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バートランド・ラッセル(著),堀秀彦(訳)『幸福論への』訳者解説(1969年12月)

* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦(訳)『幸福論』(角川文庫・白28-2,1952年7月刊/改版=1970年刊。282pp.)
* 原著:The Conquest of Happiness, 1930
バートランド・ラッセル 幸福論 (松下彰良 訳)
* 堀秀彦氏に関する新聞記事


 バートランド・ラッセルという、この現代の思想的巨人について解説を書くのは容易なことではない。容易でないどころか、私にはとてもできそうもない。第一、私が読むことのできたラッセルの本は、彼の実にたくさんな全著作の十分の一にも満たない。その上、彼の画期的な学問的業績である『プリンキピア・マテマティカ(Principia Mathematica. 3 vols.)』(『数学原理』,1910-1913年)は、数学のできない私にはその1ページも読めない。そういうわけで、これから書く解説は解説ではなくして、「ラッセルについて」といった、私の単なるメモにすぎない。ラッセルの伝記、その思想、その人となりについて全般的に知りたいと思う人には、私はちゅうちょなく、次の本をすすめる。
 アラン・ウッド著『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』(碧海純一訳,みすず書房,昭和38年刊)

 この本はまことにおもしろい。おそらく、学者の伝記としては第一級のものであろう。「生後わずか3日目に、頭をもたげて、実に精力的に周囲を見まわした」というこの天才の誕生から書き起こし、80歳を越えてはじめて「X嬢のコルシカでの冒険」という小説を書く――こういう幅の広い、しかも底の深いひとりの現代哲学者の全貌をこれほどわかりやすく,その上おもしろく描いた本はそうそうめったにあるものではない。私は伝記を読むことが好きで、いままで何冊もいろいろな伝記を読んだが、このウッドの『ラッセル』はその中でも一番おもしろかった本のひとつだ。ラッセルに興味をもつ読者にはぜひすすめる。ところでこのウッドも思想家としてのラッセルについて、こう言っている。
 「何かひとつの特定の学説にラッセルの名を冠することによって彼の哲学を要約することは不可能である」と。
 だからこそ、私は安心して「解説」を書くなんてことは私にはできないと書けるのだ。


ラッセルの言葉366
 バートランド・ラッセル――もっと正式に書けば、Bertrand Arthur William Russell, 3rd Eearl Russell)は、1872年5月、ウェールズのトレレック(Trelleck)というところで、貴族の子供として生まれた。そして驚くべきことに今日(1969年12月)なお元気である。日本ラッセル協会の日高一輝氏に昨年きいたところでは、現在は2階に上がったきりで、いっさい外出しない生活だそうだが、その知的活動は少しも衰えを見せていないという。彼は2歳の時母を失い、4歳の時父を失った。そのため祖父母のもと(ロンドン郊外の Richmond Park 内にある Pembroke Lodge)で養育されることになった。祖母のラッセル卿夫人は、古風な清教徒主義と自由主義と、この2つの生き方を同時に持つ女性であった。厳格で同時に快活であった。幼い日のラッセルは、この祖母から大きな影響を受けた。ラッセルは、貴族の子供としてきびしくしつけられた。彼が、生涯、服装をきちんとし、礼儀正しい人間としてふるまうことを好んだのも、たぶん、このためだったろう。彼は学校に行かなかった。その代わり、いくたりもの家庭教師によって教育を受けた。(注:ケンブリッジに入る前に「速成塾」で短期間勉強している。)その家庭は自由な精神を持つ哲学的な少年にとってはけっして住みよいところではなかった。10歳を越えて、ものを自由に考えるようになった彼は、家族の者とほとんど口をきかなくなる。15歳のころ、彼が「ギリシャ語の練習帳」(という秘密の日記帳)に書き込んだ問題は、神、宇宙、自由意志といったふうにきわめて根本的な問題で満たされている。たとえば、その一部を紹介しよう。
「――ぼくは神を信ずる。神を信ずる理由を見出すのに、ぼくはただ科学的論拠をのみ考慮しようと思う。この科学的論拠に立つということが、ぼくがあらゆる感情を肯定したり拒否したりする際に意を用いた誓約なのである。それで、神を信ずることにたいする科学的根拠を見いだすためには、ぼくは万物の始めに立ちかえらなければならない」(『ラッセル自叙伝』第1巻、日高一輝訳、理想社刊)

