金子光男「バートランド・ラッセルの幸福論」
* 出典:『理想』1970年9月号、pp.41-49* 金子光男氏(1919~?)は当時、東京家政大学教授。現在、東京家政大学名誉教授
* バートランド・ラッセル 幸福論 (松下彰良 訳)
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バートランド・ラッセルは、『変りゆく世界への新しい希望』(New Hopes for a Changing World, 1950)のなかで、その最後に次のようにいっている。
「わたしはながい困難の多い道を通って、知性をもって自然の障害を克服する方法を発見し、自由と喜びのなかに、自分自身としたがって全人類と平和に暮らす方法を発見した。(1)」このことばこそ、1世紀にも及ぶ長い生涯の苦闘のはてに、ようやく幸福の彼岸に到達することのできた哲人の心からの述懐である。まさに人間の幸福は、歓喜にむかって胸を開き、恐怖を過去の薄暗のなかに忘れ去ることによって得られるものなのである)(2)。
しかしラッセルのこの幸福到達への心境は、決して一朝一夕にして形成されたものではない。たしかに彼はイギリス貴族としての名門に生れ、20世紀の偉大なる哲学者として画期的な栄光に輝く生涯を送った。だがその栄光のかげに、じつは哀愁にみちた孤独の生涯があったのである。彼は幼くして両親を失い、長ずるに及んで友人や同胞にも離反され、学問や仕事の困難さに行詰り、さらにまた愛情のしがらみのなかで、幾度か自殺を決意したこともあった。しかし彼はよくその孤独と苦難とに耐えてきた。そしてまた人生への希望を棄てることもしなかった。それのみならず、無気力な絶望にあらざる断固たる絶望(unyielding despair)を越えて希望の倫理(ethics of hope)を確立したのである(3)。思うに彼は、現代という暗い時代に生きる運命を背負った人びとには考え及ばぬほどの幸福が、そしてもっと想像や知識や共感のみなぎる人生の幸福が可能となるであろうことを確信していたのである(4)。
したがって、ラッセルの幸福の考え方は、安易なる楽天主義的なそれではない。彼によれば、幸福とは自然に棚ボタ式に与えられるものではなくて、意識的に苦闘し努力して、その結果獲得されるものである。彼が1930年に著わした幸福論が、『幸福の克服』(The Conquest of Happiness)という表題が付せられたのもそのためであり、そのはじめに彼が「わたしは不幸に悩み苦しんでいる何千万の男女が、自分自身の状況を診断でき、そこから脱出する方法を示唆されることを望んでいる(5)」と書いているのも、たんなる主観的発想からではなく、客観的な方法を呈示したことを意味するものである。それと同時に、その幸福論は、幾多の紆余曲折を経てきた孤独の人ラッセルが、齢58という人生体験ゆたかな年齢にあって、自分の経験と観察によって確証した処方箋であり、また創造の世界をみつめて、未来への希望を青年に託した人生訓であるともいうことができるであろう。
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われわれは、ラッセルの幸福論を考察する前提として、幸福に焦点をおいた彼の倫理的立場を確めておこう。その倫理的立場とは、現代のように科学技術が長足の進歩をとげ、それが政治権力とたくみに野合されている社会のなかで、人間ははたしてこのままで幸福でありうるかという疑問から出発するということである。現代はたしかに豊かな社会である。しかし彼は全人類が戦争の脅威の前にひれ伏しているという歴史的動向をするどくとらえ、「現代はまさに狂った世界である」(Our world is a mad world(6))という警告を発している。このような狂った世界のなかで、いかにして人間が幸福な生活を送ることができるのであろうか。そのためにこそ、彼は政治や経済や社会や科学や宗教さらに教育などの諸文化を分析して、理想的な社会の実現に努力したのである。
彼はかつて、その倫理思想の集大成といわれる『倫理と政治における人間社会』(Human Society in Ethics and Politics, 1954)のなかで、現代社会において、望ましい倫理を確立するためには、「社会機構」(the social system)と「個人の諸欲求の性質」(the nature of individual desires)を問題としなければならないことを指摘した(7)。(この点について、彼は『幸福の克服』のなかでも、人間の幸不幸に関係する重要な動因は、社会機構(the social system)と個人の心理(individual psychology)のなかに存在しているといっている(8)。このことは、望ましい倫理を確立するためには、社会倫理的側面と個人倫理的側面の両者を問題としなければならないということを意味しているのである。ということは、幸福論を考えるにあたっても、社会的条件と個人的条件の両者から考えなければならないということでもある。
