私も全面的に賛同する見解である。「人事において情動の演ずる役割を」私が「ほとんど全面的に無視している」と言われるとき,もっとも私はしばしばそういう目にあっているのだが,批評家は,私がいったいどういう原動力を支配的なものとみなしていると,考えるのだろうか。欲望,情動,情熱(どの語を選ぼうと諸君の勝手であるが)が,行為の原因たり得る唯一のものである。理性は行為の原因ではなくて,調整役にすぎない。ニューヨークヘ飛行機で行こうとするとき,理性は,コンスタンチノープル行きよりもニューヨーク行きの飛行機に乗る方がよいと教えてくれる。思うに,私を不当にも合理主義者であると考える人たちは,私が,空港で興奮してしまって,目にはいった最初の飛行機に跳び乗ってしまい,コンスタンチノープルでおろされて,まわりの人たちがアメリカ人でなくトルコ人であることをわめき立てる,そんなことになるべきだと考えているようである。そうなれば,振舞いとしてはすばらしい,意気さかんなしかたであろうし,さぞかし,私の批評家たちには賞賛をもって迎えられることであろう。
*訳注 David Hume: A Treatise of Human Nature, in The Philosophical Works: David Hume, ed. by T. H. Green and T. H. Grose, v.2, Scientic Verlag Allen, 1964, p.195

 ある批評家は,私が,ただ邪悪な情熱だけがよりよき世界の実現を妨げると言うとして非難する,そしてさらにたたみかけて,「すべて人間の情動は必然的に邪悪なものであるのか」と勝ちほこって問いかける。例の批評家にこのような異論を唱えさせた,ほかならぬその書物(松下注:The Impact of Science on Society, 1952 のことと思われる。)で,私は,世界が必要とするのはキリスト者の愛,ないし憐れみであると言ってある。確かに,これもひとつの情動である,そして,これこそ世界の必要とするものであるという時,私は,推進力として理性を示唆しているのではない。ただ,この情動は,残酷なものでもなければ破壊的のものでもないので,不合理の使徒たちには魅力のないものであろう,と私は想像するばかりである
 では,ひとびとに,私のものを読んで,その中の最も平明な陳述にすら気づかなくさせ,その上,私が言わんとしているのとは正反対のことを私が言っているものと思い込ませるようなこの強烈な情熱があるのは,何故だろうかひとびとに理性を嫌うようにさせかねない動機がいくつかある。ひとには両立しない欲望をいだきながら,それが両立しないとは分りたがらないところがある。収入以上のお金を使いたいと思いながら,やはり支払能力を超えまいと思うところがある。そしてこのために,友人に算術計算の冷厳な事実を指摘されると,その友人たちを毛嫌いするようにもなるのである。かりに古風な教師であるとして,あなたが誰に対しても博愛心でいっぱいであるものと自認しながらも,同時に,子供たちをむち打つことに大きな喜びを得ていることもあるであろう。この2つの欲望を両立させようとすれば,どうしても,むち打つことには矯正効果がある,と自ら思いこまなくてはならない。(それ故)もし,特別に激しやすい部類の年少のいたずらっ子たちには,むち打ちが効果を成さない場合もあると,精神病医学者に言われようものなら,いきなり激怒して,相手を,冷たい知性だけの人だと非難することであろう。ラグビー校のあの偉大なアーノルド博士が,むち打ちを悪いことだと考えたひとびとに叩きつけた,あの猛烈な攻撃こそ,このパターンのすばらしい例である。