 ここにはすでに後年無神論者とならざるをえなかったラッセルの考え方を一貫している科学的なものの見方、合理的精神がはっきりと現われている。それにしても、いま引いた文章は15歳の少年の文章なのだ。なお、この自叙伝は1959年から1962年にかけて書き始められ、まもなくベストセラーになった本であるが、私はいつもこのようなすぐれた人の自伝を読むごとに、「どうしてこんなに幼い日、若い日のことをこれらの人たちはこんなに丹念に逐一覚えているのか」と感心してしまう。自叙伝はさまざまな人と取り交わした手紙やその時々の思い出によって綴られているのだが、どうしてこのようにきちょうめんに、そうした手紙その他を保存していたのであろうか。人生に対する考え方が、そもそも、私たちとは異なっているのだろう。そうとしか考えられない。彼はこの自叙伝の中ではじめて性についての雑談を同じ年ごろの少年といっしょにしたこと、それがばれてパンと水しか与えられなかったこと、15歳の時がまんができず自慰に走ったこと、そしてこの自慰の習慣を20歳になって突然やめることができたのは恋愛をしたからだ、といったようなことを、率直に書いている。
 ところで、この『自叙伝』(The Autobiography of B. Russell, v.1: 1967)のまえがき、「わたくしは何のために生きてきたか(What I have lived for)」という短い文章の一部をここに抜き書きするのは、私の解説としては先走りしすぎることになるかもしれない。けれども、その文章はラッセルの生き方を最も簡明にまとめたものとして、ここに引かずにおれないのだ。その冒頭にいう。
「わたくしの人生を支配してきたのは、単純ではあるが、圧倒的に強い3つの情熱である――愛への熱望、知識の探求、それから人類の苦悩を見るにしのびず、そのためにそそぐ無限の同情である。」
 第一の「愛への熱望」とは異性に対する愛情のことだ。彼が3度も離婚し、4度も結婚したこと、そして彼の著書のうち最もポピュラーな1冊が離婚と性の自由を説いた『結婚と道徳』(Marriage and Morals, 1929)であったこと、をついでに書き添えておく。
 さて、彼はいまも述べたようにケンブリッジ大学に入るまでは学校教育を受けなかった。彼がパブリック・スクールに入らなかったのは、祖母がこれを好まなかったからだ。彼は陸軍士官学校受験生のための「速成塾」(crammer)に入った。彼はそこで18ケ月の間に普通の生徒なら6年以上もかかる古典の知識を身につけ、ケンブリッジ大学入学者のための奨学金をもらうことになった。18歳の時だ。このケンブリッジのトリニティ・コレッジでは数学を勉強した。そしてこのコレッジで、彼はホワイトヘッド(後に、さきにあげた『数学原理』の共著者となる)、G.E.ムーア(倫理学)、あるいはトレヴェリアンの3人の兄弟(末弟のトレヴェリアンは歴史家として日本でも有名)と知り合った。コレッジの4年の時、数学から哲学へと向かった。哲学では当時のケンブリッジの影響の下に、彼はへーゲル主義者になった。とにかくこの大学時代に彼は「知識のよろこび」を満喫した。
 22歳、彼は自分より5歳年上の女性を熱烈に恋し、祖母の反対を押し切って結婚した。こうして彼の現実の社会における、まことに多方面な活動がその第一歩を踏み出した。新婚の夫婦はドイツに行った。ドイツの社会主義運動を研究した。最初の著書『ドイツ社会民主主義』(German Social Democracy, 1896)が刊行された。英本国ではフェビアン協会の人々と親しくなり、ウェッブ夫妻とは特に親密になった。マルクス主義を勉強した。が、彼は共産主義者にはならなかった。彼に言わせれば、マルクス主義の階級闘争理論は「すべての人間が永遠の生命と完全な先見の明をもち、専ら経済的な動機によってのみ行動する」という前提に立つものだ。だが、人間は専ら経済的動機で動くものではない。それどころか、後年ラッセルが、「権力-1つの新しい社会分析(Power; a new social analysis, 1938。みすず書房から邦訳書刊)で説いているように、人間は権力欲で動くものだ。―
 ところで、こんな調子で長い年月にわたるラッセルの生活や行動を書いていくとなったら、とてもだらだらと長いものになる。私は彼のいままでの生涯におけるハイライトを幾つか列挙することにとどめよう。

