バートランド・ラッセル「教育と訓練」
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』
* Source: In Praise of Idleness and Other Essays, 1935, chap. 12: education and discipline
下記は牧野力氏による要旨訳に少し手を入れ、英文を追加したものです。
いかなる真摯な教育理論も、(イ)人生の目的の概念と、(ロ)心理学的な力学の科学、つまり、精神の変化の法則の科学、の2つの部分からなりたっていなければならない。・・・西欧文明圏全域の教育機関(educational machine 教育機関/教育機構)は、キリスト教倫理と国家主義倫理に支配されている。両者はまじめにとれば、両立不可能である。両者の(意見が)一致しない場合には(differ)、キリスト教倫理のほうが好ましい。両者の意見が一致する場合は、両方とも間違っている。教育の目的から考えれば、両者を文明という概念と取り替えなければならない。 文明とは、個人的に見ると、(イ)知的な性質 (最小限の一般的知識と職業的技術的能力と証拠に立脚して考える習慣)と(ロ)道徳的性質(最小限の公平、親切、自制心)、(ハ)心理的性質(最小限の生きる熱意と喜び)とを持っていることである。また、同時に、社会的に見れば、文明のための(イ)法律尊重、(ロ)対人関係の正義、(ハ)公害防止のためにその意図と手段とを目的に適応させる配慮などである。これら全部のために自由をどの程度許すのが最も効果的であるのか考えること、これが心理学という科学である。
(Any serious educational theory must consist of two parts: a conception of the ends of life, and a science of psychological dynamics, i.e of the laws of mental change. Two men who differ as to the ends of life cannot hope to agree about education. The educational machine, throughout Western civilization, is dominated by two ethical theories: that of Christianity, and that of nationlism. These two, when taken seriously, are incompatible, as is becoming evident in Germany. For may part, I hold that, where they differ, Christianity is preferable, but where they agee, both are mistaken. The conception which I should substitute as the purpose of education is civilization, a term which, as I mean it, has a definition which is partly individual, partly social. It consists, in the individual, of both intellectual and moral qualities: intellectualy, a certain minimum of general knowledge, technical skill in one's own profession, and a habit of forming opinions on evidence; morally, of impartiality, kindlines, and a modicum of self-control. I should add a quality which is neither moral nor intellectual, but perhaps psychological: zest and joy of life, In communities, civilization demands respect for law, justice as between man and man, purposes not involving permanent injury to any section of the human race, and intelligent adaptation of means to ends.
If these are to be the purpose of education, it is a question for the science of psychology to consider what can be done towards realizing them, and, in particular, what degree of freedom is likely to prove most effective.
以下、英文の添付を省略します。)
教育における自由という問題には、(一)どんなに悪い子であっても子供を自由にしておく、(ニ)どんなに良い子であっても子供を権威に服従させる、(三)子供を自由にしておくべきであり、自由にしておくにもかかわらず、子どもたちは常に良い子であるべきである(There are those who say they should be free, but in spite of freedom they should be always good.)、の三つの考え方がある。(訳注:もちろん、まったく自由放任にしておけば、悪いことをする子供も当然いますが、ここはルソーの自由放任主義を言っており、自由にしおいても人間(子どもたち)は常に良い子であるような育て方をしなければならないと言ったニュアンスでしょうか? 因みに、牧野氏は「子供を自由にして置くべきで、自由にしておいても悪い行動はしない」と訳されており、「should の部分」が表現されていないように思われます。悪いことをしない子供が存在しないはずはないので・・・?)
最後の説はルソーの考え方の名残りで、動物と幼児とを科学的に研究すれば、極端な説であって誤りだと分かる。甚だ個人主義的な考えで、知識の重要性を軽視し、協力の必要な社会生活の中で協力性が自然衝動から生れるという説は夢物語である"科学と技術との力で社会に必要な協力が生れるのだから、子供が自力では身につけられない精神的,道徳的素養を教育は育てなければならない。
不当に権威主義的な教育は、生徒を臆病な暴君に育て、独創的な言行を実行できずに、心が狭く他人を許せない。成長して教育者になると、加虐的訓練家となり、生徒に恐怖心を抱かせる不適格者になろう。
(逆に)子供を放置すれば、強い方の子は大人以上に横暴・野蛮になる。大部分の子供に該当するが、他人への思いやりは自然に身につくものでもはく、権威なしでは教えることはできない。いたずらな子は愛されていると感じていれば、自然の衝動から正しい判断をするので、規則は愛情と指導による熟練の代りにはならない。