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バートランド・ラッセル(著),安藤貞雄(訳)『幸福論』(岩波文庫版)への訳者解説

* 出典:バートランド・ラッセル(著),安藤貞雄(訳)『幸福論』(岩波書店,1991年3月刊。294pp. 岩波文庫・青649-3)
* 原著:The Conquest of Happiness, 1930.
* 安藤貞雄氏略歴
バートランド・ラッセル 幸福論 (松下彰良 訳)

訳者解説


ラッセル英単語・熟語1500
 現代イギリスを代表する思想家であり、20世紀最高の知性の一人であるバートランド・ラッセル(1872~1970)は、3世代にわたって、厳密な数理哲学者、理性の情熱的な提唱者、独断的・情緒的な思想の批判者、活動的な平和主義者として活躍しつづけた。
 自伝によれば、ラッセルの生涯を支配したのは、「単純なしかし圧倒的に強力な3つの情熱」であった。それは、「愛(情)への欲求」、「知識の追求」、「人類の苦しみに対する耐えがたいまでの同情」である。
 初期のエネルギーの大半は、「知識の追求」のために費やされた。この時期の仕事には、『ライプニッツの哲学』(1900年)、『数学原理』(全3巻、1910-1913)、『哲学の諸問題』(1912年)、『外界についてのわれわれの知識』(1914年)などがある。
 中期の仕事は、象牙の塔を出た社会改革者として、「人類の苦しみに対する耐えがたいまでの同情」に動機づけられた、より幸福な世界の創造のために捧げられた。こうした努力は、哲学・数学・科学・道徳・教育・歴史・宗教・政治などの諸分野にわたる100冊に近い著述として結実した。『社会改造の諸原理』(1916)、『結婚と道徳』(1929年)、『西洋哲学史』(1945年)などが、この時期の主な仕事である。
 後期は、この2つの情熱が「1つの全体としてまとまった」時期である。ラッセルは、この時期、核兵器廃絶やヴェトナム戦争反対などの平和運動を展開し、89歳のときには、核兵器反対の座り込みをしたかどで7日間拘留された。
 ラッセルを一生涯駆り立てたもう1つの情熱、「愛情への欲求」は、80歳にして4度目の結婚をしたときに叶えられた。妻イーディス(Edith)によってはじめて、「陶酔と安らぎ」を得たのである。

 ラッセルが『幸福論』(原題『幸福の獲得』1930年)を書いたのは、58歳のときであった。これは、当時のベストセラーであり、現在でもロングセラーである。このころ、彼は教育の理想を実現しようとして、妻とともに私立学校(Beacon Hill School)を経営していた。そして、1926年には『教育論』(岩波文庫所収)を、1932年には『教育と社会秩序』を書いた。人間のあり方、理想的な人間像に向けて情熱を傾けていたのである。(右イラストは、第21回「ラッセルを読む会」案内状より)
 『ラッセル幸福論』は、現代世界にあって不幸に苦しんでいる数多くの男女のために、深い同情と無比の誠実さをこめて書きおろした、幸福獲得のためのストラテジーである。あるいは、不幸をのがれるための処方箋である。「はしがき」によれば、この処方箋は、すべてラッセル自身の経験と観察によって確かめられたものであり、それに従って行動したときは、つねに彼自身の幸福をいやましたものであった
 『ラッセル幸福論』の特徴は、アランのそれのように文学的・哲学的でもなく、ヒルティのそれのように宗教的・道徳的でもなく、人はみな周到な努力によって幸福になれる、という信念に基づいて書かれた、合理的・実用主義的(プラグマティック)な幸福論である点にあると言えようか。
 『ラッセル幸福論』は、大きく2部に分かれる。第1部「不幸の原因」では、現代の大部分の男女が苦しんでいる不幸の諸原因が分析され、それをのがれる方法が示唆されている。第2部「幸福をもたらすもの」では、幸福をもたらす諸原因が論じられている。
 以下、本書の構成について、章ごとにその概略を述べることにしよう。