 それにしても彼の人柄というか性格について、一言書いておかねばならない。幼年期から青年期へかけて彼は全く内向的な、はずかしがりやであった。一方できわめて合理主義的でありながら、他方ではピューリタン的禁欲主義者であった。大学時代、彼は毎日自分のきらいなことをひとつだけするという義務をみずからに課したほどだ。徹底した禁酒家であった。酒は一時的に人間を錯乱状態におとしいれるものだというのが彼の考え方だ。その代わりにタバコのほうは、大変なヘビー・スモーカーであった。(松下注:ラッセルは、年をとってからはスコッチウィスキーをたしなむことはしている。)新婚当時のころの彼ら夫婦の生活について、ウッドは次のように書いている。
 「9時、書斎で朝食を共にする。ラッセルは12時半まで数学の研究。それから45分間、夫婦は互いに本を朗読してきかせる。15分間庭を散歩し、午後1時半に昼食、それから妻の弟(兄のハズ。日高一輝訳『ラッセル自叙伝』誤訳が原因と思われる。)とクローケ競技(croquet:ゲートボールのようなもの)の手合わせ。4時半にお茶、それから6時までまた数学、7時半まで妻と朗読、8時に夕食、9時半までウェッブ夫妻と雑談、また1時間朗読、10時半消燈。」
 ウッドによれば、ラッセルは視覚型ではなく、聴覚型だという。だから、ここでもたびたび朗読という時間が出てくるのだろう。それにラッセルは原稿を書くとき1字も訂正の必要のない原稿を一気に書き上げる。あるいはまた口述する。つまりものを書きしゃべる前に、頭の中で完全な文章が1字1句すでにでき上がっているわけだ。考えてみるまでもなく、これは驚くべきことだ。『意味と真理の探究』(An Inquiry into Meaning and Truth, 1940)を、わからないところをとばしとばし読んだときにも、これだけの著述が講義(ハーヴァード大学におけるウィリアム・ジェームズ記念講演、1940)の再録であったことを知って、私はほんとうに驚いた。
 ラッセルの性格の特長の一つは、激しい情熱と同時にひややかな冷静とが不思議に同居していることだといわれる。彼は友人と議論することをこの上なく好んだ。しかも、そうした議論の中にも、さらにまた、さまざまな人々との会話の中にも、彼はいつもウィットとユーモアをさしはさむ。ラッセルのユーモアやウィットは、たとえばバーナード・ショウのようなウィットとは違って、話の中の問題を論理的に発展させることによるユーモアだと、ウッドは言っている。たとえば、あるとき、彼が激しい調子でカントを批判したところ、彼の話をきいていた1人がラッセルにこう言った。
 「カントは母親に対して深い思いやりをもっていた。たといカントの哲学体系が忘れられるようなことがあっても、この事は記憶されるでしょう」。するとラッセルは即座にこうやり返した。「カントほどの偉大な哲学的才能よりも、その母親に対する思いやりのほうが稀な資質であるというようなシニカルな考え方を私はうけ入れることができない」
 論理的なユーモアあるいは皮肉とは、このような言い方なのだ。ついでに言っておけば、ラッセルの通俗的な著書の文章のもつおもしろさ、その卓抜さは、このような論理的な思考についての明白な言いまわしのおもしろさであり、さらにまた、彼が文中に好んで引く「たとえ」の奇抜さおもしろさのためだ。その文章は驚くほど透明で簡潔である。しかも、そのたとえや論理の卓抜さのために、読者を少しもあかせない。

