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「ヴィトゲンシュタイン」

* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典
* 以下は、ラッセルの著書に具体的に言及しておらず、藤川吉美氏(当時、成蹊大学講師)によるヴィトゲンシュタインの紹介。そこで、ラッセルがウィトゲンシュタインと初めてあった時のラッセルの描写(英文)を少しだけ追加しておきます。



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 ヴィトゲンシュタイン(L. Wittgenstein, 1889-1951):ウィーンに生れる。一九一二年から二年間ケンブリッジ大学においてラッセル、ムーアにつき、哲学・論理学を学ぶ。一九二〇年から八年間、小学校教師、修道院の庭師、建築家、等々を遍歴して、一九二九年再びケンブリッジ大学に復帰し、三〇年に客員講師、三九年より同大学教授、四七年以後は隠遁生活にはいる。
 彼の哲学は『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus, 1921) を代表とする前期と『哲学探究』(Philosphische Untersuchung, v. 1: 1936-1945, v.2, 1947-1949)を代表とする後期とに大別されるが、前期思想とくに「論理的原子論」(logical atomoism)はラッセルに強い影響を及ぼし、「論理実証主義」(logical atomism)の中心概念の一つになった。(論理的原子論、論理実証主義の項目を参照) ヴィトゲンシュタインによると、言語の単位である要素命題世界の構成要素一対一に対応していて、共通する論理的形式がその対応関係を保証している。すべての命題は要素命題の真偽の組合せによって形成されるから、その真理関数であるような命題のみが意味を有し、価値命題(倫理的道徳的命題)、形而上学的命題、論理的形式に関する命題、吾について語る命題、等々は無意味な命題と考えられている。そして、本来語りえないものについて語ろうとするところは伝続的哲学の誤謬があるとウィトゲンシュタインは強調する。
 一方、後期に入ると彼は前期の立場を批判し、これを否定することから出発して、言語現象それが使用される社会的文脈において考察の対象とされるに至った。目的に応じて多くの言語規則なるものが存在するが、いずれも言語としては不完全で、その意味は、それが使用される状況脈絡に応じて定まるものとされた。ウィトゲンシュタインによれば、哲学の使命は「言語批判」による形而上学の追放に求められるが、このテーゼは「日常言語学派」に強く影響を及ぼした。(藤川吉美)

<以下は『ラッセル自伝』からの引用です。>
He was an Austrian, and his father was enormously rich. Wittgenstein had intended to become an engineer, and for that purpose had gone to Manchester. Through reading mathematics he became interested in the principles of mathematics, and asked at Manchester who there was who worked at this subject. Somebody mentioned my name, and he took up his residence at Trinity. He was perhaps the most perfect example I have ever known of genius as traditionally conceived, passionate, profound, intense, and dominating. He had a kind of purity which I have never known equalled except by G. E. Moore. I remember taking him once to a meeting of the Aristotelian Society, at which there were various fools whom I treated politely. When we came away he raged and stormed against my moral degradation in not telling these men what fools they were. [彼(ウィトゲンシュタイン)はオーストリア人であり,また彼の父親は大富豪であった。彼は,技術者になろうと考えていて,その目的ために,マンチェスター(大学)に行っていた(で勉強していた)。数学(の本)の読書を通して,彼は数学の原理に興味を持つようになった。そこでマンチェスター大学で,数学の原理について研究している者はいないか尋ねた。誰かが私の名前に言及した。それで彼はトリニティ・コレッジに住居を定めた。 彼は,情熱的で,深遠であり,強烈で,抜きん出ており,おそらく,私が今まで知りえた人間のなかで,伝統的に思い描かれてきた天才の最も完璧な実例であったであろう。彼には一種の’純粋さ‘があり,それと匹敵するものは,G.E.ムーア以外に知らない。私は,一度彼をアリストテレス協会(注:アリストレス研究のための学界ではなく、英国哲学会のこと)の会合に連れていった時のことを記憶している。その会合には,多くの愚劣な連中が出席していたが,私は彼らに対し丁重な応待をした。私たちがその場を離れた後,彼は激怒し,彼らがいかに愚かであるか,彼らに言ってやらなかったのは道徳的堕落だと,私に怒鳴り散らした。]