紹介:バートランド・ラッセル「私は信ずる(1939年)」(喜多村浩・訳)
* 出典:『私は信ずる』(社会思想社,1957年月刊。221pp./現代教養文庫n.157)pp.5-28.(原著初出):I Believe; the personal philosophies of twenty-three eminent men and women of our time, ed. by and with introd. and biographical notes by Clifton Fadiman (New York, Simon & Schuster, 1939; Allen & Unwin, 1940), p.409-412.
* 社会思想研究会出版部より,単行本として刊行された『私は信ずる』正・続に収録された23篇中より,11篇(B.ラッセル,H.G.ウェルズ,ハロルド・J.ラスキ,ハヴァロック・エリス,ジュリアン・ハクスリー,ランスロット・ホグベン,アルベルト・アインシュタイン,E.M.フォースター,パール・バック,トーマス・マン,ジュール・ロマン)を選び,現代教養文庫版(社会思想社)として出版されたもの。
(編者によるラッセル紹介)
ラッセル伯爵家の三代目の当主バートランド・ラッセルは,まず数学者,記号論理学者としての仕事で,名声をかちえた。やがて,教育家,哲学者として評判を高くし,また科学,その他類似のテーマに関する多くの著作を書いて,ひろくよまれた。数年のあいだ,かれは二番目の夫人,ドーラ・ラッセルと協働して,サセックスに学校を経営し,一般に有名なかれの進歩した教育の理論を,実施に応用した。一八七二年生れ。ケムブリッジ大学のトリニティ・カレッジで,はじめ講師をつとめ,やがて教授となり,一九〇八年には,王立科学協会の正会員となった。名声をはくした有名な著作は数多いが,そのなかからえらび出せば,次のようなものがある。
『数学の原理」(1903年〕,『神秘主義と論理学(というより「論理」)』(1918年),『自由へのみち』(1918年),『数理哲学入門』(1919年〕,『哲学概説」(1919年)(松下注:これは The Problems of Philosophy, 1912 かあるいは,An Outline of Philosophy, 1927 のどちらかの間違い),『教育について』(1926年),『懐疑的なエッセイ集』(1928年〕,『結婚と道徳」(1929年,江上照彦訳,社会思想研究会出版部刊),『幸福の征服』(1930年),『教育と社会秩序』(1932年),『権力』(1939年)(松下注:1938年の間違い),『権威と個人』(1949年,江上照彦訳,社会思想研究会出版部刊)。
(訳者・喜多村浩氏):不詳。国際経済学者で元青山学院大学や国際基督教大学教授だった喜多村浩氏(2002年10月23日に92歳で死亡)のことか?
< 世界を見るわたくしの眼は,ほかのひとのばあいとおなじように,一部分は環境の産物であり,一部分はわたくしのもって生れた気質の産物である。
宗教上の信仰については,わたくしの教育に心をくだいてくれたひとびとは,おもうに,あたえられた正統的な考え方を何の疑問もなしにうけいれるようには,仕向けてくれなかったようだ。わたくしの両親は,二人とも,宗教上はしばられない自由な考えのもち主であったが,一人は,わたくしが二歳のときに,もう一人は,わたくしが三歳のときに死んだ。だから,わたくしは成長するまで,両親の考え方というものを知らなかった。
父親がなくなってから,わたくしは祖母とくらした。かの女ははじめ,スコットランドの長老教会に属していたのだが,七十歳になって,ユニテリアン教派にかわった。わたくしは,隔週の日曜日ごとに,家の属していた教区の監督教会派の教会に,またそのあいだには長老教会派の教会につれて行かれたし,家庭では,ユニテリアン教の教義をおしえられた。
わたくしのいちばん好きだったのは,教区の教会であった。そのわけは,そこには鐘をならす綱のすぐわきに,座り心地のよい家族席があったからで,鐘が鳴るときにはいつも,この綱が上に行ったり,下に下ったりしていた。またわたくしが好きだったのは,壁にかかっていた王室の紋章であったし,説教がはじまるときに牧師さんが説教台に上って行くと,いつもそのあとから階段を上って行って扉をしめる小使いさんも好きであった。それからまた,礼拝のあいだ,カレンダーを見ては,復活祭が何日にあたるだろうかなどと考えて見たり,黄金数や主日文字の意味を考えて見たり,九十で割って小数を切りすててみたりしたものだ。
*訳者註:黄金数というのは,西暦年数に一を加え,十九で除した残りの数のことで,復活祭の日取りを算出するのに使う。主日文字というのは,教会暦でその年の日曜日をしめすために使う。AからGまでのなかの一字のことである。