 ホワイトヘッドとの共著である「プリンキピア・マテマティカ」全3巻は、第1巻が1910年、第2巻が1912年、第3巻が1913年に刊行された。しかもこのような学問的著述をしながら、彼は一方において政治にも関心を持った。彼は1907年に自由貿易擁護のために議会に立候補した。選挙では敗れた。彼は政治家になることはできなかった。だが「ラッセルは政治家として成功するには余りにも非妥協的であった」というトレヴェリアンのラッセル評に、ウッドも賛成している。
 1914年に第1次世界大戦が起こった。彼は戦争を憎んだ。こんな時代に生きているくらいなら1914年以前に死んだほうがましだとも言った。彼は平和運動に身を投じた。次いで「徴兵反対同盟」の委員会の会員になった。そのころ、A.エヴェレットという良心的徴兵拒否者が陸軍にとられ、命令不服従のかどで重労働2年の判決を受けた。ラッセルはこのことに抗議するパンフレットを書いた。そのため「帝国軍隊の徴募および軍律を危うからしめる発言」をしたという理由で裁判にかけられ、罰金100ポンドを言い渡された(1916年)。
 この年に『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)が出版された。米国版ではこの本は『何故人々は闘争するのか』(Why Men Fight)という題で出版された。日本では改造社がこの翻訳を出した。おそらくラッセルの本が日本に紹介された最初のものであった。(松下注:高橋五郎訳の『社会改造の原理』は、1919年11月に出版されている。)私の中学時代のことであった。この本の出版はラッセルの生涯にひとつの転機をもたらしたと、ウッドは書いている。つまりこの本によってラッセルは哲学者としてのみならず、一般の読者にも呼びかけうる著者となったからだ。同時にこの本を出版したアンウィン(Allen & Unwin)という出版社からその後彼のほとんど全著作が出版されることになったからだ。
 この本の出版その他によってラッセルははっきりと英国政府からにらまれる人物となった。彼の唱える平和運動は祖国を裏切り祖国を売るものだと考えられた。ラッセルが週刊誌「トリビューナル」(The Tribunal)に書いた論文のため、彼は裁判にかけられ、6ケ月の禁固刑を言い渡され、1918年ブリクストン監獄に入れられた。(写真は、ロンドン郊外にある Brixton Prison)彼はこの監獄の中で『数理哲学序説』(An Introduction to Mathematical Philosophy, 1919)を書いた。出獄後、『精神の分析』(The Analysis of Mind, 1921)が出版された。第1次大戦を通して、ラッセルは自由主義者から社会主義者に変わっていった。だが彼の主張する社会主義はシンディカリズム(syndicalism)であって、国家社会主義ではなかった。1920年、彼はロシアを訪問した。そして失望した。『ボルシェヴィズムの理論と実践』(The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)が出版された。この本の中で、プロレタリアートの「独裁」は、やはり一種の「独裁」であると批判した。
 1920年、彼は新しい2度目の妻(ドラ)といっしょに中国を訪問し、しばらく中国に滞在した。中国というよりは支那人をラッセルは大変好きになった。「ギリシャ人も支那人も生活をエンジョイすることを愛した。――けれども、両者の間には大きなちがいがある。ギリシア人たちは、芸術と科学と戦争にその精力を傾けた。けれども支那人は怠惰であった」。ラッセルが中国を愛したのは中国人の示すこの寛容な怠惰のためであった(『怠惰礼讃』(In Praise for Idleness and Other Essays, 1935)この『怠惰礼讃』は、私が自分の父親の書斎で見つけ、私がはじめて読んだラッセルの本であった。
 中国から帰ってからラッセルはほとんどペンと講演のみで生活することになる。彼はアメリカに講演旅行をする。アメリカについての彼の感想は「電話がうるさい」ということであった。アメリカ人たちが浅薄で皮相なのは、講演だけで何でも知ったつもりになることからきているのだとも言った。
 1926年、彼の『教育論』(On Education)が出版された。ラッセルは教育ということに大きな関心を長い間一貫して寄せてきたが、この『教育論』は、主として幼年期のそれを取り扱ったものであるが、その第2章「教育の目的」という1章は彼の人生観をきわめてきちんとまとめたものとして、私はずいぶんと教えられた。彼は教育の理論に興味を持っただけではない。1927年には、新しい実験学校、Beacon Hill School を妻といっしょにやりだした。(写真は、Beacon Hill School 食事の時間)それは子供の自由を大幅に尊重する学校であった。そしてそれゆえに学校の生活は混乱し、結局、成功しなかった。子供を完全に自由にさせておいたのでは教育はできない。だから、少なくとも、約束を守らせる、清潔にさせる、他人の財産を尊重させる、安心感が得られるに足るだけの日課が必要だということ――彼は、後年、このように、子供の自由を(ある程度)制限しなければ、教育はだめだと言っている。
 1929年、『結婚と道徳』(Marriage and Morals)が出版された。彼はこの本の中できわめて大胆に性の自由を主張した。一夫一婦婚を強制することは、人間を不幸にすることにほかならないとも書いた。さらにまた、男も女も、性の経験なしに結婚するのはよくないとも書いた。
