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小川仁志「ラッセル 幸福論」角川文庫・復刊版(角川ソフィア文庫)への解説

* 出典;バートランド・ラッセル 幸福論(堀秀彦 訳,角川書店,2017年10月刊。294pp. 角川ソフィア文庫 G206-1)への解説
* 原著:The Conquest of Happiness, 1930.
* バートランド・ラッセル 幸福論 (松下彰良 訳)

復刊版への解説(小川仁志)

波乱万丈の人生

 『幸福論』の著者、バートランド・ラッセル。彼は自分自身の人生を振り返り、自らの経験に基づいてこの本を書いたといいます。つまり、自分の人生は幸福だったと認識しているわけです。そこで、最初にラッセルがどういう人生を送ったのか簡単にご紹介しておきたいと思います。そのほうが、彼の書いていることがよくわかると思うからです。

 ラッセルは、名家に生を受けたのですが、早くに両親を亡くし、祖母に育てられました。祖母からは厳しいピューリタン教育を受けたようです。思春期には色々と思い悩み、自殺願望を抱きますが、「数学をもっと勉強したいという欲望」が自分を救ったといいます。
 大学に進学すると、哲学にも興味を持ち始め、前半生は哲学によって数学を基礎づけることに力を入れます。そうして、数学を論理の言葉で表現する数理哲学研究の分野で大成します。その成果が、ホワイトヘッドと共に著した『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』でした。
 その後ラッセルは、徐々に政治に関心を示すようになります。第一次世界大戦がきっかけで、人間の非合理性に気づいたのがきっかけです。面白いのは、政治を研究するだけにとどまらず、積極的に活動を行った点です。また、55歳のときには、自由主義教育を行うための学校(ビーコン・ヒル・スクール)を創設し、そこでの教育の傍ら58歳のときにこの『幸福論』を刊行するに至ります。
 第二次世界大戦が終わると、長年の平和活動が評価され、時代の寵児として各国で講演を開始します。78歳のときには、イギリス最高の名誉である勲功章及びノーベル文学賞を授与されています。その行動力は終生衰えることなく、83歳でラッセル・アインシュタイン宣言を発表し、95歳のときにはベトナム戦争を裁くためのラッセル法廷(国際戦争犯罪法廷)を開催しています。
 このように、科学をベースに哲学を論じたという点で、また数学から幸福や平和に至るまであらゆる分野を網羅したという点で、ラッセルはまさに20世紀の知の巨人だったといっていいでしょう。
 この行動する哲学者としての波乱万丈の人生を重ね合わせつつ、『幸福論』を読んでいただくと、きっとより深く楽しめるものと思います。

『幸福論』の特徴

 では、『幸福論』とはいったいどのような本なのか。原題は、The Conquest of Happiness といいます。そのまま訳すと、『幸福の獲得』です。幸福とは獲得すべき能動的な営みであるととらえる、ラッセルの根本思想がよく表れているタイトルだといえます。なお、訳者の堀秀彦さんは『幸福の奪取』と訳されていますが、奪取だと奪うというニュアンスが強いような気がするので、私は「獲得」という訳語を使っています。

 この語の通り、同じ幸福論でも、「三大幸福論」と呼ばれる他の哲学者アランやヒルティと比べると、ラッセルは実際の行動を最も重視します。また、精神論にとどまらない論理性を備えている点も特徴的です。

 彼の論理性は全体の構成にも表れています。『幸福論』の全体を二つに分け、第一部では不幸の原因分析を行うと同時に、思考をコントロールすることでその原因を取り除く解決策を提示しているからです。続く第二部では、自分の関心をどんどん外に向けつつ、同時にバランス感覚を忘れないようにすることで幸福になる術を提案しています。

 それからもう一つ忘れてならないのが、ラッセル一流のウイットとユーモアでしょう。彼の知性あふれるウイットとユーモアが、痛烈な皮肉とユニークな喩えを生み出しているのです。『幸福論』に限らず、彼の著作が時代を超えて多くの人たちに読み継がれているのには、そうした理由があるように思えてなりません。

