バートランド・ラッセルのポータルサイト

バートランド・ラッセル『幸福論』(みすず書房版)への訳者(片桐ユズル)あとがき

* 出典:バートランド・ラッセル(著),片桐ユズル(訳)『幸福論』(みすず書房、1959年6月刊。208+iii pp。)
* 原著:The Conquest of Happiness, 1930
* 片桐ユズル(1931~2023年10月6日):1953年早大文学部卒。

訳者あとがき(1959年6月)

 この本は Bertrand Russell, The Conquest of Happiness の訳である。初版は一九三〇年に出たが、多くの版をかさね、ポケット版にもなったりしている。
 もとの題名「幸福の征服」が示すように、幸福は棚ボタでなく、努力して獲得するものである。この意識的な努力のしかたが、ふつうの幸福論とちがう、とおもう。いつのまにか、幸福についてとか、人生論とか、そういったものはケイベツするようになっていたが、ラッセルのこの本は、みなおした。
 この本は、一言でいえば、ドライな幸福論である。ふつうの幸福論は、感情をおもんじなさい、という。その結果、ウェットで保守的なものが多い、ような気がする。また、たいてい、理性、論理、科学、機械というようなものは、幸福の敵ということになっているのではないか? しかし論理が、なぜ、幸福の敵であるのか? 偽善をはぎとるからだろう。
 ラッセルはまず、いろんな偽善とか、情緒とか、そういう皮をはぎとり、生物的なものだけにしてしまう。すると、愛、ねたみ、権力欲、こども、など基本的なものを、あるがままにみとめ、その有益な役わりと、限度をはっきりさせる。感情をたいせつにしなさい主義者はまた、自分をたいせつに、とかいうが、これはいたるところで不健全な内向症として、コッピドクやっつける。反ロマン主義である。われわれのあいだでロマン主義のひとつのかたちとして、「被害妄想狂」がたくさんある。関心をそとに向けることが、いちばん強調することである。
 精神分析のかんがえ方は、偽善をひきはがすのにずいぶんつかっているが、無意識の意識に対する影響はいままでずいぶん論じられたが、意識が無意識をどのように変えていくかは、無視されていたのに反し、ラッセルは、訓練によって、無意識を変えていこうとする--無意識とて一種の習慣なんだから、合理的な信念をくりかえしたたきこめば、合理的な無意識をもちうる。
 けっきょく、この幸福のかんがえ方をささえているのは、生物学的本能にまでひきさげて欲望をドライにはだかにして、それをみとめることと、関心をそとへ向けなさいということ。べつの言い方をすれば、わたしを宇宙の、大地の一部、アミーバから未来へむかってながれる生命のながれの一部(したがってこどもがたいせつ)、人類の進歩に一役かっているという、この宇宙的意識である。方法としては、理性、意志、論理、科学(機械に対するプラスの評価)などが幸福にいたるために動員される。
 ラッセル自身はじめにことわってあるとおり、社会的問題にふれないで、個人の気のもち方、努力、習慣の変更などで、どうにかなる範囲のものだけをあつかっている。また、いちおう、生活の保証はあるものとしてかんがえている。その点、きわめてイギリスの貴族的で、それ以外の人間にはあてはまらないんじゃないかという人もいるが、それはちがうとおもう。たしかに、一九三〇年のラッセルは、青年が社会正義のため献身できる国々、ソビエト、中国、日本などをうらやましがっていたが、いまの日本はそうではなく、かなり当時の西欧みたいになったところがある。また、社会がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない、という人もいるが、社会をかえる努力はしながら、やはり個人の幸福をもとめる権利も行使するべきだろう。「不幸な社会 → 不幸な個人がやけになって → 不幸な社会をより不幸にする、という悪循環」はどこかで切らなければならないからだ。そして、おれの青春は社会改革にささげたことをもしギセイと感じれば、かならずどこかで復しゅうがある、自分に対して、ひとに対して。できる努力があったら、どこででもするべきだ。
 この本は、ロマン主義の一手販売のようにみえる幸福論を、反ロマン主義でかがやかしく成功した。おしむらくは、この本をよんで一番なおしてほしい内向症の人たち、これらのウェットな人たちは、発想からして反発を感じて読んでくれないのではないか? そしてドライ派は、はじめから幸福論なんか見むきもしないかもしれないが、もしなんかの機会でこの本を手にしたら、読んで、ドライ派の信念をかためてほしい。そして自分の中に古くさいものを発見したら、根こそぎして、もっとドライになってほしい。
 ただし、この本はあくまでも個人主義的で、論理実証主義者的ケッペキで、社会組織の問題にふれそうになると、まえがきでのべた限界にとどまる。「世間の目」などは興味ぶかい章であるが、既成のモラルに反対するにも、つねに個人の勇気に期待し、サークルなど集団を組むことなど考えもおよばない。この点は、限界でもあり、長所でもある(松下注:最初にラッセルが断っているように、社会や社会制度に関係する問題は、Education and the Social Order, 1932 のような、他の著書で触れている。)
 一九三〇年といえば、またラッセル自身、わたしはビクトリア(朝)時代にながく生きすぎたかもしれないと言ったり、ふるいみたいであるが、どうも、ぼくは、中間文化論の加藤秀俊氏をおもいだしてしょうがない。
 ラッセルのような論理実証主義者にかぎらないが、幸福とか実証不可能なものを論じるときに英語では、I believe, It seems to me, almost, usually というような条件つきで仮定をのべるが、その仮定の上にまた次の仮定というふうに強引にどんどん進めていく。これが日本語に訳すと出にくいが、この本ぜんたい、Russell believes ... なことは、ことわる必要もないだろう。彼の文体は、センテンスはルーズであるが、スピードがある。一回なんか単語をおもいつくと、何ページもそればかりつかう--「書く」ということを意識しない、のびのびしたものである。

 さいごに、この本の訳をすすめてくださった市井三郎、鶴見俊輔、それから早川令子、片桐ヨウコ、屋部憲次郎のたすけがなかったら、このしごとはできなかった。それからわからないことをおしえてくれたのは、都立杉並高等学校の図書館と升川潔、村木正武、これらのみなさんに感謝します。
 一九五九年六月   片桐ユズル