バートランド・ラッセル『教育論』への訳者解説
* 出典:バートランド・ラッセル『教育論』(岩波書店,1900年5月、348pp)* 原著:On Education, especially in early childhood, 1926)
* 訳者(安藤貞雄)略歴
ラッセルの生涯
イギリスの哲学者・社会改革者バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルは、1972年5月18日、モンマス州のトレレック市で、アンバリー子爵(ラッセル伯爵の長男)の次男として生まれた。ラッセル家は代々、「貴族的自由主義」をもって鳴るイギリス貴族の名門で、祖父ジョン・ラッセルはヴィクトリア女王に仕え、自由党を率いて2回首相となった。両親はジョン・ステユアート・ミルの友人で、産児制限や婦人参政権を主張する自由思想家であった。ラッセルが2歳のとき、母と姉がジフテリアで死に、続いて1年半後に父が死んだ。ラッセルは当時10歳の兄とともに、ロンドンの祖父母のもとに引き取られた。6歳のとき祖父が死去したため、兄弟の養育は厳格な祖母の手にゆだねられた。生活はきわめて質素でスパルタ式であった。大学に行くまで、教育はすべて家庭教師と個人教師によって行なわれた。
祖母は、厳しい清教徒的な良心と高邁な思想の持ち主で、政治的には急進的な自由主義者であった。ラッセルの12歳の誕生日に、祖母は付和雷同を戒めて、「なんじ衆に従いて悪をなすべからず」(「出エジプト記」第23章第2節)と扉に書いた聖書を彼に与えた。ラッセルは、祖母の清教徒的な道徳観には反発するようになっていたが、この教えには生涯忠実であった。
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1920年、革命後のロシアヘ行き、その統治形態は自由な世界観と相容れないものであると断じた。同年、中国の北京大学で行動主義について講義をした。1931年、兄の死とともに伯爵を継いだが、その称号を使うことを潔しとしなかった。1938年、アメリカヘ行き、最初にシカゴ大学、次にカリフォルニア大学の客員教授となった。1944年までの滞米期間は、結婚や道徳に対する進歩的な思想がたたって、ニューヨーク市立大学の教授就任を断られるなどの事件があって、ラッセルにとって苦難にみちた時代であった。
1944年5月イギリスに帰国(松下注:6月上旬の間違い/ラッセルは、1944年6月6日のDデー、いわゆるノルマンディー上陸作戦の日の数日後に英国に上陸している。)、ふたたびトリニティ・カレッジの教壇に立つことになった。BBCも彼に講演を依頼するようになった。1949年、メリット勲位(わが国の文化勲章に相当する)を授けられ、1950年、78歳のとき、「人道と思想の自由を擁護し、つねに毅然として遂行せし多面にわたる重要な業績を認め」られ、ノーベル文学賞を授与された。1968-1969年、『自伝』3巻が出版された。1970年2月2日、ウェールズの自宅で死去。行年98歳であった。
ラッセルの仕事
ラッセルの仕事は、20世紀の思想家の中で比肩するものがないくらい多岐にわたっている。彼は3世代にわたって、厳密な数理哲学者、理性の情熱的な提唱者、独断的・情緒的な思想の批判者、活動的な平和主義者として活躍しつづけた。こういう仕事の推進力となったのは彼の生涯を支配してきた、「知識の追求」と「より幸福な世界の創造」という2つの情熱であった。初期のエネルギーの大半は、「知識の追求」に費やされた。『数学原理』3巻(ホワイトヘッドと共著、1910-1913年)、『外界についてのわれわれの知識』(1914年)、『意味と真偽性の探究』(1940年)などの数学・論理学の分野における業績は、数学者・論理学者・哲学者に大きなインパクトを与えてきた。中期の仕事は、主として、象牙の塔を出た社会改革者として「より幸福な世界の創造」のために捧げられた。哲学・数学・科学・道徳・社会・教育・歴史・宗教・政治などの諸分野にわたる100冊に近い著述は、進歩的な一般人に対する啓示であり、励ましであった。わけても『教育論』(1926年)、『幸福論』(1930年)、『西洋哲学史』(1945年)は、当時のベストセラーであり、現在でもロングセラーである。
後期はこの2つの情熱が「1つの全体としてまとまった」時期である。この時期、ラッセルは核兵器廃絶やヴェトナム戦争反対などの平和運動を展開して、全世界の理想主義者に霊感を与えた。1961年、89歳のとき、核兵器反対の座り込みをしたかどで7日間勾留された。私たちの心を揺さぶるのは、こうした壮絶な「知行合一」の生き様ではあるまいか。
『教育論』について