 1930年代、彼は何冊も通俗的な書物(popular books)を書いた。『幸福論』(The Conquest of Happiness, 1930)もその一つであり、その他、『科学的なものの見方』(Scientific Outlook)、『宗教と科学』(Religion and Science, 1935)などがそれだ。1938年、「権力論」(Power; a new social analysis)が書かれた。社会の変化を生み出す強力な力の一つは人間の持っている(権)力に対するあくことのない欲望だというのが主旨であった。1936年、『平和への道』(Which Way to Peace)が書かれた。徹底的な平和主義が説かれ、英国のさまざまな人々から非難された。「もしイギリスが平和主義政権下にあるときに、ヒトラーがこの国を攻撃したら、われわれは観光客でも来たつもりでその軍隊を親しみをもって歓迎すべきだ」――こういうことばを当時の人々がどうしてうけいれることができようか。(松下注:このあたりは誤解を与えやすい。第2次世界大戦の初期の頃は、ドイツとの戦争をラッセルは支持しなかったが、ヒットラー及びナチスに対しては嫌悪をいだいており、1940年に英国が侵略の脅威を受けてからは、ドイツの侵略をとめるための戦争=第二次世界大戦は、やむえないものとして支持にまわっている。)とにかく、『平和への道』出版の3年後、イギリスは第2次世界大戦に突入した。戦争中、ラッセルはずうっとアメリカにいた。カリフォルニア大学の教授をした。次いで、ニューヨーク市立大学に招かれたが、英国教会の監督(bishop)がラッセルをもって宗教と道徳に反する宣伝家であるとして、横槍をいれて邪魔をした。アメリカでの彼の生活は不幸なものであった。経済的にも恵まれなかった。ラッセルは英国のアンウィン社に援助を求めた。そしてその結果、生まれたのが『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)の大著だ。第一級の哲学者自身が哲学史を書いたということは、哲学史としてははじめてのことだ。いま日本でも3冊本として、みすず書房から刊行されているが、ただの学説史あるいは思想史ではない。そのときどきの政治と社会の状況とに関連させて描いたものであり、おそらくこれほど厚味のあるおもしろい哲学史はないだろう。
 「この本をほめること自体が潜越になるほど、多くの長所をもった本だ、だからその欠点だけを記そう」と、ウッドは巧妙な言い方でこの本を紹介している。
 1944年にラッセルはやっと英本国に帰った。母校のトリニティ・コレッジに招かれてゲンブリッジに帰って来たラッセルは、大変な歓迎を受けた。「かれの講義には一番大きい教室があてられたが、それでも入り切らない学生たちが列をつくるほどであった」(ウッド)。いまやラッセルの思想家、哲学者、平和主義者としての名声は世界じゅうに広がった。英本国の思想界ではウッドの表現によれば「大御所」であった。
 1950年、英国王の授与しうる最高の勲功賞を、つまり日本でいえば、文化勲賞をバッキンガム宮殿で与えられた。78歳になってオーストリヤに招かれた。各大学ではラッセルを招いてセミナーが開かれた。オーストリヤから帰り、また講演のためにアメリカに渡った。
 ノーベル賞が授与された(1950年)。(写真は、ノーベル賞受賞時の食事風景)
 1948年、『人間の知識一その範囲と限界』(Human Knowledge, its scope and limits)という最も重要なしかしきわめて難解な本が出版された。「人間の知識はすべて不確実、不正確、かつ部分的である」というのがこの本の結論であった。
 1954年、『倫理と政治における人間社会』(Human Society in Ethics and Politics)が刊行された。この本は2部から成っている。第1部は「倫理」、第2部は「情熱の葛藤」。そしてこの第2部すなわち政治に関する部分の第2章は、ノーベル賞授賞のとき、ストックホルムで講演されたものだ。倫理学は他のすべての科学と違って、事実ではなく。人間の感情(feeling and emotions)を取り扱う。つまり意志の問題ではないという。2人の人間の感情ならびに欲望がお互いに相いれえないときに争いが起こる。だから、他人の感情や欲望と「共存」(compossible)できるようなものだったらよいと言わねばならぬ。この第1部で展開された倫理論を政治や国家に適用したものが第2部だ。その最後の章は「プロローグかそれともエピローグか?」という題名になっており、このように書かれている。
「ヒトラーとスターリンによって計画的に数百万の人々に加えられた苦しみを考えるとき、そして更にこの2人が辱しめた種族が他ならぬ吾々自身であることを思うとき、(「ガリヴァー旅行記」の)ヤフー達のほうが、そのあらゆる堕落にも拘らず、現代の大国家で現に権力を振っているある種の人間たちよりもはるかに怖るべきものでないことが容易に感じられる。ずっと昔、人間の空想力は地獄を描いた。けれども、彼らが空想したところのものに人々が現実性を与えうるようにさせたものは、近代の技術である」。だが、それでも、私はなおかつ明るい人類の明日について、輝しいヴィジョンを持っている。「誰もが飢えず、病めるものはきわめて少く、その仕事は楽しくしかも過度にわたらず、親切な感情が一般に行きわたっている」ような未来を考える。そのような未来は絶対に不可能なものではない。そのような明日が来ることはないかも知れない。けれども1000年以内には来るだろう。
――こんなふうに、彼は人間の未来の知性に信頼をかけている。調子の高いきわめて説得力の強い本だ。
 1954年ラッセルは、水爆問題についてきわめて感動的な放送講演を行なった。「あなたがたが今、あなたがたの人間性を想い起すことがないならば、全人類の死があるのみである」と。放送は大きな反響を起こした。彼は共産・反共産の両陣営の科学者たちに呼びかけて水爆の恐ろしさを世界に警告する声明を出した。日本の湯川秀樹博士もそれに署名した。ラッセルはすでに83歳になっていた。かつてオーストラリア旅行中の記者会見を行なったあとで、シドニーの新聞はこう書いている。
「ラッセルは一方では我々にはげましを与えてくれた。それは全く彼の無尽蔵の活力と快活さのせいである。この世界には原子爆弾もあるが、しかしまたラッセルのような不屈の人間精神もやはり存在するのだ」
 ウッドはこのような新聞の記事でその本を書き終えている。確かにラッセルはただの哲学者ではない。彼の自叙伝の冒頭の文章を私はさきに紹介したが、彼は3つの情熱によってその長い生涯を貫き通して生きてきたし、また生きている。彼にもう100年の寿命を贈ることはできないものか。