しかしわたくしは,バイブルにあるものなら何でもほんとうだと思いこむようには,教えられなかったし,奇蹟とか永遠の地獄とかいうことを信ずるようにも,教えられなかった。ダーウィンの学説は,まったく自明のこととして,受けとられた。わたくしが十一歳のとき,スイス生れのプロテスタントの家庭教師がいたのをおぼえているが,かれはそのころわたくしにいった。『君がダーウィン主義者なら,君はあわれむべきものだ。ダーウィン主義を奉じて,同時にキリストを信ずることはできないのだから』と。十一歳のわたくしは,この二つのものが両立しないものだとはおもわなかったが,もしどちらかをえらばねばならぬとしたら,むしろダーウィンの学説をとるべきだということ――このことをわたくしはすでに確信していた。しかし,十四歳になるまでは,敬虔な気持で,ユニテリアン教会派の信仰をもちつづけた。十四歳というのは,このころわたくしは,極度に宗教心に富むようになり,したがって,宗教が真であるとかんがえてよい充分な根拠があるかどうか,知りたいとおもったのである。それから四年間というものは,わたくしは多くの時間を,自分ひとりの頭のなかで,この問題について考えに沈みながら過した。他のひとに苦痛をあたえてはいけないとおもって,この問題を誰とも話し合うことはできなかった。わたくしは,身を切るような悩みを味わった。ひとつには,信仰心がだんだんとなくなって行くことで。それからまた,この悩みを自分ひとりの胸にしまって,だれとも話し合えないということのために。
わたくしがまず信仰することができなくなったドグマは,意志の自由のドグマであった。物質のあらゆる運動は,力学の法則によって決定されているのであって,人間の意志で影響されることはできない。人間の肉体をかたちづくっている物質のばあいでさえそうである――わたくしにはそうおもえた。わたくしはまだ,デカルトの哲学のことは一つも知らなかったし,そればかりではない,まだ偉大な哲学というものは一つも知らなかった。しかし,わたくしの考え方は,自然にデカルトの方向に向っていた。
その次にわたくしが疑いはじめたドグマは,霊魂不滅のドグマであったが,あの当時どういう理由からわたくしには信ずることができなくなったのか,はっきりとおぼえてはいない。ともあれ,わたくしは,十八歳のときまで,神の信仰はもちつづけた。最初に造物主がなければならないという議論は,わたくしには論議の余地のないことのようにおもわれたからである。しかしながら,十八歳のとき,わたくしはミルの自叙伝をよんで,この議論があやまっていることを知った。こうしてわたくしは,キリスト教のドグマと,はっきりとたもとをわかったのである。ところがおどろいたことには,かつて何らかの神学の信仰をもちつづけようとして苦闘していたころよりも,信仰をすてたわたくしははるかに幸福であった。
ちょうどこの段階に来た直後,わたくしは大学にはいった。(右写真(=1891年のラッセル)出典:R. Clark's B Russell and His World, 1981)そこではじめて,わたくしの関心の的であった問題について語り合える人々に接することができたのである。わたくしは哲学をまなんだ。そしてマックタガートの影響の下に,一時はへーゲリアンになった。この時期はほぼ三年ほど続いたが,やがてG.E.ムーアとの討論で,この段階は終りをつげた。ケムブリッジを卒業してから数年間,わたくしは多かれ少なかれ散漫な勉強でついやした。ベルリンですごしたふた冬は,おもに経済学を研究した。一八九六年には,わたくしは,ジョンズ・ホプキンズ大学とブライン・モーア(松下注:Bryn Maur ブリン・モー:ブリン・マー)とで,非ユークリッド幾何学を講じた。わたくしはまた,よくフローレンス(フィレンツエ)の美術鑑賞家とまじわり,ペイターとか,フロベールとか,そのほかの九十年代文化のかがやける星を読んだ。そして最後に,わたくしは,数学の原理に関する大著を物しようという目的で,田舎に引っこんだ。これが実は,十一歳のときからわたくしがもちつづけたいちばん大きな野心であったのである。わたくしの生涯で,決定的な意味をもつひとつの経験をしたのは,まさにこの若い年頃であった。