 もう1つ,理性的でないことを支持する,もっとたちの悪い動機がある。相手があまり不合理な人間であるならば,あなた方は彼らをそそのかして,自分たち自身の利益のために尽くしていると思い込ませておいて,あなた方の利益のために仕えさせることもできるであろう。こういうケースは政治ではきわめてありふれたことである。政治的指導者たちの多くは,自分たちは利他的願望のために活動しているものだ,と多くのひとびとに信じ込ませてその地位を得ているのである。そのような信念も,興奮の支配下では一層容易に受け容れられることは,わかり切ったことである。ブラスバンド,集団祈祷,私刑(リンチ)の執行,そして戦争と,段階を追って興奮は高まる。不理性(非理性?)を唱道する者たちは,どうやら,大衆をわき立つ興奮状態においておけば,自分たちに都合のよいように彼らをあざむく機会はいよいよ大となる,と考えているようである。私がこのようなやり方を好まないことが,どうも,ひとびとに私が過度に合理的であると言わせているようである。しかし,私は,こういうやからをデイレンマに追いこもうかとも思う。というのは,そもそも理性とは手段が目的にぴったりと適合するということにほかならない以上,理性に反対できるのは,ただ,民衆が自分たちの目的だと公言しているものを実現できないような手段を選ぶこと,それがよいことだと考える人たちだけである。ということは,ひとびとの公言する目的をどう実現するかという点で,ひとびとがだまされているか,あるいは,ひとびとのほんとうの目的は彼らが公言する目的ではないか,のいずれかを意味することになる第1の場合は,大衆が雄弁な指導者に誤り導かれる場合である。第2の場合は,子供たちを責めさいなんでそれを楽しみながらも,自分のことを善意に満ちた人道主義者だと思いたがる教師の場合である。私はどうしても,理性に反対するこれら2つの根拠のいずれをも,道徳的にりっぱなものだとは思えない。
 もう1つ,或る種のひとびとが,自分たちが理性であると考えるものに対して,異議をとなえる根拠がある。その人たちは,激しい感情は望ましいものではあり,誰でも激しい感情に動かされる者はそのために理性的でなくなるものだと考える。彼らは,誰でも情感の鋭い者が必ず度を失って,愚かしい振舞をするに違いないと考えているようで,その愚行を,その人が情熱的であることを示すという理由で賞賛するのである。しかし,彼らといえども,思い込み違いが自分たちの好まないような結果をまねく場合には,そのようには考えない。たとえば,将軍たる者が,敵に激しい憎しみを感ずるあまり,ヒステリックになって,合理的な作戦が立てられなくなってもかまわない,とするものはひとりもない。実際問題として,これは,激しい情念が手段に対する適切な価値判断を妨げるというのとは話がちがう。モンテ・クリスト伯のように,燃えるような情熱をもち,それがそのままえま手段の正しい選択につながるひとびともあるのである。りっぱなあの人物の目的としたものは非合理的なものではあった,などと言うなかれ。実現不可能なものという意味でならともかく,合理的でない目的などというようなものはないまた,冷静に打算する人物が必ず邪悪であるときまっているわけでもない。リンカーンは,アメリカの南北戦争のときは冷静に計算をしたが,しかも,奴隷廃止論者たちには悪口雑言をさんざん浴せられた。廃止論者たちは,情熱に駆られたひとびとで,一見有力には見えたが,その実,奴隷解放をもたらしそうにない策を採るようにリンカーンに望んだのであった。
 思うに,問題の核心はこうである――私は,ひとびとが興奮して正気を失い,その意図するところとは正反対の結果をもたらすようなことを行う状態におちいるということは,よいことではないと考える。たとえば,立ち止って車の通行に注意することができなくて,道路を走って渡り,死をまねくといった場合のように。そのような振舞を賞賛するのは,偽善を手際よくやってのけようとする人か,あるいは自己欺瞞からのがれられずに,その犠牲者になりたがっている人かのいずれかに違いない。私はこのような精神状態を,両方とも,悪いと考えることを恥じないし,もし,そういう精神状態を悪いと考えることのために,私があまりに理性的に過ぎるとして責められるならば,いかんともしがたいことであるしかし,私が激しい情動を好まないとか,情動以外の何かが行為の原因たり得ると考えている,とされているのならば,私はそういう告発を断固拒否する。私の期待する世界は,情動は強くても破壊的ではない世界,また,情動が情動として認められているので,それが自己をも他人をも欺くことにはならない世界であるそのような世界には,愛と友情があろうし,芸術や知識の追求が所を得るであろう。私には,より狂暴なものを望むひとびとを,満足させることはできそうにない。  


From R. Clark's B. Russell and His World, 1981.