不幸の原因分析

 さて、ラッセルがまず不幸の原因分析を行ったのはなぜか。それは、問題の本質を明らかにする前提として、原因分析を徹底的に行う必要があると考えたからです。第1章では、総論として「何がひとびとを不幸にさせるのか?」と題し、不幸の最大の原因である自己没入とその三つのタイプ、罪人、自分自身をかわいがる者(ナルシシスト)、誇大妄想狂の存在を指摘しています。そのうえで、以下の章において、これらの要素をさらに具体的な不幸の原因に分類し、分析していきます。

                               まず第2章「バイロン風な不幸」。いわば理性によって厭世的になってしまうことです。ラッセルはそれでは本末転倒だといいます。自分で勝手に不幸な世界観を作って、そこに閉じこもろうとするのですから。でもそれは決して現実ではなく、あくまで自分の作り上げた世界観に過ぎないのです。

 第3章「競争」。皆、競争して勝つことが成功だと思っています。あるいは競争してお金を手にする。これらはいずれもある一点までは幸福をもたらしますが、その一点を越すと不幸になるのです。なぜなら、成功は幸福の一つの要素でしかないからです。そのために他のすべての要素を犠牲にしてしまっては、決して幸福にはなれません。

 第4章「退屈と興奮」。人間は現在の状況と想像上のもっと快適な状況とを対比することで、退屈してしまう生き物なのです。だからその反対は快楽ではなくて、興奮だといいます。人間が狩猟するのも、戦争するのも、求愛するのもすべて興奮を求めるからです。とはいえ、過度の刺激はきりがない。だから幸福になるためには、ある程度退屈に耐える力を養う必要があるわけです。

 第5章「疲労」。疲労が不幸の原因なのは容易に想像ができると思いますが、中でもラッセルは神経の疲労を重視します。心配からくる疲労が、人を不幸にするのです。そしてそれは、思考をコントロールする能力に欠けていることに起因すると指摘します。

 第6章「嫉妬」(注:もっと広い概念の「ねたみ」と訳すべき)。ラッセルは、嫉妬は人間の感情の中に最も深く根ざしている最も一般的なものの一つだといいます。嫉妬が人を不幸にするのは、自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出そうとするからです。

 第7章「罪悪感」。ラッセルはこれを成人の生活のなかの不幸をつくりあげている深い心理的原因としてとらえています。特に、その罪悪感が無意識の中に根源をもつ場合、一段と深いところに達するものになるといいます。そしてその原因を、幼児期の道徳上の教えに見出しているのです。おそらくこれはラッセル自身の体験に基づいているのでしょう。

 第8章「被害妄想」。ラッセルはそれを病気と呼び、大なり小なりはぼすべての人々がかっているといいます。そして、万人が自分をいじめていると感じている限りは、幸福になることはとうてい不可能だと断言するのです。

 最後は、第9章の「世論に対する恐怖」。人はその生き方や世間に対する考えが、関係をもっている人々から賛成されるのでない限り、幸福になれないといいます。特に、一緒に生活している人びとからの賛成がない場合、不幸になってしまうのです。

不幸の原因の解決策

 以上のような不幸の原因を挙げると同時に、ラッセルはそれを解決するための方策についても論じています。一言でいうと、それは「思考のコントロール」としてまとめることができるように思います。思考のコントロールとは、考えるべきことを、考えるべきときに十分に考える力だといっていいでしょう。それは精神を訓練することによって可能になるもので、そうしてはじめて幸福を能動的にとらえることができるようになるのです。以下、先はどの不幸の原因に対応させる形で具体的に見ていきたいと思います。

 バイロン風な不幸を避けるためには、不幸な世界像を勝手に作り上げないようにせよということに尽きると思います。バイロン風の不幸とは知的ペシミズムですから、知性や理性をうまくコントロールすることによって、そんなふうに使わないようにすればいいのです。

 競争の解決策はどうか。ラッセルは、競争して成功したとしても、バランスをくずしてしまっては幸福になれないといいます。その意味では、ここでも意志のコントロールが必要になってくるのでしょう。焦る気持ちや、はやる気持ちをある程度抑えるということです。

 退屈に関しては、それに耐える力をある程度持っていることが、幸福な生活にとって不可欠だといいます。つまり、退屈を恐れるあまり過度の興奮を求めるようでは、返って不幸になってしまうからです。退屈から逃げるのではなく、むしろ静かな生活を楽しむ力を育てるほうが幸せになれるということです。そのためには思考をコントロールする必要があるわけです。