 2.その思想について(断片的に)

 ラッセルは数学から哲学へと進んだ。数学を論理と1つにした。たとえば、2+2=4という数学の式を、カントは例の「先天的総合判断」という深遠な思想によって説明した。だが、ラッセルは、ある論理的な命題が同時に真でも偽でもあるというようなことはありえない、2+2=4 はそのような単純な論理上の原則と異なるものではないと説明する。
 ラッセルは論理と心理を峻別した。つまり人間の思考の法則と論理とは違うというのだ。たとえば、「我思う(考う)、故に我あり」というデカルトの有名な提言は、ラッセルに言わせれば、「思考が思考者を必要とすると考えることは、文法にあざむかれることである」。自分がなにか考えているということは一つの心理である、この心理を楯にとって、だから「考えるものがある」というのは、心理と論理とを無雑作につなぐことにほかならない、考える心理と考える実体の存在とは別々の事柄である、というのだ。
 さて、論理は一口で言えば言語(ことば)によってささえられている。ことばを正確に分析し正確に使うのでなければ、論理は必ずあやまちをおかす。いま例にあげたデカルトの「我思う(考う)」うんぬんの公式もことばの不正確な使い方からきたものだといえる。ラッセルはこのようにしてことばの吟味を教えてくれる。
 たとえば、「犬」ということばを例にとってみる。人が「犬」ということばを言う場合、それは「ことばの上での発声」(Verbal utterance)である。ところでこのことばを聞く人にとっては、それは「言語的な騒音」(Verbal noise)である。さらにこのことばによってそこに成立するところの物理的対象をラッセルは「ことばによる形」(Verbal shape)と呼んでいる。ところで、語られたことばとしての「犬」はいかなる実体でもない。それは現実に生きている「犬」とは違ったものだ。それにもかかわらず、私たちが「犬」と言う場合、ことばとしての犬と実体としての犬とが同時に言われてていることになる。私たちが「犬」ということばを言うとき、その「犬」は一般的(universal)なことばである。ところで、実体としての犬は、ある種の四足動物として、一般的ではあるが、そこに実体としている犬は、一般的なものではない。簡単に言えば、犬一般と犬とを、犬ということばによって、いっしょくたにして考えるとき、犬について、あるいは犬という理念によって、私たちはプラトン的な考え方を持つようになる。――ラッセルはこんなふうに分析してみせる。あるいはまた、「よりいっそう」(than)とか「しかしながら」(however)といったことばは、一定の文脈の中でのみ意味を持つことのできるものだ。つまり、それらのことばは、他のことばを予想し前提としているものだ。その意味で、「犬」といったような「対象語」(object word)とは違ったものである。そしてこの対象語が、ただの発音されたことばである場合と対象に即して言われる場合と、同じものであるところにさまざまな問題が出てくる。言語が、それによって事実を述べることも、同時にそれによって虚偽を述べることもできるということは、言語の持つ複雑で興味深い面を示すものだ。ラッセルはこの「対象語」について、難解な分析を展開してみせる。彼が文章(Sentence)にではなく、この対象語について、分析と思索を進めていくのは、ことばの低い段階(たとえば未発達な人間の用いることば)においては、対象語がすなわち文章でもあるからだ。「ドロボー」という対象語は、「そいつをつかまえろ」という命令文章を表わしている。
 彼の思想は分析哲学といわれている。私はここで「分析」ということばの説明をしておこう。ものについて考える場合、私たちはそのものをどこまでも広い関連において考えることができる。一本の万年筆の存在の意味を考えるにしても、たどりたどっていけば、しまいには、物、人間、自然、宇宙といったふうに考えることができる。そしてそんなふうに、あらゆるものを、壮大に、無制限な拡張的思考で考えていくとき、私たちは結局五里霧中の中をさまようことになる。眼というものを考えるとき、光を考え、太陽を考えるとしたら、収拾がつかなくなる。だから、眼を考えるときは、眼をその内部構造や働きに一応限って考察するよりほかはない。そしてそういう考察のしかたを彼は分析と呼ぶ。つまり、ものを考える場合、そのものを遠心的にではなく、いわば集中的に考えることなのだ。
 ラッセルのこのような種類の本を、少しずつ繰り返し繰り返し読みながら、私がいつも感ずることは、私の頭の悪さと、ラッセルのたぐいなく鋭く、こまかな、そして正確な分析のしかたとその分析を言語で言い表わすときのすばらしい表現力に対する驚きである。彼のポピュラー・エッセイズ(通俗評論)は、前にも述べたように、その意表をついた比喩や理屈のためにとてもおもしろく読める。けれども一度専門的な哲学のものになると、私の頭はもはや一度読んだくらいでは、とてもついていけない。