わたくしの兄は,わたくしより七歳も年上であったが,かれがわたくしにユークリッドを教えてくれようとしたことがある。わたくしは非常によろこんだ。ユークリッドが偉大な証明をしたということは聞いていたし,ようやく何かゆるぎない知識を得ることができるかとおもったからであった。しかしユークリッドが公理から出発するということを知ったときのわたくしの失望――それは忘れることのできない失望であった。兄が第一の公理を読んでくれたとき,わたくしは,それをみとめねばならない理由はないといった。そういうことであるなら,続けることはできない――これが兄の答えであった。わたくしの切実なのぞみは,この研究をともかく続けることであったから,わたくしは一応この第一の公理をみとめた。しかし,この世の中のどこかで,しっかりしたゆるぎない知識がえられるとおもっていたわたくしの信念は,無残にも打ちくだかれたのである。なにかほんとうに確かな知識を見出したいというのぞみ――三十八歳(松下注:1910年の Principia Mathematica,v.1 の出版まで)にいたるまで,わたくしのすべての仕事に力をあたえたのは,こののぞみであった。あきらかに数学こそ,ほかのなにものにもまして,知識としてかんがえられる理由があるようにおもわれた。だからわたくしが注意を向けたのは,数学の原理だったのである。
三十八歳になって,もちろん,絶対的にたしかな結論に到達したというにはほど遠いのではあるが,この分野でわたくしのなし得ることは,すべてなし得たという感じをもった。わたくしの仕事の結果として純粋に残ることといえば,まことに,算術にたいして,いまだかつて投げかけられたことのない疑問を投げかけたということであった。わたくしのとった方法によって,ほかのいかなる方法によるよりも,知識に近づくことができるというのが,わたくしの確信であったし,また現在でもそうおもっている。しかしその方法がもたらす知識といえども,単に蓋然的なものにすぎず,最初におもわれたほど精確なものではなかった。
だから,このところで,わたくしの生涯はむしろはっきりと,二つに切られた。抽象の面で,わたくしはできるかぎりのことをして来たのだが,それも希望した目標に到達することはできなかった。わたくしはもはや,これ以上抽象ととりくむ意欲を感じなかったのである。 わたくしのそのころの気持は,メフィストフェレスが最初にあらわれた瞬間のファウストの気持に似通ったものであった。しかし,わたくしのところにあらわれたメフィストフェレスは,むく犬のかたちではなかった。それは,世界大戦のかたちであらわれたのである。ホワイトヘッド博士とわたくしが力をあわせて,『数学の原理』(松下注:『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』と表記すべき。『数学の原理』は,通常1903年に出版された The Principles of Mathematics の方を指す。)を完成したのち,ほぼ三年間というものは,わたくしは何をしようか,はっきりとした決心がつかなかった。ケムブリッジの教壇に立ってはいたが,いつまでもこの教壇生活をつづけようとはおもわなかった。単なる惰性であったのだろう。わたくしはなお主に,数学の論理を研究しつづけていたが,半ば無意識的に,なにか全くちがった種類の仕事をして見たいというのぞみを感じていた。そこに戦争がおこった。わたくしは,すこしのうたがいの影もなく,わたくしのなすべき仕事を見出した。戦争の平和主義の仕事にたずさわっていたときほど,わたくしは全身を打ちこんだこともなかったし,この仕事ほど,何の躊躇もなくとびこんで行けたこともなかった。生れてはじめて,わたくしの全存在を打ちこんでなすべき仕事を見出したのである。以前の抽象的な仕事ではわたくしの人間的な興味は,みたされないでいた。そして,時たまそのはけ口を,政治に関する演説や論文,とくに自由貿易と婦人参政権に関するそれらの活動に見出したのであった。
わたくしの子供時代には,十八世紀および十九世紀初期の貴族的な政治伝統が吹きこまれたのであるが,そのためであろうか,わたくしは本能的に,公共の利害,国政にたいして責任を感じた。そしてこの両親からうけついだつよい本能は,その当時わたくし個人の問題としては,まだみたされてはいなかった。ヨーロッパの青年たちがあざむかれて,かれらより年上のジェネレーションの悪の情熱を満足させるために,生命をうしなわねばならないのを見て,わたくしは大きないきどおりを感じたのである。
知性を守りとおすというところから見て,交戦国のいずれかの戦争の神話をうけいれるというのは,わたくしにはまったくできないことであった。まことに,知識人でこれらの神話をうけいれたものは,群衆と一体となって行動するというよろこびのためか,あるいはあるばあいには,単に憶病のために,知識人本来のはたすべき役割を放棄したものといわねばならない。わたくしには,これほど唾棄すべき不名誉なことはないようにおもわれた。もし知識人に,社会においてはたすべき機能があるとするならば,それは,情熱にひきずられようとするあらゆる誘惑に抗して,偏見なく,冷静な判断をもちつづけることだ。ところが知識人の大部分は,'知性が役に立つことはみとめても,それは波風の立たないしずかな時代でなければ,役に立つものではないとでも,おもっているようであった。