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バートランド・ラッセル「感覚与件( sense-data )」

* 出典:牧野力(編/著)『ラッセル思想辞典
* 原著: Mysticism and Logic, 1918, chapt. 8 & 10


 以下は、遠藤弘 氏(故人/当時・早稲田大学文学部教授)による要旨訳に英文(Mysticism and Logic, 1918, chapt. 10の該当部分)をほんの少しだけ付加したものです。

 中性一元論以前のラッセル思想の中でとくに重要な位置を占めていると思われる概念である(注:つまり、後に考えが変わって「中性一元論」or「中立一元論」を唱えるようになっている)。『哲学の諸問題』 (注:The Problems of Philosophy, 1912. 邦訳書のタイトルは『哲学入門』)の中で、感覚与件(センス・データ)感覚の中で直接知られるもの、例えば、色、音、匂い、硬さ、ザラザラした手触り等々、と説明される。その場合、感覚とはそれらのものを直接意識する経験のことをいう。つまり、所知(acquaintance/注:「直接知」のこと)によるものと記述によるもの(知識)(例:『道草』は漱石の作品である。)とに分けるとすれば、感覚与件所知による知(直接知)の最も明白なそして顕著な例を提供してくれる。(同書 The Problems of Philosophy, 1912 p.75)


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 さて、この感覚与件心的なものか、物的なものかという問いに対しては、ラッセルはこれを物的なものとみなしている(注:これはあくまでも1912年の時点でのこと。その後、心的でも物的でもない、あるいは心的でも物的でもある「中立(中性)一元論」の立場に移っています。以下同様)。現実的な世界のいくつかの成素(注:構成要素)について何事かを語るものが物理学であるとすれば、感覚与件はこの物理学が取り扱うべきである(注:1912年時点での考え方) 論理的にみれば、 感覚与件は一つの対象であり、信(注:信念)や意志のように主観を自らの内に含まない。したがって感覚与件の存在は主観の存在に論理的に依存しないのである。これを心的なものと考えてしまうのは、感覚与件と感覚との混同に起因するのである。だが、感覚与件は感覚器官の脳髄に因果的に 依存しているという意味では生理学的にみて主観的であり、また私的である
 さて、常識的に物とよばれるもの現実の感覚与件可能な感覚与件(注:たとえば、火星に今人間はいないが、火星にいって経験することは感覚与件になる可能性があるので、「可能な感覚与件」になる)の集まりである。通常、物とその現れは異なるとみなされ、前者を物的とすれば、それと異なる後者は心的と考えられるが、ラッセルの場合、感覚与件は本来物的だからそのような区別は当らない(注:1912年の時の考え)。それよりも後者が単に主観的、私的であるということが問題になる。そこで、私的な空間から公的な空間を論理的に構成するという議論が展開されるにいたる。つまり、ラッセルは 感覚与件そのものが何であるかという点には関心を抱かず、彼にとって感覚与件はいわば自明の与件であり、 外界へ推論を進めて行く確実な手がかりなのである。
 やがて「心の分析(the Analysis of Mind, 1921)」を著すにいたって、ラッセルは感覚与件を物的、感覚を心的とする区別を改め 中性一元論を唱えるにいたるが、その際中性的素材として選ばれる感覚である。(遠藤氏は最後にこのように書いているが、最初にもっと明確に書いておかないと、誤読する人が多そう。)

(When I see a colour or hear a noise, I have direct acquaintance with the colour or the noise. The sense-datum with which I am acquainted in these cases is generally, if not always, complex. This is particularly obvious in the case of sight. I do not mean, of course, merely that the supposed physical object is complex, but that the direct sensible object is complex and contains parts with spatial relations. ...