バートランド・ラッセル「思考の独立性(自立的思考)」
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』所収* Source: Principles of Social Reconstruction,1916, chap. 5.
教師の英知を受動的に受け容れることは、大部分の生徒にとっては容易なことであり、自分で考える努力をせずにすみ、教師は生徒よりも物事を知っているのだから、そうするのが合理的だとも考えられてしまう。しかも受動的に受け入れるのは、教師がよほど例外的な人でない限り、教師のお気に入りになれる態度なのである。だが、そのような態度は大人になってから後に災禍をもたらすものとなる。すなわちそのような習慣は、人々に指導者を求めさせ、またすでに指導者の地位に座っている人を、誰であれ(抵抗なく)受け入れる原因となる。・・・。
たとえ教育が(個個人の)「思考の独立性(自立的思考)」を助長するためにあらゆる手段をつくしたとしても、多くの人々がそのような態度を示すようにならないかも知れない。だが、教育がその方向へ努力すれば、現在そうであるよりは確実により多くの人々が、思考の独立性(自立的思考)を持つようになるだろう。もし教育の目的が、生徒に特定の結論を受け入れさせることよりも、生徒自身に考えさせることにあるということになれば、教育のあり方はまったく違ったものとなるだろう。即ち、その時には、現在ほど授業がどんどん進められることがなくなり、討論(議論)の機会がより多く与えられ、生徒たちが何らかの興味を感じる事柄に教育を関わらせる試みがより多くなされるであろう。
そらにその場合、何にもまして、知的冒険を愛好する態度を喚起し、また刺激する努力がなされるだろう。
・・・。知的冒険の喜びは、成人男女よりも若い人々の間に、はるかに広く見られるものである。子供達の間ではそれはきわめて普通のことであり、物まねとか空想の時期から自然に育ってくる喜びなのである。大人になってからその喜びが稀なものになるのは、教育を受けている間に、その喜びを抹殺してしまうようなあらゆることがなされるからである。・・・。
(写真:Beacon Hill School での授業風景。写真は、ドラ・ラッセル)
If the object of education were to make pupils think, rather than to make them accept certain conclusions, education would be conducted quite differently: there would be less rapidity of instruction and more discussion, more occasions when pupils are encouraged to express themselves, more attempt to make education concern itself with matters in which the pupils feel some interest. ...
... The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and women. Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in later life because everything is done to kill it during education.