それからまた,戦時中,とくに戦争がはじまった最初の数力月の民衆感情というものは,わたくしには,きわめて不愉快なことであったとしても,学問的になかなか興味あるものであった。わたくしはまず,戦線に行かないですんだ大ていのものが,戦争を愉快なことのようにおもっているのをみた。このことから,われわれの現在の線で教育された人間の性質には,いかに多くの憎しみがあり,人間的な愛というものがいかにすくないかを見てとることができた。わたくしはまた,節倹とか,勤勉とか,公共精神とかいう普通のばあいの美徳が,お互いに皆殺しにし合うエネルギーを高めることで,ただ単にわざわいをますます大きくするだけの手段となっているのをみた。わたくしは,ヨーロッパの文明そのものが滅びてしまうのではないかという心配をもった。まことに,もし戦争がなお一年もつづいたとしたら,そういうことになったかも知れない。十九世紀の特徴であった安全感は,戦争にあってはかげをひそめた。しかしわたくしは,かつて貴重なものとして胸にひめた理想が,なおものぞましいものであることを信じないわけには行かなかった。若いジェネレーションの多くのもののあいだでは,失望のあまり,シニカル(皮肉)な態度をとるものもあった。しかしわたくし自身としては,けっして完全にのぞみを失うことはなかったし,したがって,人類の前には,なおもものごとの状態がよくなるみちがひらけていることを,信じつづけたのである。
最近十五カ年のあいだ,政治の問題,社会学の問題,道徳の問題についてわたくしが考えたことはすべて,この戦争勃発の当初にわたくしが感じた衝撃からうまれたものだ。わたくしはまもなく,戦争の外交的起源を研究することは,たしかに意味のあることではあろうが,それでは問題の本質にまでつき入ることはできないという確信をえた。というのは,戦争にまでみちびいたあらゆる措置で,政府は民衆感情の情熱的な支持をうけていたのだから。わたくしはまた戦争の起源はつねに経済的な原因だという考えをうけいれることはできなかった。何故ならば,熱狂的に戦争を支持したひとびとの多くが,戦争によって財産をうしなうのは,あきらかであったからである。かれら自身では財産をうしなうとは思っていないという事実は,まさにかれらの経済に関する考え方が偏見にとらわれたものであること,むしろこの偏見をひきおこす情熱こそが,かれらの好戦的な感情が生れ出るほんとうの源泉であることをしめしている。よく戦争の経済的原因ということがいわれるのであるが,それは,一部の資本主義企業のばあいをのぞいては,あとから理屈をつけるような性質の議論である。すなわち,ひとびとはただ戦いたいとおもう。だからかれらは,戦うのがかれらの利益だと思いこもうとするのである。そうであるならば,重要な問題は,心理的な問題――『何故にひとびとは戦いたいとおもうのか』という問題であろう。こう問題を出してくると,戦争からはなれて,一般に残虐性とか,抑圧への衝動とかに関するほかの多くの問題につき当らねばならない。それはこれらの問題にぶつかれば,それで,悪意ある情熱がどこから来るかということを研究しなければならないであろうし,したがってまた,精神分析とか,教育の理論の研究にまですすまねばならない。これらの問題ととりくむことによって,わたくしはだんだんと,ひとつの人生哲学に到達した。そのばあいにつねに,わたくしにみちびきの星となったのは,自然からあたえられた生来の特質をもつ人間が,どうしたら社会において,お互いの生活をみじめにしあおうとしないで,ともに生きて行くことがてきるか,どうにかしてそのみちを見出そうというのぞみであった。
学問的見地から見て,わたくしの社会哲学の基調が何であるかといえば,それは心理学に重点をおくことであり,社会制度を見るばあいにも,その制度が人間の性質におよぼす効果を基準として判断を下すという行き方である。戦時にあっては,まじめな市民の美徳としてみとめられているすべての徳が,わたくしには悪とおもわれる目的のためにつかわれた。人々がアルコール(酒)を絶つ,それは弾薬をつくろうとするがためにほかならない。かれらが長時間はたらく,これも労働を努力の甲斐あるものとするような種類の社会を破壊するためだけである。性病は,ほかの普通の病気よりも,困ったものだとおもわれた。何故か。敵をころす能率にさしつかえがあるからにほかならない。これらすべてのこのから,わたくしははっきりと知った。どんなに立派なふるまいの準則があったとしても,追及される目標がよい目標でないならば,それだけではよい結果を生むことはできないということを知った。まじめさといい,節倹といい,勤勉といい,自制といい,すべて戦時中にあるかぎりでは,ただ単に破壊の馬鹿さわぎをひどくするばかりであった。このようなばあいには,他面では,酒につかわれた金は,人間の生命をすくったとさえいえる。