 その懐疑的な考え方について

 前にも述べたように、ラッセルの思想はこれを特定の思想としてきめつけることができないものだ。快楽主義的な考え方があり、論理主義的思想があり、かと思えば心理的な見方も入っている。フロイトの無意識の理論を一時は人間解釈のための重要な方法と考えてもいた。つまり、ラッセルの取り上げた問題の領域がおそろしく広く多方面にわたっているということ、しかも、他方では彼が徹底的に独断論(dogumatism)を退けていること、同時に可能なかぎり合理的な考え方をあらゆる問題について一貫して適用していること、そして最後には、絶対に確実な知識はたぶんないだろうと断定していること、このような事情を考えてくると、どうしてもラッセルの考え方を、特別の意味で、「懐疑主義的」と呼んでいいだろう。たとえば、なにもかも疑わしい、この世にこれがほんとうだと絶対に信頼すべきものはひとつもない、だから、すべてはあいまいで、いい加減であり、でたらめだ、といったふうな、いわば虚無的(ニヒリステック)な懐疑主義ではない。もし彼がそのような懐疑主義者であるとすれば、どうしてもあのように強烈な信念をもって戦争反対を長い間唱え続け、老体をひっさげて、そのためにすわりこみまでするであろうか。彼の懐疑主義は知識の探究者としてのそれであり、強烈なファナティズム(狂信主義)やドグマティズムを退けるという意味での懐疑主義とでも呼ぶべきものだ。そしてそのようにラッセルの考え方を理解しているゆえに、私は彼の考え方や思想にこの上なく引きつけられるのだ。実際、私にしたって、一番好まない人間の態度は、二言目に、「絶対に」ということばを安易に口にする態度だ。
「懐疑主義に黙従することも、独断(ドグマ)に黙従することも、共に、教育の目指すべきものであってはならない」。
―科学的な気質(Scientific temper)こそ教育のつくり出すべきものだと、その『教育論』の中で彼は言っている。つまり、科学的気質のもたらす建設的な意味のスケプティシズム(懐疑主義)、このようにラッセルの立場を言い替えることができるかと思う。「科学の結果で基礎のかたまったものならどんなものでも、わたくしは、確実な真理としてというわけではなく、合理的行動をとる一つの基盤を与えてくれる蓋然性を持つものとしてこれを認めるにやぶさかでない」と彼は『懐疑論集』(Sceptical Essays, 1928)のなかで言い、自分の唱える懐疑主義の結論を次のように3つにしぼっている。

 (1)専門家が同じ意見のとき、反対意見は確かとは思われない
 (2)専門家の意見が一致していない場合、専門家でない人はどんな意見も確かと見ることはできない。
 (3)一つの明確な意見を正しいとする十分な根拠が全くないということに、専門家全員の意見が一致した場合、普通人としては、判断を控えるのが当を得たやりかたであろう。

 御覧のようにここでは専門家と普通人という2組の人間とその考え方が持ち出されている。そして、確かに、たとえば、「電子」といった問題については、この3つの条件ではっきりする。けれども、人間とか人生とか宗教とか政治とかいったことについて、はたして、そのように専門家と普通人というふうにはっきり分けて考えることができるであろうか。もちろん、できはしない。「人生の専門家」などという人間はどこにもいない。あえていえば、こと人生に関するかぎり・すべての人が普通人であり、アマチュアだといえる。だとすれば、人生とか人間の幸福とかいった問題については、さしあたっていま紹介した3つの条項のうち、第3のものをあてはめるよりほかはないだろう。つまり、判断をさしひかえるという態度だ。
 だが、人生とか人間とかいったなまなましい生きた問題について冷静に判断を保留するということは、われわれにとって容易ではない。むしろ、こういう問題については、私たちは常にあわてて断定をしたがる。そしてこのような断定を急ぐ態度をラッセルはきびしくいましめる。「熱情とは、意見抱いている人に合理的な確信の欠けていることを示す尺度である」(『懐疑論集』邦訳 p.8)と彼は言う。まことにそのとおりなのだ。彼の場合、懐疑主義とは、ある程度の蓋然性の上に立って、「――であろう」とか、「――かもしれない」とか「――と思われる」とかいうふうに言うことである。「何もかもわからない」と突き放すことではない。そういう「勇ましい懐疑主義」は、彼のとらないところだ。
 考えてみると、私たち日本人は一般に懐疑主義を好まない。私たちは断定と結論を好む。なにかといえば、「二者択一」というやり方をとりたがる。だが、人生の問題において、二者択一といったふうに明快なことがありえようか。この道は必ず不幸に、この途は絶対に幸福に通ずる、といったふうに、だれが言えるだろうか。このように臆面もなく言ってのける態度は宗教を措いて他にはない。しかも、新興宗教になればなるほど、好んで、「絶対に」ということばを使いたがる。ラッセルな宗教を信じていない。ラッセルは哲学者である。

