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バートランド・ラッセルのポータルサイト


バートランド・ラッセル(著),柿村峻(訳)『懐疑論』
(角川文庫版,1965年5月刊。280pp.)

* 原著:Sceptical Essays, 1928)

*(故)柿村峻氏略歴
* 懐疑論者の祈り


訳者あとがき(柿村峻)

 このバートランド・ラッセル著、『懐疑論』(Sceptical Essays)の初版は、1935年(昭和10年)に出ている(松下注:正しくは1928年。Allen & Unwin社が出版した図書の一部に First pub. in 1935 と書かれているものがあるため、勘違いしたものと思われる)。この年は、ヨーロッパでは、ドイツのヴェルサイユ条約による軍備制限破棄、イタリアのエチオピアとの開戦等が起り、日本では天皇機関説が槍玉にあがるとともに、文部省は、国体明徴を全国学校に訓令する等、しだいに、第2次大戦へ世界は傾きはじめている。異様な硬直した信念が横行しだしてきている。この時、ラッセルは、熱狂的な信念、軽信に対する警鐘として、人類文化存続のため、この懐疑主義的随筆集を出したのは、時を得たといわなければならない。この書全体を通ずることは、信念のとりこにならないで、先入主をさけ、言葉に酔わず、事実によって判断し、世界に対して柔軟な態度を失わない態度の必要を説いている点にある。したがって、ここにいう懐疑は、一切を否定する絶望的な懐疑ではなく、信念に対する懐疑、実証をまたない言論に対する批判・反省だといえる。そのため、この懐疑は、明るく、建設的である。しかも彼がめざす事実は、また固定した不動のものでないことも、みのがされない。流転する事実があるにもかかわらず、それと遊離する硬化した信念や主義を嫌うのである。

 本書は17章にわかれている。

 第1章:「序説、懐疑主義の価値」では、一切に、実証が必要だと説く。ある信奉者が、自分の信念は証拠に基いていると主張しても、その主張どおりに受けとらずに、疑えという。個人的狂気は、狂人あつかいにされるが、集団的狂気には、信奉者ができる国家主義は、証拠のない疑わしいことに対する狂信だといって、彼の懐疑精神を明らかにする。
 第2章:「夢と事実」では、信念は、合理的根拠からではなく、欲望から生れた白昼夢だ。信念は、事実で正さなければならない。一国の神話は、敗戦で亡びると、よそごとでないことをいう。
 第3章:「科学は迷信的であるか」 科学の根本問題にふれる。科学をうのみにはしない。科学のよって立つ因果律と帰納法は環境支配を可能にするが、この2つを強調すると、人間の意志にもあてはめられ、決定論となるなやみがあると指摘する。
 第4章:「人間は合理的になれるか」 感傷的な利他主義はとらない。自分の欲望を統制する真に利己的なものが、合理的であるとする。英雄的な劇変を望まず、隣人に対して平衡のとれた考え方をするのが、望ましい。
 第5章:「20世紀の哲学」 ドイツ観念論批判、プラグマティズム批判をへて、新実在論に及び、この新しい哲学と科学との関係を明らかにする。
 第6章:「機械と感情」 機械の効用は、貧困の阻止だけである。幸福を必ずしももたらさないばかりか、幸福の要素の自発性を亡ぼすとしている。
 第7章:「行動主義と価値」 行動だけでは、解決がつかないものがあるとして、東洋的「無用」の知識を讃美している。
 第8章:「東西の幸福の理想」 孔子、老子の言を引用する。シナ人と西欧人との差は、シナ人は楽しみをめざすが、西欧人は力をめざす点にあるという。機械文明に対する批判もうかがわれる。
 第9章:「善人の起す害」 いわゆる「善人」は、伝統を代表するから、害を流す。「善人」は、伝統的美徳の名で、性病は、罪に対する罰だといって――性病予防策に反対するから、性病がまんえんすることになると、うがったことをいう。いわゆる「善」は、世界を必ずしも幸福にしないと、懐疑的な口吻である。
 第10章:「ピューリタニズムの再燃」 ピューリタンは、ある種の行為を悪でなくても禁ずることがあるからこまる。わいせつを抑えるあまり、産児制限を押えるし、自分の道徳的規準を他におしつけるという。
 第11章:「政治的懐疑主義の必要」 政党は、敵・相手に対する憎悪心をかきたてて自己の推進力とするから、悪口をいわなければならない。政党政治は、敵対感情に訴えるから、その政治綱領は、疑ってかかるべきだという。また懐疑によって、国民的情熱をさまさなければならないとする。(右下イラスト出典:B. Russell''s The Good Citizen's Alphabet, 1953 より)
ラッセルの The Good Citizen's Alphabet の Liberty のイラスト画像  第12章:「自由思想と官製宣伝」 ある意見の有無で、罰せられず、思想相互の自由競争が行われるのが自由であり、ドグマに対して懐疑的なのが、自由である。日本の教育は、知識を授けたが、知性を与えなかった。日本の学校は、知識と迷信を授けたという。
 第13章:「社会の自由」 複雑な社会における自由の具体的なありかたを鋭く語る。他の犠牲によって、はじめて得られるような衣食住、職場については社会的制約が必要であるが、他の犠牲によらないで得られる思想・文化の活動には制約を加えるべきでないとするのもその一例である。
 第14章:「教育における自由対権威」 権威による教育、すなわち、国家教育、教会教育、親の教育の偏向をあげ、子供は、いわゆる「人材」とみなさないで、これを、精神的努力そのものに快楽を感ずるよう、またすべての問題は、未解決だと思うように教育すべきだという。
 第15章:「心理学と政治」 政治は感情で動いている。心理学は、人間心理を明らかにしてくれるだろうが、その知識が、権力者に握られると、必ずしもいいことばかりではない。
 第16章:「信条戦争の危険」 アメリカ、ソ連の信条における対立を予言する。ある信条を受けいれられるようにするには、それが許す不正を償う利点を共同社会に与えるようにしなければならないというのは、鋭い。この対立は、事実に基く科学的精神によらなければ、解消できない。愛国心や階級的偏見を教える教育では、そのみこみはない。

ラッセルの The Good Citizen's Alphabet の Liberty のイラスト画像  第17章:「ある展望」 この展望は、明暗なかばしている。科学の力で、世界は単一体となり・家庭、結婚も変貌する。昔は、美的にみたされた感情は、今は、つまらないものにはけ口を見出す。考えることより、することが大切になる。読書も放送におされ、めずらしい習慣になろう。戦争がなくなり、生産が科学的になるなら、人間生活は、1日4時間の労働で十分であろう。だが社会が安全、完全になると、人間はたいくつして自殺がはやるかもしれない。巨大な組織は、個人に無力感を与えるから、頽廃はもたらさないが分裂も起さない程度の無政府主義も必要ではあるまいか。いたずらに「文化の進歩」もよろこんでおられない。――

 以上が全巻にわたる概観であるが、この間にうかがわれるように、彼の懐疑は、固定した伝統や狂的な信念に対するもので、人類の幸福のための現状打破といえよう。デカルトの「我考う。故に我あり」のように内に沈潜するものでなく、外にひろがる、いきの通った懐疑主義である。世界の相対性を把握せよというのであろう。
 「科学者は、自分の結果を『誤差』とともに述べるが、神学者、政治家は、証拠なしに断言する」とは、本書第14章の言である。
 本訳書刊行にあたっては、角川書店編集部佐藤吉之輔、市田冨貴子などの方々に並々ならぬごめんどうをおかけした。  昭和三十九年十月末日 訳 者

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