それだけ爆発薬をつくる金がすくなくなったのだから。平和主義者であるということは,社会の全目的に反対の立場をとらねばならなかった。そして,一般にみめとられたあらゆる道徳律に反対する,まったく道徳を否定するような態度を避けることは,きわめてむつかしかった。しかしながら,わたくしのとった態度は,ほんとうに道徳律に反対する態度ではなかった。それは本質的には,聖パウロが,仁愛に関する有名な章句でいいあらわしたあの態度なのである。わたくしはいつも聖パウロとおなじ意見であるわけではないが(この点に関しては,わたくしの感ずるところは,まさしくかれのいうところとおなじである。すなわち,道徳律に服するということがいかに大事なことであっても,愛の代りになることはできない。そして愛がほんとうの愛であり,それが知性とむすびつくならば,それだけで充分に,どんなかたちでも必要な道徳律をうみ出すことができるということだ。しかし『愛』ということばは,あまりにつかわれすぎて何かしらすりへった感じであり,もはや正しい意味をそのままつたえることはできない。そこでわれわれは,ほかの極限から,つまりビヘーヴィアリズム(行動主義)の分析から出発して,運動をものに近づく運動と,ものから身を引く運動とにわけることができよう。動物界のいちばん程度の低いところでは,動物をたとえば,向光性のものと反光性のもの,すなわち,光りに近づこうとする動物と,光りをきらって逃れようとする動物とにわけることができる。
おなじような分け方が,全動物界を通じてあてはまる。あたらしい刺戟があらわれたときに,それに近づこうとする衝動があるか,あるいはそれから逃げようとする衝動があるだろう。心理学のことばに翻訳するならば,このことは,魅力で引きつけられるという感情があるか,あるいは恐怖の感情があるということもできよう。もちろん,この感情は二つとも生存のためには必要である。しかし,文明生活で生存するには,恐怖の感情というものは,人間の発展におけるそれ以前の段階,あるいは人間以前のわれわれの祖先のばあいにくらべて,はるかに必要ではなくなっている。人間が適当な武器を手に入れる以前には,猛獣,野獣の襲撃のまえに,生活はきわめて危険なものであったにちがいない。そのころの人間は,現在のうさぎのように,憶病でなければならなかったであろう。そして何時なんどき餓死の危険がせまって来るか,わからなかった。そしてこの危険も,近代の運輸の手段がつくられるとともに,大幅に小さくなってきたのである。いまの時代では,人類が戦かわねばならないもっとも危険な猛獣は人間である。そして純粋に物理的な原因からおこる危険というものは,きわめて急速に小さくなって来た。だから現在においては,ほかの人間との関係をのぞいては,恐怖のはたらく余地はあまりない。そしてまさにこの恐怖それ自体こそ,人間がお互いにかくもおそろしいものであるおもな理由の一つなのである。ところで,最善の防御が攻撃だというのは,一般にみとめられた原則だ。したがって,ひとびとはつねに攻撃されるだろうとおもうからこそ,つねにお互いに攻撃し合っている。われわれの本能的な感情は,いまよりもはるかに危険であった世界から受けついで来た感情である。だからそのなかには,恐怖が現在あるべき以上に大きな割合をしめている。そしてこの恐怖は,そのほかにははけ口を見出しえないから,社会の環境に向けられ,不信頼と憎悪,ねたみ悪意,その他あのおどろくべき無慈悲さをうみ出すのである。いまやわれわれは,以前とはちがって,自然を征服しえたのだから,その利益を充分に生かそうとするならば,もっと威厳のある心理を身につけねばなるまい。あの萎縮した,いきどおりのこもった奴隷の恐怖をすてて,われわれは,支配者のしずかな威厳を感じとらねばならない。ふたたびさきにのべた,近づこうとする衝動と身を引こうとする衝動とにかえるならば,このことは,近づこうとする衝動はのばさねばならないし,身を引こうとする衝動は抑えねばならないということを意味する。いかなることでもそうであるが,これももちろん,程度の問題である。わたくしはなにも,虎や錦蛇にたいしても,親愛の情をもって近づくべしといおうとするのではない。わたくしがいおうとするのはただ,伝統というものは,いまよりもはるかに危険な世界に生れたものであるから,現在恐怖をもったり,身を引いたりすべきばあいは,伝統からして考えられるよりも,はるかにすくないものだということだけなのである。
