バートランド・ラッセル『幸福論』(角川書店版)への訳者(堀秀彦)解説
* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦(訳)『幸福論』((角川書店,1968年3月刊/「世界の人生論」第7巻所収)* 原著:The Conquest of Happiness, 1930
訳者解説「幸福について-アラン,ヒルティ,ラッセル」
ここに集められた3つの幸福論はそれぞれ性格を異にしている。性格という言葉が穏当でなければ,幸福を論ずるときの立場と言い代えてもよい。とにかく3人は3様の仕方で幸福について考え,どうしたら幸福になれるかを教えてくれる。その意味で,これら3つの幸福論をじっくりと読み,3つの立場を比較し,かみしめて味わうとしたら,まちがいなく,私たちはそれのどれかから幸福への道を示されると思う。・・・中略・・・。(松下注: 堀秀彦氏に関する新聞記事)
さて,これら三人の著者(松下注:ヒルティ,アラン,ラッセル)たちの幸福論の性格を,私はきわめて大ざっぱに次のように区別してもいいと思う。
1)ヒルティの幸福論は,キリスト教の信仰つまり宗教を基礎にした倫理的な幸福論である。
2)アランのそれは,人間の微妙な心理のアヤを巧みにとらえ,その上に幸福になるための技術を説いた,いわば心理的な幸福論である。
3)ラッセルのそれは,最もよい意味での常識的な幸福論である。よい意味というのは,現代の思想,哲学,人間心理をふまえた上でのきわめて合理的な常識という意味だ。
倫理と心理と包括的な常識と,これら3つの立場に立って書かれた3つの『幸福論』のなかから,私たちは十分に幸福になるための知恵を受け取ることができる。実際,私自身このラッセルの『幸福論』を,いままでどれだけ私のこころの支えとしてきたことであろう。日々の生活の折りふしに,私はいつもこのラッセルの『幸福論』のなかのさまざまな言葉を思い出したものだ。幸福論というものは「絵に描いたボタ餅」であってはならない。よんでなるほどと頭の中だけで納得したところでどうにもならない。幸福論は,人生についての理論であり,同時に,よく生きていくための実践的な処方でなければならない。ラッセル自身,この「処方」という言葉をつかっている。・・・中略・・・。
ここにのせられたラッセルの『幸福論』は,彼の著書の後半である。この本は2部に分かれている。第1部は『不幸の原因』。つまり人間を不幸にさせるものはなにか?――彼は,競争,退屈,疲労,嫉妬,罪悪感,被害妄想,世論に対する恐怖を,人間の不幸の原因だという。だが,もし私たちがいま列挙したような不幸の心理的な原因をなんとかしてとり除くことができたとしたら,それで幸福になれるか。あながち,そうは言えない。なぜなら,不幸でないということがすぐ幸福であるということではないのだから。いまあげた不幸の心理的原因を,ある程度,私たちが追放できれば,私たちの心は平穏になるかも知れない。だが,平穏無事はそのまま幸福ではない。幸福はもっと積極的なものである。
そこで幸福になるためには,やはり,人生を一貫するなにかの目的を持つことが必要だ。自分の一生を全体的に,長期的に見わたして,目的を持つことが必要だ。たてた目的に少しずつ接近していけるということ,いま自分は一歩一歩接近しつつあるということ,それが私たちに幸福を保証してくれるものだ。(写真は,ラッセル生誕記念講演会で講演中の堀秀彦氏/録音した講演)