The first nine chapters of this book were written in 1945-1946, the rest in 1953, except Chapter 2 of Part II, which was the lecture I gave in Stockholm on the occasion of receiving the Nobel Prize for Literature.
I had originally intended to include the discussion of ethics in my book on 'Human Knowledge,' but I decided not to do so because I was uncertain as to the sense in which ethics can be regarded as 'knowledge'.
This book has two purposes: first, to set forth an undogmatic ethic; and second, to apply this ethic to various current political problems. There is nothing startlingly original in the ethic developed in the first Part of this book, and I am not sure that I should have thought it worth while to set it forth, except for the fact that, when I make ethical judgments on political questions. I am constantly told by critics that I have no right to do so, since I do not believe in the objectivity of ethical judgments. I do not think this criticism valid, but to show that it is not valid requires certain developments which cannot be altogether brief.
The second Part of this book does not attempt to be a complete theory of politics. I have dealt with various parts of the theory of politics in previous books, and in this book I deal only with those parts that, in addition to being closely related to ethics, are of urgent practical importance in the present day. I have hoped that, by setting our actual problems in a large impersonal framework, I may cause them to be viewed with less heat, less fanaticism, and a smaller amount of worry and fret than is easily possible when they are viewed only in a contemporary context.
I hope also that this book, which is concerned throughout with human passions and their effect upon human destiny, may help to dispel a misunderstanding not only of what I have written, but of everything written by those with whom I am in broad agreement. Critics are in the habit of making a certain accusation against me which seems to imply that they approach my writings with a preconception so strong that they are unable to notice what, in fact, I say. I am told over and over again that I over-estimate the part of reason in human affairs. This may mean that I think either that people are, or that they ought to be, more rational than my critics believe them to be. But I think there is a prior error on the part of my critics, which is that they, not I, irrationally over-estimate the part which reason is capable of playing, and this comes I think from the fact that they are in complete confusion as to what the word 'reason' means.
'Reason' has a perfectly clear and precise meaning. It signifies the choice of the right means to an end that you wish to achieve. It has nothing whatever to do with the choice of ends. But opponents of reason do not realize this, and think that advocates of rationality want reason to dictate ends as well as means. They have no excuse for this view in the writings of rationalists. There is a famous sentence: 'Reason is and ought only to be, the slave of the passions.' This sentence does not come from the works of Rousseau or Dostoevsky or Sartre. It comes from David Hume. It expresses a view to which I, like every man who attempts to be reasonable, fully subscribe. When I am told, as I frequently am, that I 'almost entirely discount the part played by the emotions in human affairs,' I wonder what motive-force the critic supposes me to regard as dominant. Desires, emotions, passions (you can choose whichever word you will), are the only possible causes of action. Reason is not a cause of action but only a regulator. If I wish to travel by plane to New York, reason tells me that it is better to take a plane which is going to New York than one which is going to Constantinople. I suppose that those who think me unduly rational, consider that I ought to become so agitated at the airport as to jump into the first plane that I see, and when it lands me in Constantinople I ought to curse the people among whom I find myself for being Turks and not Americans. This would be a fine, full-blooded way of behaving, and would, I suppose, meet with the commendation of my critics.
One critic takes me to task because I say that only evil passions prevent the realization of a better world, and goes on triumphantly to ask, 'are all human emotions necessarily evil?' In the very book that leads my critic to this objection, I say that what the world needs is Christian love, or compassion. This, surely, is an emotion, and, in saying that this is what the world needs, I am not suggesting reason as a driving force. I can only suppose that this emotion, because it is neither cruel nor destructive, is not attractive to the apostles of unreason.
