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バートランド・ラッセル関係 (語学テキスト)- 芝崎武夫他(編注),ラッセル『 Ideals of Happiness(英潮社, 1969年9月刊。164pp.)

* 出典: ラッセル(著),崎武夫他(編注)『Ideals of Happiness』(英潮社, 1969年9月刊。164pp.)


編者まえがき(芝崎,1969年)

 1.Bertrand Russellについて

 Bertrand Russell(1872生まれ)は,20世紀の偉大な実践的哲学者である。90歳を過ぎても核兵器禁止運動デモを指揮して逮捕されたり,最近はベトナム戦争の軍事裁判(いわゆる「ラッセル法廷」)を提唱したりして騒ぎたてられているが,彼は決して気まぐれや思いつきの社会主義活動家ではない。英知と愛と情熱の哲学者である。20世紀を迎えた時(1900年),彼は既に28歳で,Cambridge 大学の Trinity College で哲学を講義していた。それからの10年間は数理哲学の研究に没頭する象牙の塔の学者であった。
 第1次世界大戦を契機として,彼はこの塔を出た。彼の人間観に大きな転回があった。哲学はもとより,文学,政治,経済,歴史,宗教から自然科学にいたるまで,およそ該博な研究と,鋭い知性,豊かな感情とによって人間性の本質を洞察して,人間の幸福というものを追求した。人道的な,科学的な哲学者として,人間性を解放する新しい倫理を説いた。
 第2次世界大戦の終末が,Bertrand Russell にとって更に第2の転機となった。広島に原爆が投下された。原水爆による人類絶滅の危険をおそれ,どんなことをしてでも世界戦争を防止しなければならないと,彼は世界に訴えた。1962年キューバ問題をめぐって米・ソの関係が一触即発の危機に直面した時,彼はフルシチョフ首相とケネディ大統領,マクミラン英首相とに,自重を要望する電報を打った。フルシチョフ首相は丁重な回答の書簡を送って彼に敬意を表した。強大国の政治家たちも,ラッセル卿の意見を無視することは危険だと考えるようになった。96歳を越えた今日(1969年)でも,情熱をこめ,精力的にこの運動を推進しつづけている。しかし,平和で幸福な世界政府の理想に世界が一歩でも近づいたかどうか。人間性の本質を考え,精神文明が機械文明の進歩にはるかに立ち遅れている現状を思えば,理想の実現がはなはだ困難であることを最もよく知っているのは彼自身である。しかも彼は,教育の力によって人間がその愚を捨てて明るい未来を持つことが出来るであろうことを期待しているのである。
 最近彼の『自叙伝』が出版された(vo1.I,1967;vol.II,1968)その Prologueで,「単純ながら圧倒的に強力な3つの情熱が私の生涯を支配してきた」という。それは,"the longing for love,""the search for knowledge "及び"unbearable pity for the suffering of mankind" である。愛と知識とに関しては報いられるところがあった。80歳にして4度目の結婚をした。そして妻 Edith によってはじめて「恍惚と平安」とを得た。知識は「ごく僅かであるが」わがものとした。しかし「人類の苦悩に対する堪えがたい憐欄」に関しては,「その悪を和らげたいと切望しながら,何もできない。そして私もまた苦しんでいる」と嘆いている。しかし彼の生涯は,何事にも全力を投入して,真剣誠実そのものであった。「それは生きるに価するものであったとう。だからもしその機会が与えられるならば,私は喜んでもう一度同じ人生を繰返したい」と言うのである。そこでこの『自叙伝』によって,彼の生涯の粗筋を辿ってみよう。