 3.『幸福論』について

 この『幸福論』は、前にも書いたように、1930年に出版された。ラッセルの58歳の時だ。それはけっして若い人の書いたものではない。60歳に近い思想家がまじめに書いたものだ。それにしても、50歳を越した人間がまじめに「幸福」ということを論ずるのには、みずみずしい精神が必要だ。私たち平凡な人間の過半は、50歳を過ぎればもはや幸福などということをまじめに論じたがらない。それどころか、幸福ということばに対して、一種のてれくささをさえ感ずる。まちがったことだ。この本の題名は、直訳すれば、『幸福の征服』(The Conquest of Happness)である。つまり、幸福は天から与えられたり、ひょっこり偶然に手に入れたりするものではない、ということだ。それどころか、幸福は、征服者が土地なら土地を征服してわが手中に入れるように、努力と闘いの果てに手に入れるべきものだ、ということを、題名がすでに、物語っている。このことはまず忘れないでほしい。
 ところで、幸福を努力と闘いを通して手に入れるためには、私たちはまず幸福がどういうものであるかをはっきり知っていなければならない。「青い鳥」の正体を知っていなければいけない。だが、そのように幸福の正体を具体的にとらえることは可能か。ラッセルははっきりとできないという。幸福の正体はよくわからない。わかるのは、幸福のほうでなくて、不幸のほうだ。不幸なら、確かによくわかる、金もなく、住む家もなく、着るものもなく、愛する人もいない――こういう状態で、いったい、だれが幸福でありえようか。してみれば、できるだけ不幸を避けること、人間を不幸におとしいれるようなものの見方や考え方をしないこと――それが幸福へ至るための消極的な第一歩でなければならない。人間は不幸を一挙に転じて幸福になるものではない。むしろ不幸の種を心の中からひとつずつ刈り取り、追い出していくこと、それが幸福を手に入れるための必要な準備でなければならない。こういう心理的準備が整わないままに、かりに幸福といわれているものや状態に接したところで、私たちはその場合、その幸福を、幸福として、ほんとうに、エンジョイすることができないだろう。不幸を生みだす心理的状況を内に貯えながら、物質的幸福の機会に恵まれたとしも、私たちはそれによって幸福にはならず、かえって別の意味の不幸にすらなるかもしれない。
 だから、ラッセルのこの『幸福論』はその前半を、「何が人間を不幸にさせるか」ということの究明にふりあてる。疲労、倦怠、嫉妬心、被筈妄想――そうしたものがあるかぎり、私たちはけっしてしあわせにはなれない。不幸だから、嫉妬心にかられ、被害妄想に悩まされるのか。そうではない。嫉妬ぶかく、被害をいつも恐れるからこそ、私たちは不幸になるのだ。ラッセルはたぶんこのように教えようとするであろう。そして、そのとおりだと思う。
 ところで、人間を心理的に否応なしに不幸におとしいれるものがある程度除去されたとしたら、そしてその上、私たちがこの世のさまざまなものに知的な好奇心を呼び起こされ、「われを忘れる」ことができるとしたら、私たちはまちがいなく幸福な気持で日々を送り迎えすることができるだろう。幸福とは、われを忘れることなのだ。自分はしあわせかしあわせではないか、などと自分を感傷的に振り返っているかぎり、人はけっしてしあわせにはなれない。ラッセルのこの『幸福論』は、私に実にいろんなことをじっくり教えてくれた。私はこの本によって、どれだけ「いかに生くべきか」という問題――つまり人間にとって究極的な問題に対する確実な答えを学び取ったかしれやしない。私が新書版のやすっぽい本で、偶然、この本のテキストを丸善かどこかで買い求めたのは、いつであったか、いまは記憶にもない。ただおぼえているのは、この本を1ページから読み出したときのよろこびである。文章はひとつひとつ私の頭の中へきっちりと飛び込んで行った。私はほとんど一気に読み終えた。読み終えたら、訳してみたくなった。訳し出したら、グングンと日本語にしていくことによろこびをおぼえた。たぶん、一か月そこそこで、大急ぎで、訳したと思う。読み違えもあるだろうし、誤訳もあるだろう。もちろんのこと、私はもう一度全部新たに訳しなおすのがほんとうだ。けれども、残念なことに、いまはもはやその根気も時間もない。「いいじゃないか、一通り読んでもらえれば」というふうに、私はフテブテしい言いわけを自分に対してしている。とにかくこれはいい本だ。私にとっていい本であった。