バートランド・ラッセル「新しい型の宗教」
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』より
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コペルニクス以後、科学と神学とが意見を異にした時、いつも科学が勝っていた。
(これまで見てきたように)神学は人間生得(生来の)の野蛮さを助長したが、科学は不幸(苦痛)を減らすのに役立ってきた。科学的なものの見方が普及して、神学的なものの見方とは逆に、明らかに幸福は増大した。
科学とキリスト教(神学)との闘争は、時々前哨地で小競り合いはあっても、今日ほとんど終わり、・・・キリスト教は野蛮時代から引き継いだ不必要なものを捨て、純化し、また、反対者を迫害したがる欲望も抱かなくなった。
より自由な考え方をするキリスト教徒は、「隣人愛」というキリストの教えを受容することと各個人の中に尊厳なものが在ることだけを信仰している。また、「キリスト教徒は戦争に反対すべし」との信念が教会に高まりつつある。
The warfare between science and Christian theology, in spite of an occasional skirmish on the outposts, is nearly ended, and I think most Christians would admit that their religion is the better for it. Christianity has been purified of inessentials inherited from a barbarous age, and nearly cured of the desire to persecute. There remains, among the more liberal Christians, an ethical doctrine which is valuable : acceptance of Christ's teaching that we should love our neighbours, and a belief that in each individual there is something deserving of respect, even if it is no longer to be called a soul. There is also, in the Churches, a growing belief that Christians should oppose war.
旧来の宗教が純化され、多くの点で人類に有益になって来た一方で、新しい型の宗教が現れて来た。
先ず第一に、科学的精神よりも科学的技術を優先・重視すること(注:科学的精神よりも技術を重視すること)、次に、キリスト教が後悔し改めた誤謬を、キリスト教に代って(誤謬を)繰り返していることの二つの理由から、新しい宗教が生れた。
宗教と呼ぶ理由は、事実と証拠とに立脚する科学的精神よりも、絶対性を情熱的に主張し、反対派にガリレオ時代の宗教裁判のような迫害を加えるからである。
ユダヤ人を迫害するナチス・ドイツで、キリストもユダヤ人だと主張したり、古い唯物論に固執するスターリン(支配下の)ロシアで、原子がその実体性を失い単なる事象(出来事)の連続にすぎないと主張すれば(注:唯物史観を否定すれば)、両方とも、厳しく迫害・処罰される(その処罰は多分法的なものよりも経済的なものであろう)。
If you maintain in Germany that Christ was a Jew, or in Russia that the atom has lost its substantiality and become a mere series of events, you are liable to very severe punishment - perhaps nominally economic rather than legal, but none the milder on that account.
Source:Religion and Science, 1935, chap. 10
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