 疲労について。ラッセルは、不幸の原因としての疲労は心配から来ていると考えます。だからこそ、きちんとした精神を養うことで解決できるというのです。ここでラッセルは、「神経の衛生」なる学問を提案します。それは物事を考えるべきときに上手に考える習慣のことです。

 嫉妬(注:ねたみ)についてはどうか。ラッセルは、嫉妬の本質は決して物事をそれ自体として見るのではなく、他との関係において見ることにあると分析しています。でも、それではその物事自体を楽しむことは永遠にできません。世の中、上には上が必ず存在しますから。だから無益なことは考えない習慣を身に付けよと説くのです。

 罪悪感については、時に無意識の中に根源をもつという話でした。そしてそれが不幸の原因になるのだと。その原因が禁欲主義にあるとみるラッセルは、それをかなぐり捨てる必要があると考えます。
 そのためには、そそもそも幼少期の道徳1の教えに配慮しなければならないといいます。つまり、不合理な罪悪感を起こさせるような愚かな教育をしてはいけないというのです。

 被害妄想に関しては、精神病医の扱うべき問題だとします。そのうえで、より穏やかな形の被害妄想については、不幸の原因として、自分自身でなおす余地があると考えます。
 つまり、何人も完全であることを期待すべきではないし、また、完全でないからといって不当に悩むべきではないというのです。被害妄想は自分の美点をあまりに誇大視するところに原因があるからです。

 最後は世論に対する恐怖です。ラッセルの解決策はこうです。もしも本当に幸福を可能にしたいのであれば、世論の暴力が幾分でも弱められるか、ないしは回避されるような方法を見つける、あるいは環境を変える。さらに世論を無視せよともいうのですが、それとは別に、今までのそのやり方が通用しないものがあるという指摘もしています。
 新聞に書かれるというケースです。今ならネットでしょう。この害悪に対する究極的な治療法は、一般大衆が一段と寛容になることだといいます。まさに現代社会ににの通じる慧眼といっていいでしょう。

幸福になる方法

 次に、第二部の幸福を獲得するための具体的方法について解説していきたいと思います。ここでは特に、「バランス」というキーワードに着目し、それに関係する方法を紹介したいと思います。というのも、ラッセルは色々な意味でのバランスこそが幸福をもたらすと考えているように思われるからです。

 ここで紹介するのは、第一部とは異なり、必ずしも不幸な人がその原因を取り除くことで幸福になれるというものではなく、誰もがより幸福になるための方法だといっていいでしょう。
 ラッセルは、幸福になるための具体的な方法を提示する前に、総論のような形で、第10章「いまでも幸福は可能であるか?」において、予備的考察を行っています。そこで論じられているのは、何かに熱中することの意義であるように思います。
 だから「幸福の秘訣は次のごときものであるーすなわち、諸君の関心、興味をできるかぎり広くすること、そして、諸君の興味をそそる人や物に対する諸君の反応をでき得るかぎり、敵対的ではなく友誼的たらしめること」だと断言するのです。以下、具体的に幸福になるための要素を確認していきたいと思います。

 まず第11章の「熱意」について。ラッセルは幸福になるためには熱意が大事だと主張する一方で、それにもバランスが求められるといいます。彼は空腹の比喩を挙げているのですが、大食漢のように食べ過ぎるとかえって不幸になるということです。むしろ健康な食欲をもって食べるのが望ましいのです。
 秀逸なのは、ソーセージ製造機の喩えでしょう。ソーセージ製造機は、豚を取り込んでソーセージを作るから幸せなのであって、いくら熱意をもっていても、それを自分の内部のみに向けていると、幸せにはなれないのです。自分はいい機械だと思い込むだけでは、何も生み出せませんから。

 第12章「愛情」について。幸福は愛情からもたらされるといいます。つまり、愛情が自信をもたらし、自信が安全感を抱かせる。そうした心の習慣が源となって、熱意が生まれ、それによって人は幸福になるという理屈です。
 ただし、どんな愛情でもいいわけではありません。「最もいいタイプの愛情」が求められるのです。それはお互いに生命を与え合うものと表現されるように、愛情をバランスよく同じだけ与え、同じだけ受け取る関係にほかなりません。