 第1章「何が人びとを不幸にするのか」――第1部の総論である。普通の、日常的な不幸は、大部分、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるものであり、著者の目的は、こういう不幸に対して1つの治療法を提案することである。
(右イラストは、第28回「ラッセルを読む会」案内状より)
 第2章「バイロン風の不幸」――おのれの不幸は宇宙の本質のせいであるとし、不幸こそが教養ある人のとるべき唯一の態度である、とするようなペシミスティックな考えは誤りであり、理性は決して幸福を禁止するものではない。また、こうした不幸をのがれる道は、いたずらに現代を嘆き、過去をなつかしむことにあるのではなく、もっと勇気をもって現代的なものの見方を受け入れ、もろもろの迷信をその薄暗い隠れ場所から引き出して、根絶やしにすることである。
 第3章「競争」――幸福の主な原因として、競争に勝つことが強調されすぎており、そのことが不幸の原因になっている。これに対する治療法は、バランスのとれた人生の理想の中に、健全で静かな楽しみの果たす役割を認めることである。
 第4章「退屈と興奮」――現代人は退屈を恐れ、興奮を追求している。幸福な生活は、大部分、多少とも単調な生活に耐えて静かな生活を送ることであり、静かな生活こそが偉大な人びとの特徴である。現代の都市に住んでいる人びとが悩んでいる退屈は、彼らが大地の生から切り離されていることと深く関係している。
 第5章「疲れ」――大部分の現代人は、神経をすりへらすような生活を送っているが、そうした神経の疲れは主に心配に起因するものである。そういう心配は、よりよい人生観を持ち、精神の訓練をすることで避けられる。たとえば、大きな心配ごとをかかえているような場合は、最悪の事態を真剣に考えて、結局、これは大したことにはなるまいと考えるに足りる理由を見つければよい。なぜなら、人間に起こることは、何ひとつ宇宙的な重要性を持っていないからである。ラッセルの言う「意識的な思考を無意識の中に植えつける」というテクニックは、非常におもしろい。たとえば、相当むずかしいトピックについて書かなければならないような場合、可能なかぎりの集中力をもって、数時間ないし数日それについて考え、そのあとは、この仕事を地下で続けよ、と無意識に命令する。何か月かたって、そのトピックに意識的に戻ってみると、その仕事はすでに終わっている、というのである。
 第6章「ねたみ」――心配ごとに次いで、ねたみが不幸の最も強力な原因の1つになっている。自分よりも幸運だと思っている人びととの比較をやめるならば、ねたみからのがれることができる。文明人は、自己を超越することを学び、そうすることで宇宙の自由を獲得しなければならない。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)
 第7章「罪の意識」――罪の意識は、よい人生の源泉になるどころか、人を不幸にし、劣等感をいだかせ、人間関係において幸福をエンジョイすることができなくさせる。罪の意識は、伝統的な道徳の命じるがままに、愚かにも自己に注意を集中することから生じるものであり、この意識から解放されるためには調和のとれた性格を作りあげなければならない。すなわち、人は自分が理性的に信じることについては、断固たる決意をもっているべきで、たとえつかの間であれ、不合理な信念に支配されてはならない(ピューリタニズムの伝統を持たず、したがって罪の意識の薄い日本人にとっては、この章の論旨はすれ違いになるかもしれない。)
 第8章「被害妄想」――この情念は、いつも自分の美点をあまりにも誇大視することから生じる。自己欺瞞に基づく満足は、おしなべて堅実なものではない。ゆえに真実がどんなに不愉快なものであっても、それに直面し、それに慣れ、それに従って自分の生活を築きあげなければならない。
 第9章「世評に対するおびえ」――世評に対する恐れは、他のすべての恐れ同様に、抑圧的で、成長を妨げるものである。この種の恐れが強く残っているときには真の幸福を成り立たせている精神の自由を獲得することが不可能になる。
 第10章「幸福はそれでも可能か」――この章は、第2部の始まりであり、第2部の総論である。幸福の秘訣は、「あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そしてあなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ」ということである
 第11章「熱意」――幸福な人を特徴づけるものは、熱意である。人生に対する熱意があれば、外界への自然な興味がわき、人生が楽しくなる。男性にとっても、女性にとっても、熱意こそは幸福と健康の秘訣である。
 第12章「愛情」――熱意の欠如の主な原因の一つは、自分は愛されていないという感情である。愛されているという感情は、何にもまして熱意を促進する。自我の牢獄を抜け出した人の特徴は、本物の愛情を持ちうることである。愛情を受けとるだけでは十分ではない。受けとられた愛情は、与える愛情を解放しなければならない。両者が同量に存在する場合にかぎって、愛情は最上の可能性を達成する。
 第13章「家族」――両親の子供に対する愛情と、子供の両親に対する愛情は、幸福の最大の源の1つになるはずなのに、現代ではそうなっていない。現代世界にあって親であることの喜びを満喫することは、子供の人格に対する尊敬の念を深く感じられる両親にしてはじめて可能である。従来、自己犠牲的だと称されている母親は、大多数の場合、わが子に対して異常に利己的である。何でもいい、専門的な技術を身につけた女性はたとえ母親になっても自分自身のためにも社会のためにも、自由にこの技術を行使しつづけるべきである。
 第14章「仕事」――建設的な仕事から得られる満足は、人生が与える最大の満足の1つである。人生を1つの全体としてながめる習慣は、知恵と真の道徳のどちらにとっても絶対必要である。首尾一貫した目的は、幸福な人生のほとんど不可欠の条件であり、それは、主に仕事において具現化される。
 第15章「私心のない興味」――私心のない興味とは、ある人の人生の根底をなしている中心的な興味ではなく、その人の余暇を満たし、真剣な関心事のもたらす緊張を解きほぐしてくれるような2次的な興味である。不幸なときによく耐えるためには、幸福なときに幅広い興味を養っておくのが賢明である。
 第16章「努力とあきらめ」――中庸というのはおもしろくない教義であるが、多くの事柄において真実の教義である。中庸は、特に、努力とあきらめとのバランスに関して必要である。必要な態度は、人事を尽くして天命を待つ、という態度である。あきらめには2つの種類がある。1つは、絶望に根ざすもので、もう1つは、不屈の希望に根ざすものである。個人的な目的が人類のための、より大きな希望の一部である場合には、たとい挫折したとしても、完全な敗北ではない。
 第17章「幸福な人」――本書のまとめの章である。「幸福な人」とは、自分の人格が内部で分裂してもいないし、世間と対立してもいない人である。そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙の差し出すスペクタクルと、宇宙が与える喜びとを存分に享受する。また、自分のあとにくる子孫と自分とは別個の存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない。このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見いだされるのである。

