バートランド・ラッセル(著)『科学の眼』(創元社)への序文
* 出典:バートランド・ラッセル(著),矢川徳光(訳)『科学の眼』(創元社,1949年12月刊。10+362pp.* 原著:The Scientific Outlook, 1931.
* 矢川徳光(1900-1982.02.23):長崎県出身の教育学者。ソヴィエト教育学研究会会長
訳者序文 (1948.06.20 記)
本書「科学の眼」とは Bertrand Arthur William Russell(1872- )の著書 The Scientific Outlook(1931)の全訳であります。
バートランド・ラッセルはイギリスの持つ世界的な数学者であり、哲学者であるとともに、文明批判者としても優れた人であります。彼はケンブリッジ大学の Trinity College で学び、卒業後は母校の講師およびフェローとなり、王立学会の会員ともなって、記号論理、数理哲学の研究者、また新実在論の哲学者として知られるようになりました。だがまた、自由主義的文明批判者としては、その最初の著書 German Social Democracy(1896)から、Power; a new social analysis(1938)にいたるまでの間に、多くの社会評論を公にして、世界的な注目をひいてきました。本書「科学の眼」は、文明批判者としてのラッセルの最も優れた著述であります。
ラッセルは、第一次世界大戦(1914~1918)のころは、その戦争が国際資本主義の戦争であることを暴露し、あくまで非戦論をとなえて政府の戦争政策に反抗したため、ついにケンブリッジ大学における教職を奪われたばかりでなく、1915年に出版した評論集 Justice in War Time に現れた反戦論と平和思想とのために1916年9月には行動の自由を制限され、さらに1918年には6ヵ月のあいだ投獄されていました。彼は、かつて2回イギリス首相の地位についたことがあり、当時としては進歩的な政治家であった伯爵 John Russell(1792-1878)を祖父に持つ貴族の出でありますが、彼が固執する誰はばからぬ自由主義的・批判的言動のために、そういう束縛を受けたのです。この論集のために罰せられたことに抗議した公開文の中で、彼がつぎのように言ったのは有名なことであります。
「国外に出かけてドイツ人と戦うことが、ほかの人びとの義務であるのと正に同じように、国内にいて暴政と戦うことは私の至上の義務である。私は如何なる点の考慮からも、精神の自由の一片だに割くことを欲しない。肉体の自由は人間から奪いとることができる。だが、精神の自由は人間の生得権であるから、世界のいかなる軍隊も政府も、その本人の協力がなければ、これを彼からもぎとることはできない。」
彼がひどく恐れた「もう一つの世界戦争」(本書、p.308)であった第二次世界大戦中の彼の言動がどうであったかについては、訳者は残念ながら、まだ何も知っていません。でも、いづれにせよ、彼が Roads to Freedom(1918)以来考えている世界の連邦的組織と自由との理想、また、この「科学の眼」の中では、「世界政府」として説いており、Which Way to Peace?(1936)の中でも、同じ思想を強調しているあの平和組織の理想のために、あくまで戦ったことと思われます。訳者が彼についての最近のニューズとして知りえたことは、彼が1947年9月30日にオランダのアムステルダム大学で原子力の問題について講演をした時、「もし戦争がここ1、2年の間に起るとすれば、原子爆弾は一方的に使用され、戦争は短期間に終ろう。世界平和への希望は米国の原子力管理案にある。何となれば、それが世界政府への重要な第一歩となるからである。」と説いたという報道(「朝日新聞」)だけであります。(松下注:マスコミ報道は、発言の一部しか引用しないため、注意が必要)
本書「科学の眼」は、その3つの部分の構成が示しているように、科学と技術と社会とに対する彼の展望であり、批判であります。本書の論述の全体を織りなしている思索のたて糸は、人間が首尾一貫して科学的であることは(科学者自身にとってさえも)困難であるということであり、そのよこ糸は、感情に根ざす信仰が、言いかえれば、神学的な物の考え方(科学者でさえもその魔力にしばられることがある)が、人類に禍いしているということであります。彼が Religion and Science(1935)の結論の中で、
(右挿絵:第54回読書会案内状より)
「神学的視野に対立するものとしての科学的視野の拡大が、今日まで、幸福への道を開いてきたことには、議論の余地はない。」と言っているように、不屈の合理主義と知識に対する不動の信念とが人類の進歩の原動力であると、彼は信じています。しかし、科学と社会との、いな科学と国家との現在のような結びつき方が続くかぎり、科学文明の未来は宿命的な暗いものであると、彼は考えています。その暗さからの血路は、彼に言わせると、知性の自由の確立と文化価値の再確認とにあるのです。
この知性の自由をおびやかす力は--彼によれば--今日は「1660年以来」かつて見ぬほど大きくなっているのであるが、それは、今日はキリスト教会の力なのではなくて、政府の力であります。そこで、
「古い形式の迫害が亡んでゆくのを得意そうに喜んでいないで、新しい形式の迫害に抗議することが、科学者たち、および科学的知識の価値を知るすべての人たちの、明白な義務である。」(Religion and Science, p.252)と、彼は言います。本書「科学の眼」の最後の章の「科学と価値」は、右のようなラッセルの警告を念頭におきながら読むべきものと思います。そこで、--蛇足ながら--本書の第3部を読まれる場合には、ラッセルの真意をあやまらないようにするために、第17章をさきに読んでおかれる方がよくないかと、訳者は考えています。