人間のあいだに,まえよりも友好的な,そして協力的な態度を持することができるようになったのは,自然の征服のおかげである。そして,もし合理的な人間が協力して,かれらの科学的知識をフルにつかうならば,いまではすべてのものの経済的な福祉を確保することもできるはずだ。まえの時期では,これは不可能なことであったのである。肥沃な土地を手に入れるために,生死を賭してたたかうというのは,なるほど過去においては,意味のあることであったろうが,いまでは意味のない,まったく馬鹿げたことになった。世界政府,企業の組織,そして産児制限というような手段で,世界はだれにも住みよいものになり得るはずである。わたくしはなにも,だれもがクロイソスのように金持ちになり得るというのではない。しかしだれでも,わけのわかったひとびとが幸福になるために必要なだけのこの世の財貨を手に入れることはできるはずだ。貧困と窮乏の問題がなくなるならば,人間は建設的な文明の仕事に打ちこむことができるであろう――すなわち,科学の進歩のために,疾病をすくなくし,死の時期をのばすために,そして人生のよろこびをなす衝動を自由に解放するために。
このような考えは,何故ユートピアのようにおもわれるのだろうか。その理由は,単に人間の心理だけの理由である,つまり,人間の性質のなかのかえることのできない部分ではなくて,われわれが伝統なり,教育なり,環境の例などから得る性質の問題なのだ。ます,世界政府をとり上げて見よう。世界政府が必要だということは,いやしくも政治的に考えることのできるひとなら,だれにもあきらかである。しかし国家主義的な情熱が邪魔をする。どの国民も,独立を誇りにしている。どの国民も,その自由を守るためには,最後の一人までたたかおうとする。このようなことでは,もちろん,無政府状態にすぎない。これでは,あの向う見ずの悪い諸侯がとうとう国王の権威に屈せざるを得なくなった以前の,封建時代とまったくおなじような状態になる。われわれが外国にたいしてとる態度はまさに,恐怖をもってものごとから身を引く態度である。すなわち,外国人がかれら自身のところにとどまっているあいだはよい。しかし,この外国人がわれわれのことにまで口を出して来るかとおもうだけで,われわれは警戒するのである。だから,どの国家も,自分だけで戦争をする権利(松下注:交戦権)を主張してやまない。条約といい,仲裁といい,ケロッグ平和条約といい,またそのほかのものもすべて,ジェステユアとしてはまことに結構である。しかしこれらのものが,ちょっと重大な試煉には耐えず,一たまりもなく破れさるであろうということは,だれでも知っている。おのおのの国が,自分自身の陸海空軍をもっているかぎり,その政府がどんな条約に調印したところで,ひとたび興奮して来ると,この軍隊をつかうであろう。(右挿絵出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)
人間が,あの国内の治安をつくり出した大原則を,ちがった国々のあいだに適用するまでは,この世界に安全というものはあり得ないであろう。この大原則というのは,とりも直さず,あらそいがあるときに,力というものは,いずれの当事者によってもつかわれてはならない。力はただ,一般にみとめられた法の原則にしたがって,正しい調査がおこなわれたのち,中立の権威によってのみつかわれるべきだということである。世界のあらゆる兵力が,金世界を包括する政府のコントロールの下に立ったとき,われわれははじめて,国家間の関係において,個人間の関係ではすでに数世紀もまえに到達した段階に,到達したことになろう。これこそ最小限の条件であって,これにみたないものは,いずれも不充分だといわねばならない。
国際的な無政府状態の基礎にあるものは,人間が恐怖を感じ,にくしみを感じ易い傾向である。これはまた,経済的なあらそいの基礎でもある。というのは,経済的なあらそいの根源にある権力欲というものは,一般に,恐怖がかたちをとってあらわれたものなのだから。ひとびとは,ほかのひとのコントロールにまかせておくと,自分たちの不利益になるように,不公平につかわれるかも知れないとおもうからこそ,自分たちでコントロールしたいとおもうのである。性道徳の分野でも,おなじことがいえる。法律によって,夫は妻の上に,妻は夫の上に,ある種の支配権をあたえられているのであるが,それは,財産をうしなうという恐怖から来たものにほかならない。この動機は,ねたみという否定的な感情であって,愛という肯定的な感情ではない。教育においても,おなじようなことがある。教育において動機となるべき積極的な感情は,ものごとを知ろうとする好奇心である。しかし,若いものの好奇心は,多方面にわたって,性的にも,宗教的にも,はたまた政治的にも,極度に抑えつけられているのだ。子供たちは,自由に問い,研究するという態度に向けられないで,逆になんらかの種類の正統的な考え方をおしえ込まれる。だからその結果として,なにか耳にしたことのない新しい考えにぶつかると,子供たちは,これに関心を向け,興味をおぼえるのではなくて,むしろ恐怖をいだくようになる。これらすべての悪い結果は,安全を追求することから来るのであり,安全を求めるというのは,非合理的な恐怖のなすわざである。恐怖はいまやまったく非合理的なものになった。何故ならば,近代の世界において,おそれをはらいのけた態度と知性とが,社会組織に実現されるならば,それだけで充分に,安全をうみ出すことができるにちがいないからである。