 本書の翻訳は、Bertrand Russell: The Conquest of Happiness (Allen & Unwin, 1930)の第10刷(1948)を底本として行なわれた。1箇所の誤植は、普及版の Unwin paperbacks(1987)によって訂正した(ただし、後者は残念ながら、別なところで数多くの、ときに重大な、誤植を含んでいることを指摘しなければならない)
 本書には、以前2種類の邦訳があり(現在絶版)、参照させていただいた。なお、訳文の傍点をほどこした箇所は原文のイタリック体を表し、*は原注の所在を、(1)、(2)、(3)……は、巻末の訳注の通し番号を示している。
 ラッセルの文章は、おおむね論理的で明快であるが、ときとして晦渋(かいじゅう)である(それは、教養ある英米人ですら解釈を異にすることがあるのを見ても明らかである)。翻訳の正確を期するために、第1訳稿が完成したあとで、いささかでも疑義のあるところは、ポール・スコット、マイケル・ラザリンの両博士の意見をただした。
 参考文献の探索については、いつものことながら、広島大学と関西外国語大学の図書館に一方ならぬお世話になった。
 岩波書店の鈴木稔氏からは、本書の企画から出版の最後の段階まで行きとどいたご配慮をいただいた。
 ここに記して、以上のかたがたのご厚意に厚くお礼を申しあげたい。
 1991年1月 瀬戸内海を見はるかす寓居にて 安藤貞雄