すなわち、ここで社会機構に重点をおけば、社会制度の変革をめぐっての経済的搾取からの解放、政治権力との対決を通しての戦争廃止論などといったかたちでの幸福論が展開されるであろう。人間が本当に幸福になるためには、たしかに理想的社会が実現し、平和な世界が確立されることが必要であろう。しかし、それだけで人間ひとりひとりが幸福になるとは限らない。それは幸福がその人の心の持ち方、人生観によっても左右されるからである。ラッセルは、せめて自分たちの生活している身近かな周囲だけでも楽しくする必要があると考え、そのように努力することこそ、幸福への手近かな実現の方法であると考えたのである。
というのも、ラッセルは'現代社会の人間'があまりにも精神的病根や心理的障害に陥り、人間同士がたがいに反発しあい、社会的連帯性を失って、いたるところで罪悪を惹起しているという状況に直面したからである。彼はこれらの諸情念の葛藤(the conflict of passions(9)を生じている心理的障害を分析し、ここから正常な人間を啓培し、もって幸福な人間社会に貢献しようとした。このように人間が自らの手で自分自身をしめあげて不幸にしているという現代人の悲劇は、いかにして生じたのであろうか。彼によれば、これらの心理的障害は、人間が「自己自身にとらわれること」(to have a preoccupation with myself(10))である。自己自身にとらわれるのは、一方では自分自身の罪とか愚かさとかの欠点について内向的に思いをいたして劣等感をおぼえ、また他方では自己を自分以上の実力あるものにみせようとして、外部的誇張によって内部的空白を生ずるにいたる。したがって幸福を獲得するためには、これらの心理的障害を除去しなければならないというのである。
ラッセルは、これらの心理的障害つまり不幸の原因(causes of unhappiness)として次のものをあげている。すなわち、厭世的な人生観をもった「バイロン的不幸」」(Bironic unhappiness)、人間生活の楽しさを妨害する「競争」(competition)、種々の事物に対する欲求の挫折やそれから免れたいという「退屈と興奮」(boredom and excitement)、緊張の連続による「疲労」(fatigue)、他人の長所や美点に対して敵意を抱く「嫉妬」(envy)、反対に自分自身の長所や美点をことさら誇張し過大視する「被害妄想」(persecution mania)、さちに「世論に対する恐怖」(fear of public opinion)などをあげる(11)。これらのなかで、たとえば彼がバイロン的不幸というのは、不幸を宇宙の性質に帰し、不幸であることが唯一の状態であるという考え方であるが、これに対して彼はなるほど死や苦は人生にとって避けられない悲しみではあるが、人間が永遠に生きるものでないからこそ、人生の喜びはつねに新鮮さを持つものであると考える(12)。
また、現代という機械的な生活のなかでは、生存競争が行なわれ、人びとはつねに相手を蹴り落そうとして汲々としている。そこでは教養も趣味もすべて仕事の犠牲となって、生命のかれた人間になってしまう(13)。このような緊張の生活には楽しみはなく、神経が破壊されて疲労を生じ、さらに嫉妬や被害妄想などにとりつかれることになる。かくて名声や権力あるいはその両者の形における社会的成功の追求は、競争的社会における幸福のもっとも重要な障害である(14)。したがって、これらに対しては静かな雰囲気のなかで物事を現実的に処理する能力を養うことが大切となるのである(15)。
ラッセルは、このように人間を不幸にする心理的障害を克服するために、人間は「自己自身を超越すること」(to transcend self(16))を主張する。すなわち、自己中心的考え方を打破ることである。なんとなれば、自己中心的な感情や情緒が諸情念の形となってあらわれるからである。すなわち、人間の感情や情緒を内部に向ってでなく、外部に向って発動させなければならない。この点についてラッセルは、従来の職業的な道徳家たちが、自己を中心とした修養克己を主張し、また伝統的な宗教家が自己没入の方法を説いたことに対して、それが消極的な方法であって、決して人生を幸福にするものではないとし、もっと前進的で積極的な方法を主張するのである。
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ではラッセルの積極的な幸福獲得の方法はなんであろうか。おもうに幸福の問題が倫理学の客観的な問題となるためには、ただ主観的な経験や直観だけで論ずるわけにはいかない。それには幸福の理論が科学性をもつことが必要である。この点について、ポーランドの哲学者ボヘンスキー(J. M. Bochenski, 1902- )は、ラッセルの哲学思想を論述しているなかで、「人間を普遍的に完成してゆくことによって達成される幸福がつねに目標として追求されるべきであり、より多くの幸福が生ずるためには、すべての自然の天性でさえが科学的な取り扱いの対象とならなければならない(17)」といっていることからも明らかである。