ユートピアヘのみち――それはあきらかにわれわれのまえによこたわっている。みちは一部分は,政治を通じ,一部分は,個人における変化を通ずるのだ。政治についていうならば,いちばん大事なことは,世界政府をつくることである。わたくしはこれが,国家連合 United States (松下注:いうまでもなく United States of America のことではない)の世界政府を通じてでき上るとおもっている。個人に関しては,問題は,個人がにくしみを感じ,おそれをいだかないようにもって行くことである。そしてこれは,一部分は生理学の問題であり,一部分は心理学の問題である。この世の中にあるにくしみの多くのものは,若いときの抑圧や発展の妨害の結果として,消化がわるかったり,腺の機能が不充分であったりすることから来る。若いものの健康に適当な注意がはらわれ,かれらの生の衝動が,かれら自身の健康,またかれらの仲間の健康をそこなわないかぎりで,最大限の活動の余地をあたえられるような世界ができるならば,ひとびとは現在よりも,はるかに勇気をもつようになり,はるかに悪意をもたないようになるであろう。
そのような人間ができ,世界政府がつくられるとするならば,世界は安定をえ,しかもなお文明の華を咲かせることができるかも知れない。ところが,われわれのいまの心理状態や政治組織をもってしては,科学的知識がませばますほどつねにそれだけ文明の破壊に近づくのである。
あ と が き (このあとがきは,第二次世界大戦中に書かれたものと思われる)
このエッセイが書かれてから,世の中にはいろいろの出来事があったが,そのうち一つとして,わたくしの信念をかえさせるものはなかった。ただ若干の出来事に面して,わたくしは,力点のおきどころをかえねばならないとおもう。日常の生活では,われわれはなにも力をこめて,二と二は四になるという必要はない。だれもこれを疑うものはないからである。しかし重要な国の政府が,二と二は四だといったというかどで,ひとびとを死刑に処するとしたら,時間にはほかにもっとよい使い道があるとしても,われわれは時間をさいて,九九表ととりくまねばならないかも知れない。そのようなのが,現在の状態なのである。わたくしのジェネレーション(世代)にとっては,政治においてある種の原則が,決定的にうけいれられて,もはやゆるぎないもののようにおもわれていた。たとえば,ユダヤ教徒もキリスト教徒も,おなじ社会的,政治的権利をもたねばならない。規定による法の手つづきをふまないでは,どの個人の生命乃至自由を奪ってはならない。また現実に戦争がおこなわれている時代に,若干の干渉と制限が必要となるばあいをのぞいては,意見を発表する自由がなければならない,などという原則がそれであった。
ところがいまや,これらの原則が,全部的にあるいは部分的に,多くの小国の名はあげないとしても,ドイツ,イタリア,ロシア,インド,日本の政府の排撃するところとなっている。ひとつのばあいにこの排撃に反対するものが,ほかのばあいには,この排撃を支持するのも,めずらしいことではない。共産主義者は,ファシスト諸国における専制政治について憤慨するが,スターリンが,自分の気分のおもむくままに,かれの同僚を死刑に処することができるのは,あたりまえのことだとおもっている。ファシストたちは,ロシアのクラーク(富農)の苦しみをひどいものだとして攻撃するが,自分たちのところでは,ユダヤ人には容赦する必要はないとかんがえている。世界はますます獰悪になり,自分たちが属する党がおこなう残虐行為に公然と反対の声をあげるものは,ますます少なくなっている。
こういう状態のなかで,われわれのあいだにも,なお寛容とデモクラシーを信じつづけるものはいる。しかし,これにたいして,そんなことをしていると,勝利はファシストか,共産主義者か,どちらかに行くのだから,われわれの地歩は無力で,守り切れるものではないということがいわれている。わたくしは,こういう見方はまったく非歴史的なものだとおもうし,いずれにしても,この見方をうけいれることはできない。