Why, then, is there this violent passion which causes people, when they read me, to be unable to notice even the plainest statement, and to go on comfortably thinking that I say the exact opposite of what I do say? There are several motives which may lead people to hate reason. You may have incompatible desires and not wish to realize that they are incompatible. You may wish to spend more than your income and or yet remain solvent. And this may cause you to hate your friends when they point out the cold facts of arithmetic. You may, if you are an old-fashioned schoolmaster, wish to consider yourself full of universal benevolence, and at the same time derive great pleasure from caning boys. In order to reconcile these two desires you have to persuade yourself that caning has a reformatory influence. If a psychiatrist tells you that it has no such influence on some peculiarly irritating class of young sinners, you will fly into a rage and accuse him of being coldly intellectual. There is a splendid example of this pattern in the furious diatribe of the great Dr. Arnold of Rugby against those who thought ill of flogging.
There is another, more sinister, motive for liking irrationality. If men are sufficiently irrational, you may be able to induce them to serve your interests under the impression that they are serving their own. This case is very common in politics. Most political leaders acquire their position by causing large numbers of people to believe that these leaders are actuated by altruistic desires. It is well understood that such a belief is more readily accepted under the influence of excitement. Brass bands, mob oratory, lynching, and war, are stages in the development of the excitement. I suppose the advocates of unreason think that there is a better chance of profitably deceiving the populace if they keep it in a state of effervescence. Perhaps it is my dislike of this sort of process which leads people to say that I am unduly rational.
But I would put to these men a dilemma: since reason consists in a just adaptation of means to ends, it can only be opposed by those who think it a good thing that people should choose means which cannot realize their professed ends. This implies either that they should be deceived as to how to realize their professed ends, or that their real ends should not be those that they profess. The first is the case of a populace misled by an eloquent fuehrer. The second is that of the schoolmaster who enjoys torturing boys, but wishes to go on thinking himself a benevolent humanitarian. I cannot feel that either of these grounds for opposing reason is morally respectable.
There is another ground upon which some people oppose what they imagine to be reason. They think that strong emotions are desirable, and that no one who feels a strong emotion will be reasonable about it. They seem to think that any person who feels strongly must lose his head and behave in a silly manner which they applaud because it shows him to be passionate. They do not, however, think in this way when self-deception would have consequences that they would dislike. No one, for example, holds that a general ought to hate the enemy so passionately as to become hysterical and incapable of rational planning. It is not, in fact, the case that strong passions prevent a just estimate of meahs. There are people, like the Comte de Monte Cristo, who have burning passions leading them straight to the right choice of means. Do not tell me that that worthy man's aims were irrational. There is no such thing as an irrational aim except in the sense of one that is impossible of realization. Nor are cold calculators always conventionally wicked. Lincoln calculated coldly in the American Civil War and was roundly abused by the Abolitionists who, as apostles of passion, wished him to adopt measures that looked vigorous but would not have led to emancipation.
I suppose the essence of the matter is this: that I do not think it a good thing to be in that state of insane excitement in which people do things that have consequences directly opposite to what they intend, as, for example, when they get themselves killed in running across a street because they could not stop to notice the traffic. Those who praise such behaviour must either wish to practise successful hypocrisy or be the victims of some self-deeception which they cannot bear to surrender. I am not ashamed of thinking ill of both these states of mind, and if it is for thinking ill of them that I am accused of excessive rationality, I plead guilty. But if it is supposed that I dislike strong emotion, or that I think anything except emotion can be a cause of action, then I most emphatically deny the charge. The world that I should wish to see is one where emotions are strong but not destructive, and where, because they are acknowledged, they lead to no deception either of oneself or of others. Such a world would include love and friendship and the pursuit of art and knowledge. I cannot hope to satisfy those who want something more tigerish.