ここで幸福の問題を科学的に考察する方法として、わたしは「肯定的接近法」と「否定的接近法」とを考えたいと思う。前者は、個人の幸福の主観的状態を構成する要素を区別し、よい状態の総額を定義しようとするものであり、後者は、個人が幸福であることを妨げる諸々の事物はなにか、またそれらをどうしたら克服できるかを発見しようとするものである。おもうに肯定的接近法においては、幸福を請け合う具体的な諸要目のリストを作ろうとすることで、主観性の非常に強い領域であり、これに反して、否定的接近法は、幸福に必要な諸条件すなわち取除くことの必要な障害を考察するのであって、社会的な観点からきわめて有効な方法である。
ラッセルの幸福克服の考え方は、あたかもこの否定的接近法ともいうべきものであり、この接近法によって不幸の原因を追求し、どうしたら幸福を獲得できるかという肯定的接近法を展開し、幸福の社会的条件と個人の態度とを論ずるのである。彼はいっている、「幸福の克服は、このようによけられない不幸、病気、心理的もつれ、闘争と貧困と悪意にみちた世界のなかで、人びとが個人を攻撃してくる不幸の原因の大軍とたちむかう方法をみつけること(to find ways of coping with the multitudious causes of unhappiness)である(18)」と。すなわち、幸福への道は内に向けていた目を外に向けることにあり、そのためにはわれわれの興味をできるだけ幅広くし、その興味をそそる人や物に対する反応を、できるかぎり敵対的でなく友好的に(as far as possible friendly rather than hostile)することである(19)。
この考え方にたって、ラッセルは具体的に幸福をもたらすもの(causes of happiness)を次のようにあげていく。すなわち、まず人間は健康(health)であり、熱意(zest)をもち、たがい愛情(affection)をささげあい、仕事(work)に喜びを感じ、均衡感をもたせる非個人的興味(impersonal interest)をいだき、生活のために努力(effort)をつづけ、その成否を運命に任せるという諦念(resignation)をもつということなどである(20)。これらについて若干の説明を加えよう。文明社会にあっては、われわれの生活に欠くことのできない自由は、熱意の喪失によって制限されているのであり、人間は健康とエネルギーとによって熱意にむかってたちあがることができる(21)。つぎに仕事であるが、これは成功へのチャンスと野心のはけ口(chances of success and opportunities for ambition)(22)を与えるという利点がある。われわれは自分の仕事が有益であることを確信して、仕事への技能に強い自信をもたなければならない。また彼が非個人的興味というのは、余暇を生かし仕事の緊張からの解放を与えようとする興味のことで、その人の生活の主たる活動の外にある興味で、わき道的な興味(subsidiary interests)(23)ともいうべきものである。そしてこれは生活における焦燥や疲労のなかで、気分を転換させ、均衡感をもたせることができる。さらにまた無数の不幸とたたかう内外両面にわたる努力が必要であり、それと同時に自己の最善をつくしてその成否を運命にゆだねるというおさえがたい希望に根ざしたあきらめ(resignation which is rooted in unconquerable hope)(24)をもつことも忘れてはならない。人びとは人生の挫折のなかに慰安を見出して、自己を客観的に眺めることによって、あきらめの境地に到達することができるのである。
この点について、ラッセルは1959年に連続放送のためのテレビ対談を行ない、そこで13回にわたるインタビューを行なった。そのなかで「幸福を促進するものはなにか」の問いに対して、彼はまず健康をあげ、ついで対人関係、仕事の成功および収入などをあげている(25)。
ここでの彼の解答はきわめて常識的ではあるが、健康を第一にあげているのも、それが幸福の先決条件であると考えたからである。このことについて、彼が理想的人間像形成の第一の要素としてして、「生命力」(vitality)をあげているのも(26)、彼が精神的健康とともに肉体的健康を重要視したことによるものである。まさに生命力は、いかなるできごとにも興味をもたせこれによって精神の正常さにとって本質的な客観性を増進させ(27)、あらゆる不幸を乗り越えさせるものである(28)。
ついで対人関係といっているのは、友情とか愛情ないし子供との関係を指摘したものであり、仕事に成功することに大いなる喜びをもつことを論じたのである。もしある人が妻や子供に喜び、仕事に成功し、日夜春秋の交替を楽しく思えば、その人は幸福である。これに反し、憎悪し、子供の立てる雑音が耐えがたく、事務が悪夢に感じられるなら、また昼には夜を渇望し、夜は昼の光を思って溜息をつくならば、それは新しい摂生法を必要とするであろう。(29)