 第13章「家庭」について。ラッセルはここで親子の関係について論じています。そしてここでもバランスのとれた関係こそが幸福を招くとします。そのためには、親が子供の人格に対して尊敬の念を抱く必要があるといいます。そうでないと、求めすぎるか、求めすぎないかのいずれかになってしまって、幸福になれないからです。

 第14章「仕事」について。そもそも、仕事は退屈の予防策になるし、休日を楽しくしてくれるといいます。おまけに、成功のチャンスと野心を実現する機会まで提供してくれる。
 ラッセルは、その仕事を面白くする二つの要素に着目します。熟練と建設です。技術を向上させる喜びは、幸福につながるということです。建設というのは、比喩であって、あらゆる仕事に通ずるものです。何かを築き上げていく喜びが幸福をもたらすということです。

 第15章「非個人的な興味」について。ラッセルは、いくら仕事が面白いとしても、それだけではだめで、趣味をもつことが幸福につながるといいます。非個人的な興味とは imersonal interests の訳なので、むしろ「私情をはさまない興味」といった感じでしょうか。仕事を離れて純粋に楽しめる趣味こそが、人生にバランスをもたらす内です。

 第16章「努力とあきらめ」について。ラッセルの主張は、幸福を獲得する点にありますから、当然そのための努力が大事になってきます。しかし、同時にあきらめも重要だというのです。そうでないといつまでも無理なことを追い求めて、かえって不幸になってしまうからです。
 その際、あきらめにも二種類あるとしています。一つは絶望に根差すもの。もう一つはどんなにしてもおさえきることのできない希望に根ざすもの。後者については、人類のためのより大きな希望の一部であった場合は、徹底的な敗北ではないといいます。あたかも逆境のなか平和活動に邁進するラッセルが、自らに言い聞かせているかのようです。

 結局、幸福な人とはどういう人なのか? これについてラッセルは、最終章の第17章「幸福な人間」で結論めいたものを述べています。つまり、「幸福な人間とは、客観的に生きる人である、自由な愛情と広やかな興味をもてる人である」というのです。
 客観的な生き方の意味について、ラッセルは明確な答えを示していません。ただ、「諸君自身のうちにもぐり込まないようになるや否や、はんとうの客観的興味がでてくるものだ」といった主張からすると、やはり主観にとらわれることなく外に向けられた生き方でほないかと考えていいように思います。

『幸福論』の先にあるもの

 これまで見てきたように、ラッセルの幸福論は、あくまで個人が幸福になるための方法論でした。でも、どんなにしてもおさえることのできない希望や、宇宙の視点から人類が続くことを熱く語っている点に鑑みると、そこに平和を希求する意志を読み取ることができるように思えてなりません。
 実際彼は、第二次世界大戦によって、いかなる戦争も正当化されないという絶対主義の立場に転換し、以後、平和活動に晩年を捧げています。個人の幸福は、社会との統合なくしてはあり得ないと認識していたからでしょう。だからこそ社会が危機に陥っていることを自覚したラッセルは、平和を獲得するための活動を始めたのだと思います。言い換えるとそれは、人間が幸福を獲得するための活動にはかならなかったのです。
 したがって、今この日本においてラッセルの『幸福論』を読む意義としては、大きく二つ挙げることができるように思います。一つ目は、自己を否定しがちな現代社会の風潮に抗うという点。負け組やひきこもりといった負のラベリングが、人々をますます不幸にしている現実があるからです。だからこそ、ポジティブに幸福を獲得しよぅという気持ちを醸成する必要があるのです。
 二つ目は、今一度平和の意味が問い直されるべき時代状況です。国際社会が不安定化し、憲法改正が叫ばれる中、ラッセルがやったように幸福という視点から平和を考え直す必要があるように思えてならないのです。
 個人の幸福と世界全体の幸福はつながっています。ラッセルの『幸福論』は、時代の文脈を超えて、私たちに幸福になることの意味と具体的な方法を提示してくれているのです。
 二〇一七年九月 小川仁志