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バートランド・ラッセル(著)『教育論』序論 - 冒頭

* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦(訳)『教育論』(角川文庫,1954年7月。336pp.)
* 原著:Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, 1926

『教育論』序論冒頭

Introduction


 世の中には、著者と同じように、その幼い子供たちをできるだけよく教育しようと思いながら、しかも現存の過半の教育制度がもっているさまざまな弊害に子供をさらさしたくないと思っている多くの両親たちがいるに相違ない。こうした両親のぶつかっている困難はとうてい個々の両親の側からする何らかの努力によって解決されるものではない。もちろん、保母とか家庭教師を雇うことによって家庭で子供を育てることはできないことではない。しかしこうした計画は子供たちから彼らの天性が求めているところの同じ仲間との交際を、言い換えれば、それなしには当然教育の本質的要素が欠けてしまうところの仲間との交際を、奪い取ることになるだろう。それのみではない。子供たちをして自分は他の男の子や女の子とは違っているのだ、「一風変わってる」のだと感じさせることは、非常によくないことである。こうした感情は、もしその責任(原因)が両親にあるのだと感じられる場合には、多くの場合、間違いなしに、両親に対する反感を呼び起こし、両親のきらいなものならば何でも好きになるというようにさせるだろう。そこで、良心的な両親はいま言ったようたことを考えて、彼らの少年少女を、大きな欠陥があることを承知しながら、学校に入れるだろう、つまり、現在のどの学校も満足なものではないというただそれだけの理由のために、あるいは多少気に入った学校があるとしても、そういう学校はあいにく、近所にないという理由のために。このようにして、良心的な両親たちは否応なしに学校改革ということに駆り立てられる。それが、社会のためになるばかりでなく、自分自身の子供たちのためになるのだというので。ところでもし両親が裕福である場合には、彼らの個人的な問題を解決するために、学校という学校全部がよくなるということは必ずしも必要ではない。ただ、地理的に利用できる範囲内でいい学校があればいいのである。だがしかし、労働者の両親にとっては、小学校の改革以外に何一つ手はないのだ。かくて、一方の両親が希望する改革に対して他方の両親が反対するということになるとしたら、しょせん、強力な教育宣伝以外になんにも役に立つものはないということになるだろう、しかも、このような教育宣伝というものは改革論者の子供たちが一人前に大きくなった後でなければ、それがよかったか悪かったかわからないのである。このようにして、われわれ自身の子供たちに対する愛情から出発して一歩一歩、われわれは政治とか哲学とかいった非常に広い世界に連れ出されることになるだろう。
 こういう広い世界のことについては、本書の中では、私はできるだけ触れないことにしたいと思っている。(松下注:教育と社会制度(体制)との関連については、ラッセルは、『教育と社会体制』(Ecucation and the Social Order, 1932)のなかで論じている。)・・・。  

 

(挿絵は、第20回読書会案内状より)

There must be in the world many parents who, like the present author have young children whom they are anxious to educate as well as possible, but reluctant to expose to the evils of most existing educational institutions. The difficulties of such parents are not soluble by any effort on the part of isolated individuals. It is, of course, possible to bring up children at home by means of governesses and tutors, but this plan deprives them of the companionship which their nature craves and without which some essential elements of education must be lacking. Moreover, it is extremely bad for a boy or girl to be made to feel 'odd' and different from other boys and girls; this feeling, when traced to parents as its cause is almost certain to rouse resentment against them, leading to a love of all that they most dislike. The conscientious parent may be driven by these considerations to send his boys and girls to schools in which he sees grave defects merely because no existing schools seem to him satisfactory - or, if any are satisfactory, they are not in his neighbourhood. Thus the cause of educational reform is forced upon conscientious parents, not only for the good of the community, but also for the good of their own children. If the parents are well-to-do, it is not necessary to the solution of their private problem that all schools should be good, but only that there should be some good school geographically available. But for wage-earning parents nothing suffices except reform in the elementary schools. As one parent will object to the reforms which another parent desires, nothing will serve except an energetic educational propaganda, which is not likely to prove effective until long after the reformer's children are grown up. Thus from love for our own children we are driven, step by step, into the wider sphere of politics and philosophy.