バートランド・ラッセル「予防戦争」
* 原著:What is Democracy?, 1953* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』所収
原水爆の危機をさけるため計画を練り行動すべきだ、と私は早くから考えていた。ひとたび危険が現実に動き出せば止めようがなくなるので、米国がソ連にバルック提案をした時賛成し、私は米国を見直した。
だが、一九四九年八月に、ソ連が最初の原爆を爆発させた。私は、核軍拡競争が始まる前、一九四八年春、ソ連に核兵器を持たせない目的で、対ソ開戦を辞さない意気込みで同案の受諾を迫るべしと示唆した。その理由を『常識と核戦争』の付録で述べた。ソ連が核兵器搭載空軍部隊を持つようになれば万事休す、と考えたからである。
これが、「予防戦争」の提唱として、後で、'平和主義者でありながら、戦争で脅すとは何事ぞ' と、私を攻撃する材料となった。憶測だが、同案が受諾されていれば、その後の現実の核軍拡は進行しなかっただろうし、この勧告は決して恥辱ではなく、私の思想の「矛盾」でもない。ただ、ソ連の拒否反応に余り気配りせずに、自分として '何気ない勧告' という発言には反省すべき所があったと自覚している。
I thought better of it then, and of the American motives in making it, than I have since learned to think, but I still wish that the Russians had accepted it. However, the Russians did not. They exploded their first bomb in August, 1949, and it was evident that they would do all in their power to make themselves the equals of the United States in destructive - or, politely, defensive -power. The arms race became inevitable unless drastic measures were taken to avoid it. That is why, in late 1948. I suggested that the remedy might be the threat of immediate war by the United States on Russia for the purpose of forcing nuclear disarmament upon her.