1920代の初め、長男のジョンと長女のケートが生まれたころから、ラッセルは教育問題に熱中しはじめ、教育についての本を2冊書いた。本書(1926年)と『教育と社会秩序』(1932年)である。さらに、1927年から1935年にかけて、子供たちに理想的な学校教育を受けさせるために、妻とともに私立学校を経営した。(右写真は、ラッセル一家:1927年撮影 From R. Clark's B. Russell and Hie World, 1981)この本は、子供を持つ親のために、生後1年目から大学に至るまでの子供の教育を論じたもので(あり)、大学の教育原理の参考書ではない。これは「人間の成長に関する思想の書」である。本書が永遠の意味を持つのは、この点にあるとしてよい。本書は、大きく、3部に分かれる。第1部「教育の理想」では、教師は生徒を国家とか教会とかの目的に対する手段ではなく、目的そのものと見なければならないとする。
第2部「性格の教育」では、性格の形成は生まれ落ちた瞬間から6歳までにほぼ完成されるとし、幼年期の教育の任務は本能を抑圧するのではなく、それを正しく訓練して、調和のとれた性格を作り出すことにあるとする。
第3部「知性の教育」では、読み書きの最初の授業から始まり、大学の最終学年に至る知性の教育が論じられる。
本書の注目すべき所見には、次のようなものがある。
1)国家を偉大にすることを至上目的とする、戦前の日本の教育制度の破産を予測していること
2)性格の教育は子供が生まれた瞬間から始まるという考えが早くも打ち出されていること
3)早期の知育の有効性は最近ようやく認められるようになったと思われるが、本書では60年も前にそのことを主張していること
4)外国語の教育も早期に始めるべきであること(しかも、外国語は母語話者 native speaker について行なわれるべきこと)
5)性教育は、思春期以後ではひどく刺激的になるので、10歳以前に、質問に答える形でなされるべきこと(その場合、性に関する知識を自動車や蒸気機関についての質問と同様に考えること)
6)体罰は、どんな場合にも正しくないこと
7)愛情は作り出すことはできない、ただ、解放することができるのみであること(これは、愛国心についてもあてはまる)
8)教育者が必要とし、生徒が身につけなければならないのは、「愛に支配された知識」であること(「愛」とは人間愛のことであり、愛と同情があれぱ、少なくとも深刻な「いじめ」は生じないのではないか)
9)子供を外的な権威で管理するのではなくて、子供の自発的好奇心に訴え、知的冒険の精神を植えつけること
10)人間本来の闘争心は、戦争とか他の人間に向けるのではなく、病気とか貧困との闘いに向けるべきであること
11)性格の教育においても、体育・知育においても、男女の差別を認めないこと
12)侯爵といえどもへつらわず、料理人といえども軽蔑せず、同じ人間として一視同仁に扱うべきこと
第1部「教育の理想」は、本書全体の総論であり、第14章「一般的原理」は、第3部の総論である。総論がやや哲学的・抽象的であると感じる読者は、いきなり、第3章「生後第1年」以下の各論から読みはじめることをお勧めしたい。その後で、まとめの意味で、総論の章を読むことができよう。
翻訳は、Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, (George Allen & Unwin, 1926)を底本として用い、かたわら普及版第12刷を参考にした。本書には以前に堀秀彦氏、魚津郁夫氏による邦訳があり(現在絶版)、参照させていただいた。(なお、訳文中の圏点を施した箇所は原文のイタリック体を表し、*は原注を、(1)(2)などは訳注の通し番号を示している。)
本書は何度も大学のテキストとして使用して、訳者の教育についての「知識というよりも、むしろ意見となった」ものである。本書を訳した主な動機は、それが教育論の古典であるという理由のほかに、偏差値偏重と管理主義のために混迷し硬直した感のあるわが国の教育に、自由と知性と愛に裏打ちされた一つの確かな普遍性のある指針を与えてくれるのではないか、と信じたからであった。その意味で、この国のすべての親たちにぜひ一読してほしい、と願っている。
ラッセルの文章は、ときにひどく抽象的で圧縮されているため、教養ある英米人ですら解釈を異にすることがある。そういう箇所について快く討論の相手をしてくださったのは、ピーター・ゴールズベリー、マイケル・ラザリン、ポール・スコット、ロバート・シュミットその他の諸氏であった。友田卓爾博士からは、イギリス議会史について貴重なご教示をいただいた。ここに記して、これらの諸氏の友情に深く感謝したい。
最後に、本書の企画から出版に至るまで、終始行きとどいたお世話をいただいた岩波書店編集部の鈴木稔氏に厚くお礼を申しあげたい。
1990年3月 瀬戸内海を見はるかす寓居にて 安藤貞雄