本書に対する批評として訳者の目にふれた中での最も注目すべきものは、イギリスの共産党員であり、生物学者であり、文明批判者として世界的に有名な J. B. S. Haldane(1892-1936)がその著 The Inequality of Man(1932) の中の一章 A Mathematician Looks at Science(数学者の見た科学であります。それをそのまま紹介する自由を私たちは持ちませんから、その要点をお知らせすると、つぎのように言えるのです。
--ラッセルは科学をどこまでも数学者の眼で見ている。つまり、言葉や記号の問題として見ている。観察や実験(現実と取り組むこと)の問題としては、握んでいない。そこで、ガリレオについては、望遠鏡の製作のことは言わず、ニュートンについては光学の実験のことは言わす、ダーウィンについては、動植物の育種実験のことは言わないのである。ラッセルの考え方は「非常にアカデミック」である。生物学の方面では、わずかながら誤ったことを言っている。だが、そういう限界はあっても、彼が、科学と宗教との関係を批判し、また、科学的技術を社会問題に応用する方面について言っていることは、「どの科学者にも納得のゆくものである。」 特にラッセル特有の才気のあらわれているところは、エディントンとジーンズとを批判している部分である。全体として、「本書は大いに読まれる価値がある。」 人びとはそこで勇敢な科学的視野に接することができる。然し、それはどこまでも、ラッセル個人の科学的視野であることを忘れてはならない。「科学について科学的に思索する技術は」、「ロシアの著者たちの著作」以外のところでは、「まだ生れていないのである。」--ホールデンがここで言っている「ロシアの著者たち」とは、正しくは誰たちのことであるか、訳者にはわかりません。しかし、彼がここに指摘している本書の中でも重要な章である第4章と第5章とを読む人の中には、レーニンの「唯物論と経験批判論」を思いだす方があると思います。ラッセルが、現代の物理学者や生物学者の中には、自分たちが明らかにした法則」あるいは無法則--から、妙な飛躍をして、神を論証しようとする(ホールデンはそういう「神作り」を「知性のずぼら」と呼び、ラッセルは「知的弛緩」--本書、p.132と言っています。)もののあることを、そこで批判していることは、レーニンがあの当時(1908年)「現代物理学の危機の眼目」は、一流の物理学者の中には、自分たちが明らかにした物質の構造についての解釈をもとにして、「物質は消滅した」と説いて、「露骨な信仰主義」にすべりこむものがある点を批判したのと、似かよったところがあります。この2人がその本質的な立場を異にしていることは言うまでもありませんが、「神学的視野」に対して、「科学的視野」を防衛しようとしている点では同一であると言えるでしよう。ともに、科学者が「世界像」から「世界観」へ移る場合の態度についての警戒であります。
しかし、以上にのべたような点に注意しながら読まれる読者には、本書は科学および社会の在り方について示唆するところが極めて多いはすです。ことに、社会に関する部面では、第12章で、日本の明治維新とソ連とについてのべていることや、第14章で、アメリカ合衆国と中国とを、現代文明の壊滅を救う力と見ようとしていることなどは、それに対する賛否はともあれ、今日のわれわれに深く考えさせるものを持っています。
ラッセルは、かつて1921年(大正10年)に、アメリカと中国とでの講演の帰りに日本にも立ちよったことがあり(松下注:あくまでも中国からの帰り)、そのころ読書界でも、ひとしきりもてはやされたことがあります。その後も、彼の著書の邦訳が出て、その名は親しまれていますが、実際には、広く読まれた思想家とは言えないようです。でも、ちかごろ、彼がまた人びとの注意をひきはじめたのは喜ばしいことです。例えば、彼の「哲学の諸問題」の新しい邦訳が出たり、季刊雑誌「思想の科学」(第1巻第3号:昭和21年12月)が彼の新著「西洋哲学史」について深切(ママ)な合評を特集したりしています。それは本書の読者にはぜひ読んでいただきたい合評です。彼の多くの著書の中で邦訳されている主なものには次のようなものがあります。
・Problems of Philosophy(1911→1912の間違い:新井慶(訳)「哲学の諸問題」、昭和21年(別に2種の邦訳あり)
・Scientific Method of Philosophy(1914):松本悟朗(訳)「哲学における科学的方法」、大正11年
・Principles of Social Reconstruction(1916):村上啓夫(訳)「社会改造の原理」、昭和4年(「世界大思想全集第45巻)
・An Introduction to Mathematical Philosophy(1919):宮本鐵之助(訳)「数理哲学概論」、大正11年
・Thoughts and Practice of Bolshevism (1920):前田河広一郎訳「ボリシェビーキの理論と実際」、大正10年(The Practice and Theory of Bolshevism の間違い)
・Marriage and Morals(1929):福永渙(訳)「結婚と新道徳」、昭和5年
この邦訳は、実は昭和14年の春に訳稿ができあがり、創元社から出版する予定だったところ、第12章で「天皇」が問題になっているので、出版不可能となったものです。そこで、終戦後、旧稿の全体に手を加えた上、昭和21年4月に紙型にまでなったところ、また止むなき事情のために出版がおくれて、ここ(1948年)にやっと公になりました。その間、創元社の各位に大変おせわになりました。特に平田寛氏と近藤伝之助氏とには負うところの多いものです。記して感謝の心をあらわします。
本書の訳文の中で角括孤〔 〕でかこんだ言葉は、内容をわかりやすくしたいために、訳者がつけ加えたものです。「かなづかい」は以前の国語調査会案のものです。かつて、創元科学叢書第3巻(昭和16年4月)の拙訳、サリヴァン著「科学の限界」に、当時としては一般の慣習を破って、同じ様式を用いたことをかえりみて、感慨深いものがあります。