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われわれは、幸福の問題について、個人的心理の観点から幸福をもたらすものを考察してきた。幸福な人とは、「客観的な生き方をする人であり、自由な愛情と広い興味をもつ人」(the man who lives objectively, who has free affections and wide interests)(30)のことであった。われわれは、これらの興味と愛情と、それによって逆に多くの興味と愛情の対象にされるという事実を通して、自分の幸福を保つのである。外的条件がはっきり不幸でない場合には、情熱と興味を内へでなく外へ向けさえすれば幸福にいたる。そこで教育において、われわれが努力すべきことは、自分自身についていつもかかずらう考えを防ぐような愛情と興味とを手に入れることである。
われわれ自身をとじこめる情熱は、すでに述べた、おそれ、ねたみ、罪の意識、自分をあわれに思ったり、うぬぼれたりすることであり、これらはすべて、われわれ自身に集中されている。必要なのは、よそおわれた興味(simulated interests)ではなく、本当の興味(genuine interests)なのである(31)。人間の悩みが罪の意識のせいならば、合理的判決をうえつけ、中立的行動によって、客観的な興味が出てくるようにしなければならない。ここに道徳的勇気(moral courage)と知的勇気(intellectual courage)とが必要となってくる(32)。彼が人間像形成の要素として、生命力についで、勇気(courage)、感受性(sensitiveness)および知性(intelligence)をあげるのはそのためである(33)。
生命力が身体の徳を代表し、他の三者は精神の徳を代表する。これらの両者がたがいに提携して、現代社会を突破するに必要なエネルギーを創造する。そしてまたこれらの人間像の諸契機がそれぞれ相合して望ましい全能力の調和的状態を形成する。彼はこれらの全体的調和の状態を「正気」(sanity)と称したのである(34)。われわれ現代人が、これらの諸契機を体得したならば、過去から現在に至るまでに身につけてきた残忍性・猜疑心・敵対心・競争心また虚栄心などの心理的障害は、おのずとその影を没し去ることであろう。
すべての不幸は、自分自身のなかで意識と無意識の協力がうまくいかなくて分裂が生ずることによるものであり、幸福な人は、これらの統一に失敗してもなやまない人である。そのような人は、「自分自身を宇宙の市民と感じ、市民のえがく展望と、宇宙の与える喜びとを自由に楽しむ人間」(Such a man feels himself a citizen of the universe, enjoying freely the spectacle that it offers and the joys that it affords.(35)であり、そしてまたかかる人間は、彼自身を彼のあとからくる子孫とわけて考えないから、死をも恐れず、深く生命のながれと本能に結びつくのであって、そこに最大の喜びも発見されるのである。
かくてラッセルは、人間性のなかから、いかにして自らの幸福を創造するかを構想するのであり、人間自身のなかにもっているあらゆる可能性と潜在性とを建設的に再構成することによって、真実の自己を建設せんとしたのである。そしてこのような人間性の改造によって、幸福な理想的社会が作られるとしたのである。彼は未来の社会において、英知と勇気とを兼ね備えた人びとが他の人びとを導くことを構想し、そこにはひとりの餓死者も病人もなく、仕事は愉快で適度であり、万人が他人に対して同情の心を持ち、恐怖から解放された人びとの心が、眼や耳や心のための喜びを創造するであろうと考えた(36)。
ラッセルは、未来には必ず幸福な社会がくることを確信していた。彼はいっている、「人間の力でもって、赫々たる光彩に輝く大殿堂を建設し、そこから人間の思想と感情をもって、できるだけの輝かしい偉大なものが、暗のかげりを混じえない光を放ち、人びとの情感を喜ばせ、思想を明噺にすることができるのである」と(37)。ここには彼の手放しといってよいほどの楽天的な社会像がうかがわれるのである。
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ラッセルは幸福を考えるにさいして、あくまで客観的な外的条件と主観的な内的条件の両者を問題としていた。そして種々の社会的条件と対決しながら、また人間性の改善を通して、社会を改善しようと努力した。そのうえで彼は個人の幸福を求める権利の行使を追求したのである。そして彼は個人の心理的問題としての気の持ち方、努力の仕方などを論じたのであるが、この幸福の考え方を支えていたものは、生物的本能にまでひき下げて分析したその方法論であった。すなわち、彼は人間のみにくい偽善とか情緒などをむき出しにして、人間の諸情念をあるがままにみとめ、この諸情念をいかに処理するかを探究したのである。