まず,歴史的な議論からはじめよう。かつて西欧の世界が,ルター派とロイォーラ派(松下注:イグナティウス=ロヨラ)とにわかれていたことがあった。政府という政府は,すべてどちらかの側について,血なまぐさい戦争がたたかわれた。少数ではあったが,エラスムスのように,中立をたもっていたものもいたが,かれらの声はほとんど問題にはされなかったほどであった。しかし,ほほ百年のあいだ,殺し合いがつづいて,しかもどちらの側に勝利の栄冠がかがやくというわけでもない。ひとびとは,このような状態にあきてしまって,結局殺し合いをやめたのである。いまからかんがえると,われわれには,お互いに相手方を迫害し合ったプロテスタント教徒も,カトリック教徒も,どっちもどっちであって,ほとんどえらぶところはないようにおもわれる。むしろわれわれは,十七世紀の世界を,狂信的なひとびとと,わけのわかったひとびととにわけるべきであろう。そのばあいに,反対の側に立つ狂信的な態度を,おなじように馬鹿げたこととして,一緒にしてよい。将来からふりかえって見ると,現在の共産主義とファシズムも,まさにそのようにおもわれるであろう。究極において勝利をおさめるものは,何時の世にもけっして狂信者ではない。何故ならば,狂信者はひとびとの感情を,つねに緊張状態に張りつめておこうとするのであるが,大部分のひとびとは,長い眼で見て,これにとても耐えられないであろうからである。十八世紀――いわゆる理性の世紀は,このような宗教戦争の興奮のあと,緊張がゆるんだ時代であった。おなじように,わたくしは,近代のイデオロギー戦争のあとに,ふたたび理性の時代が来ることを信じてうたがわない。ひとびとは,まえにもそうであったように,何の証拠もない信仰の名において,異端者を迫害しようとはしないであろう。
ファシズムと共産主義とは,心理学的に分析して見ると,おどろくべきほどよく似ていることがわかる。この二つの信条は,いずれも,野心をもつ政治家がそれをつかって,いままで政治家と資本家とのあいだにわけられていた権力を,自分たちの手にあつめようとするものなのである。もちろん,かれらのイデオロギーはちがう。しかしイデオロギーというものは,単に政治家の武器にすぎない。政治家がイデオロギーをつかうのは,兵士が小銃をつかうようなものだ。心理的にはたとえ政治家が,自分自身の雄弁に酔って,だまされているばあいにも,このことにかわりはない。共産党,ファシスト政党のいずれの党のテクニックもおなじである。まず,少数のものに,憎しみに訴えるイデオロギーをあたえて,説得する。それから,なんらかの好計を使って,この少数のものの手に,軍事権力をあつめる。そして最後に,専制政治を樹立するのである。近代の世界では,この方法は,はじめてクロムウェルがつくり出したのだ。
この方法の欠点はあきらかである。この方法は,にくしみに訴えるのであるから,それは国内では,残酷さと,あらゆる種類の自由の抑圧とをともなわねばならないし,国外に向っては,はげしい恐怖の反応と,戦争の準備とをともなうであろう。この方法をふたたび復活させようとするもののテクニックがこうであるからこそ,もしそれが成功したとしても,その成功は,過去に見られたおなじような宗教上の運動のように,一時的な成功でしかあり得ない。やがて間もなく,熱狂的な態度のかわりに腐敗がおこり,熱意はスパイや密告者の活動に堕す。支配者は,暗殺やお膝元の叛乱をおそれて,自分自身の秘密機関の捕虜も同然の状態となり,そのほかのものはひとりのこらず,ありもしない陰謀のかどで,ちかしい親戚や友人をも密告するのが,出世の早道だとおもうようになる。これらすべてのことは,べつにあたらしいことではない。タキトゥスの著作をひもといても,近年のロシアの事例に徴しても,このことはよくわかるであろう。
かくも多くの急進的なひとびとが,このようなみちを通じて,千年の太平天国に行きつくことができると思いこんでいるのは,まことに不幸なことである。かれらは,全体主義国家にいろいろちがった種類があるが,すべていかにも似かよったものであることを,見ようとはしない。大戦が生み出した考え方からして,人民の協力がなくても,暴力で極端にまで何でもできるとおもう風潮が助長された。それとともに,貧窮におちいったものには,だれかこの災厄の責任を負うべき敵をみつけたいという心がうまれた。大戦の結果である危機をなおすのは,もう一度もっと大規模な戦争だという考えがある。そしてヴェルサイユおよびそのあとの理想主義者が味わった幻滅は,わすれられている。これはけっしてかしこいことではない。人類の幸福がえられるのは,暴力,残酷さ,専制政治を通じてではないのだから。
一九一四年に,世界はあやまったみちを歩みはじめた。世界は,いまでもこのみちを歩みつづけている。しかも,旅路の末が遠く視界のそとにあればあるほど,ますます足を早めて,歩みつづけている。おそらくこの袋小路は,宗教戦争のばあいとおなじように,行きつく最後まで,行かねばならないだろう。そのときにはじめて,ひとびとは,袋小路からどこにも行くことができないことを見出すのである。しかしそれまでのあいだでも,理性をつかい得るひとびとは,この破滅に向ってなだれ行く狂気じみたうごきに,力をかしてはならない。