その意味で,やはりなにか仕事を持つことが必要だ。仕事は,それに,私たちをあの退屈ということから解放してくれる,それのみではない。仕事があってはじめて,私は休暇を,怠惰を,たのしむことができるのだ。「仕事」について,ヒルティが説いているところとラッセルが説くところとは,ちがっている。この2人の仕事についての,あるいは労働についての意見をきき,これを比べて考えてみることは興味あることだ。だいたい,ここに収められた3人3様の幸福論は,前にも書いたように性格を異にしている。このような性格のちがいはどこからくるものか。やはりなんといっても国民性のちがいがその最大の理由のようにも思われる。ヒルティは,スイス人らしくきちょうめんに厳格に考える。アランはフランス人らしく軽妙にしかも英知をひらめかせて幸福を説く。ラッセルは,常識と理性を踏み台にして堅実にきちんきちんと幸福への道を示す。ラッセルは少しも興奮しない。人生を冷静に考察することをすすめる。考察してものごとをはっきり知ることをすすめる。「知識のための機会をまるっきり無視することは,劇場に行って,劇を傾聴しないのと異ならない」と言う。ラッセルの幸福論は知識主義のそれだとも言える。
だがこの世のことをはっきり知ることがどうして幸福につながるのか。むしろ,「知ることは憂いの始まり」というではないか。何にも知らないことの方が仕合わせではないか。――ひとはここでこう言うにちがいない。そして,無知にもとづくこのような幸福論はしばしばだれもが容易に口にしたがるものだ。けれども,ラッセルはそれとちがう。知ることが人間を不幸にさせるのは,知ることのなかへ好悪や愛憎の感情をしのびこませるからだ。自分自身の利害や個人的な関心を忘れて,ものごとを知るとき,知ることは,人間を不幸にするどころか,むしろ幸福にするだろう。この世のいっさいのものに対して非個人的な興味(impersonal interest)を持つこと――これこそ,私たちの日々の生活をたのしくさせるものだという。この世にはさまざまなものがある。それらさまざまなものはさまざまな興味をそそるものだ――もしそれらに対して非個人的な興味を持つことができるならば。つまり,知りたいために知ろうと思うのであるならば。たとえば,いま自分の前に座っている憎むべき人間を,憎むという感情をカッコにくるんで,いったいどうしてこういう憎ったらしい人間が生きているのか,彼の人生観は何であるのか,何故彼はこれほどまでに他人に対して憎ったらしい仕方で振舞うことをあえてするのか,――こういうふうな知的な目で彼の一挙手一投足を眺めるとしたら,私たちは彼を興味ふかい観察の対象とすることができるだろう。なんでも,物事は,観察すればするほどおもしろくなるものだ。飼い猫だってそうだ。大空の雲の動きもそうだ。女のお化粧だってそうだ。満員電車のなかだってそうだ。この世のありとあらゆるものは,見れば見るほどおもしろいものばかりだ。だからラッセルは見る(観察する)よろこび,知ることの楽しみを,幸福幸福のための秘訣として説く。
「悲しみが訪れたとき,その悲しみによく堪え得るためには,平常,仕合せな時に,ある程度の広い興味を養っておくことが賢明である」と彼は忠告する。つまり,自分自身以外のあらゆるものに知的な好奇心を持つこと,ラッセルは幸福になるための確実な手段としてこれを説く。幸福になるために幸福論を片っ端から読むよりは,かぶと虫の観察や収集を余暇の道楽として持った方がよいのだ。たしかに,これはまちがいのない「生活の知恵」である。
幸福は,非常に稀な場合を別とすれば,幸運の単なるはたらきによって,熟した果物のように,口の中へ落ちてくるものではない。だからこそ,私はこの書を『幸福の奪取』(The Conquest of Happiness)と名づけたのである。実際,この世は回避可能なさまざまな不幸,病気や心理的葛藤,闘争,貧困,悪意等に満ち満ちている。だから幸福であろうとする男も女も,その一人一人がおそいつつあるそれら無数の不幸の原因と戦う方法を発見するよりほかはない。ラッセルはこう教える。要するに自己中心的な感情をすてよと彼は力をこめて説く。自分の幸福,自分は幸福になれるか,自分はなぜいつもこんなに不幸なのか,このような自分自身を中心にした心の動きにとらえられているかぎり,人間はいつまでたっても幸福になることはできない。いったい,どうしてそんなにまでこのちっぽけな自分というものを中心にし,それに執着しなければならないのか。宇宙はこんなに広大であるというのに。――ラッセルはこのようにして,一種の知的な悟りへ私たちを導いていく。