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バートランド・ラッセル「感覚( Sensation )」

* 原著: The Analysis of Mind, 1921, chapt.8 &Human Knowledge, 1948, Part III, IV.
* 出典:牧野力(編/著)『ラッセル思想辞典


 以下は、遠藤弘 氏(故人/当時・早稲田大学文学部教授)による要旨訳に英文(The Analyhsis of Mind, chapt. 8 の冒頭部分)を付加したものです。


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 「感覚(センセーション)」とは、中性一元論において、世界の中性的素材(注:心でも物質でもない、両者の中立的なもの)として重要な役割を果す概念である。感覚(sensation)はまず、常識的に知覚の中の非把持的な、いいかえれば記憶によらない要素と定義されうる。しかし、これでは感官(感覚器官)を通してやってくる全てのものが感覚のように思われる(思われてしまう)。目でみる光景、耳で聴く音、等々、それに頭痛や筋肉の緊張感もそうである。 だが、それらのものの中には、多くの解釈(注:感覚データそのものでなく、それを受け取った人が解釈したもの)や習慣的連関や期待が混じり合っている。 そこで純粋な感覚という核に到達するには、それらの夾雑物を慎重に除去しなければならない。しかしながら、感覚が存在することは確実だが、与えられた経験内の何が厳密に感覚たりうるかを決定するのは困難だと、ラッセルは言う。例えば、感覚が次第に色褪せてイメージに変貌し、いわゆる方量(ほうりょう/フリンジ/境界)を形成するようになるが、その途中の移り行きは連続であり、感覚とイメージの境界というものがない。従って、こうした移り行き全体感覚とよんでしまう立場も成り立ちうる。しかしラッセルの場合はこの把持的推移はいわゆる直接的記憶であり、純然たる感覚ではない。それはフッサールのいう意識流(意識の流れ)からその過去志向、未来志向をとり除いた
根源的印象なるものに近いが、「印象」を「印象づけること」という因果的構造へ分解するラッセルとしては、少なくともこの時期においてはそのようなとらえ方を適切なものとは考えないであろう。ましてやフッサー ルのようにそれが絶対的主観性にまで高められてしまうことはラッセルの中性一元論の立場と全く相容れない。 元来ラッセルにとって主観や意識という概念は不要だからである。
 そこでわれわれとしては感覚が何であるか厳密に定義することは断念して、中性的素材としてのその在り方を理解するにとどめざるをえない。あるいはこのように言えるかもしれない。感覚心と物の理論的構成の素材であるが、感覚そのものが当の構成の中で理論的に構成されていると。
 さて、感覚中性的であるということを理解するためには、上述のようなラッセルの意識や主観という概念の扱い方に注意することが必要である。もし主観があるとすれば、 主親は例えば一塗りの色に対して意識という一種の関係をもつであろう。 その際、心的事象としての感覚は当の色の意識から成り、色そのものは全く物理的であって、感覚与件とでもよばれるものとなるであろう。しかしながら中性一元論においては主観は数学的な点や瞬間と同じく論理的虚構にすぎないのである。したがって上のような意味で感覚と感覚与件とを区別する必要はない。われわれが一ぬりの色を見るときに得る感覚はそのまま当の色であり、物理的世界の現実的成素に他ならないのである。しかしながら、ラッセルによれば、当の色が物理的だということは、それが直ちに心的でないということにはならない。物的なものと、心的なものとが重なり合うことがないという想定は有効な想定ではない。一ぬりの色とそれを見たときのわれわれの感覚は物的、心的を問わず同一である。いいかえれば、感覚は心的な世界と物的な世界にとって共通のものとして存する。それは心と物との交点と定義されるのであり、物心の世界がそこから構築される中性的素材なのである。
 なお感覚および感覚たりうるもの(対象の裏側など)は目下のところ分析不可能な世界の究極の成素であるという意味で個別者とよばれたり(The Analysis of Mind, p.124 脚注)、 パースペクティヴを問題にする中ではそれが物の現れや相という体裁をとって論ぜられる
 また、その後、関心が知覚の因果説に向かって行った時期には、ラッセルは感覚の内的および外的な物理的原因を推論しようとする常識の傾向を合理化し、体系化しよ と努力する。その時期には中性一元論という言葉遣いがほとんどなされなくなるが、むしろかかる事情の変化に伴って中性一元論も体裁を新たにしたと見るべきであろう。すなわち世界の中性的素材としての役割は感覚ではなく、事象が務めることになるのである。(「中性一元論」の項を参照)。(遠藤弘)

* Lecture VIII Sensations and images

The dualism of mind and matter, if we have been right so far, cannot be allowed as metaphysically valid. Nevertheless, we seem to find a certain dualism, perhaps not ultimate, within the world as we observe it. The dualism is not primarily as to the stuff of the world, but as to causal laws. On this subject we may again quote William James. He points out that when, as we say, we merely "imagine ”things, there are no such effects as would ensue if the things were what we call "real.” He takes the case of imagining a fire :
“I make for myself an experience of blazing fire ; I place it near my body ; but it does not warm me in the least. I lay a stick upon it and the stick either burns or remains green, as I please. I call up water, and pour it on the fire, and absolutely no difference ensues. I account for all such facts by calling this whole train of experiences unreal, a mental tram. Mental fire is what won't burn real sticks ; mental water is what won't necessarily (though of course it may) put out even a mental fire. . . . With 'real’objects, on the contrary, consequences always accrue ; and thus the real experiences get sifted from the mental ones, the things from our thoughts of them, fanciful or true, and precipitated together as the stable part of the whole experience-chaos, under the name of the physical world.)