現代社会は「合理的で創造的な希望」(rational and creative hope (38))を必要とする。それは生きる目標となる積極的なものを必要とし、否定的感情よりも肯定的感情を必要とする。そうでなければ、われわれは永久に絶望から出られないであろう。人間社会において、人びとは美を創造し、愛の能力と同情の能力、さらに全人類へのさまざまな雄大な希望の能力をかちとらなければならない。われわれが、この現代を人間的なほこりをもって生き抜くためには「勇気と希望と不動の信念」(courage, hope and unshakable conviction (39))とが必要である。ともすればくずれそうな自己の精神を鼓舞して、必要な希望の倫理を創造するところに、現代人の生き甲斐があり、そこにこそまた現代人の幸福も存在する。宇宙のなかで人間はその無力感を痛感させられる、しかしわれわれは、自己の全能力をもってたたかわなければならないのである。
われわれは幸福を獲得するためには、その苦痛と挫折とに悩まされながら、人生の目的にむかって前進すべきである。そして人生に打ち勝つためには、関心をひろげて一歩一歩と自我の障壁を後退させることである。ラッセルは、希望の倫理の確立を永遠の生命の流れに対する確信のなかに求めてゆく。彼は人間の存在を河にたとえて次のようにいっている。「はじめは狭い堤防のあいだを流れていって、岩にぶつかり、瀑となって落ちたりする。そのうちにしだいに大河となり、河幅は広がり、水流はゆるやかとなって、ついには何の苦痛もなく大海に流れこんで、人間の個人的存在を没するのである(40)」と。このように人生を考えるならば、人間は恐怖のために苦しむことなく、自分の生命を普遍的生命のなかへ融合させて、その存在と発展とが約束されることであろう。
註
(1)B. Russell, New Hopes for a Changing World, p.218.
(2) : , Ibid., p.218
(3) : , Ibid., p.175
(4) : , Human Society in Ethics and Politics, pp.238-239.
(5) : , The Conquest of Happiness, preface, p.9.
(6) : , Education and the Social Order, p.246
(7) : , Human Society in Ethics and Politics, p,148
(8) : , The Conquest of Happiness, p.17
(9) : , Human Society in Ethics and Politics, p.155
(10) : , The Conquest of Happiness, p.19
(11) : , Ibid., pp.27-126
(12) : , Ibid. p.33
(13) : , Ibid, pp.46-49
(14) : , Portraits from Memory and Other Essays, p.201
(15) : , The Conquest of Happiness, p.56
(16) : , Ibid., p.95
(17)J. M. Bochenski, Europaische Philosophie der Gegenwart, (ボヘンスキー『現代のヨーロッパ哲学』p.68: 枡田啓三郎訳「バートランド・ラッセル」
(18)B. Russell, The Conquest of Happiness, pp.230-231
(19) : , Ibid., p.157
(20) : , Ibid., pp.158-230
(21) : , Ibid., p.170
(22) : , Ibid., p.209
(23) : , Ibid., p.222
(24) : , Ibid., p.235
(25) : , Bertrand Russell Speaks His Mind(『ラッセルは語る』東宮隆訳)p.87.
(26) : , On Education, p.48
(27) : , Ibid,, p.49
(28) : , The Conquest of Happiness, p. 228
(29) : , Portraits from Memory and Other Essays, p.202.
(30) : , The Conquest of Happiness, p.243
(31) : , Ibid., p.244
(32) : , Ibid., p.245
(33) : , On Education, p.48
(34) : , Education and the Social Order, p.247
(35) : , The Conquest of Happiness, p.248
(36) : , Human Society in Ethics and Politics, p.238
(37) : , New Hopes for a Changing World, p.217
(39) : , Ibid., p.184
(40) : , Ibid., p.210