 Bertrand Russell は1872年5月18日,英国の Monmouthshire(England の東南端で Wales に接する州)の Ravenscroft という所で, Lord Amberley の次男として生まれた。Russell 家は英国貴族の名門で, Bertrand の祖父 John Russell は Queen Victoria に仕えて2回首相となり,Earl(伯爵)の称号を授けられた。彼の両親は共に自由思想家で,産児制限や婦人参政権などを主張する革新論者であった。Bertrand が2歳の時,母と姉はジフテリアで死んだ。さらに1年半ほどして父も死んだ。Bertrand は兄の Frank と共に祖父母に引き取られて,ロンドンに近い Richmond に広大な敷地をもった Pembroke Lodge に移り,大学にはいるまでの14年間をここで過ごした。祖父も彼が6歳の時死んだため,彼ら兄弟の教育はもっぱら祖母の手で行われた。(写真は、ラッセルの祖父母)
 祖母 Lady Rnssell は夫より23歳も若かったが(松下注:後妻),首相夫人にふさわしい優れた婦人であった。勇気と自由と公共心に富み,正義を愛し,付和雷同をいましめた。聖書の扉に "Thou shalt not follow a multitude to do evil" と書いて Bertrand に与えた。生活は極めて質素でスパルタ的であった。彼は祖母のヴィクトリア朝的清教主義の道徳観には次第に反発を感じるようになったが,人間形成の上でこの祖母から受けた影響は非常に大きいものであった。
 11歳のとき,兄の Frank にユークリッド数学(幾何学)の手ほどきを受け,数学に異常な興味を抱くようになった。ただし,証明なしで公理を無条件に受け入れることはできないと、兄に抗議をした。「公理を認めなければ先へ進むことはできない」と言われ、やむを得ずにそれに従った。数学に対する喜びと共に,この疑問はいつまでも消えず,結局大学入学にまで持ち越されて研究することになった。大学に行くまでは,すべて家庭教師によって教育された。祖母が仏,独,伊の三か国語に堪能で,外国からの来客はそれぞれの国語で応待するような家庭であったし,祖父と父との蔵書が非常に豊富なものであったから,大学にはいるまでには,英,仏,独,伊の有名な詩人の作品は大部分読んでしまった。
 1890年,18歳で Cambridge 大学の奨学生試験に合格して Trinity College に入学した。兄の Frank は Oxford に行ったが,当時自然科学の分野では Cambridge の方が優れていたためである。そして数学を専攻し,数学原理の研究をすることになった。数学を専攻することには祖母の反対があった。彼女は数学や哲学は重要な学問とは考えなかった。彼が形而上学に興味をもち始めた頃,彼女は,"What is mind, no matter; What is matter? never mind." といって彼をからかった。大学にはいってはじめて語るに足る友人たちを得て,彼の世界は急に開けて明るくなった。秀才たちの仲間でも彼は特に注目される存在であった。のちに『数学原理(Principia Mathematica)』の共著者となる Whitehead は彼の指導教授であった。数学と共に哲学の研究に進み,へ一ゲルを信じ,やがてカントにもへ一ゲルにも反対を表明するようになる。
 卒業の頃、アメリカ人の娘 Alys と恋仲になった。祖母はこれに反対して,卒業と同時に彼をイギリス大使館員としてパリに送ってしまった。外交官としての将来を約束されるはずであったが,彼は6ケ月で辞任して帰国し,近親者の反対を押し切って Alys と結婚した。彼より5歳年上の美人で,彼の研究のよき理解者であった。これが1894年で,翌年2人でベルリン大学に行って社会主義運動の研究をする。マルクスの『資本論』も隅から隅まで念入りに読んだ。彼はどんな問題を研究する場合でも,あらいざらいの原書を一字一句徹底的に検討するという,きわめて手堅い学究者である。そして次第に社会主義的政治活動の方向にも彼の世界は拡大されてきた。1896年(ラッセル24歳)にはアメリカの大学で数学を講義したり,1898年(松下注:1898年ではなく、1899年の Lent Term の間違い)には母校 Trinity College でライプニッツの哲学を講じたりしたが,1900年7月,パリの国際哲学会議で碩学 Peano に接して,数学原理の精髄に対する開眼が行なわれた。その年に The Principles of Mathematics (『数学原理』)7部20万語の原稿ができた。そして1902年から,前述の Whitehead と共同で Principia Mathematica の執筆に没頭した。血のにじむような,気の狂うばかりの苦しい年月の連続であった。1910年,4輪馬車に原稿を積み込んで出版所に運んだ。これで2巻の本になるのだが(松下注:Principia Mathematica は3巻本),その第1巻は「Number 1を論ずるもの」で,第2巻は「m×n=n×m を証明する論文」だという。しかも出版費の見積りでは600ポンドの赤字である。500ポンドの補助金が出たが,あとの100ポンドは Whitehead と2人で50ポンドずつ負担しなければならない。10年間の労作で,人間頭脳の最高傑作の一つといわれる著作によって得た報酬がマイナス50ポンドということである。しかもこの論文を完全に通読した学者は世界に20人ぐらいのものであろうという。純粋に象牙の塔の学者の仕事とはこういうものなのであろうか。
 この年(1910)彼は Trinity College に招かれて,数学原理の講師になった。同時に政治活動にも心をひかれ,国会に立候補した知人の応援演説に活躍した。これから1914年までの時期を彼は,「Faust が悪魔 Mephistopheles に魂を売る前と後との変化にも等しいわが生涯の変転期であった」と告白している。妻 Alys との愛の破綻は Principia Mathematica の執筆当初からあらわれていた。10年近くもそれに堪えていたのであったが,ついに2人は別居することになった。Marriage and Morals(1929)にみられるような彼の思想と実践とは,この時期から発展したものであった。1914年第一次大戦が始まった時,彼はイギリスは参戦すべきでないと主張し,徴兵制度反対運動を起こした。賛成する者も少なくなかったが,宣戦布告をきくや,みな手の裏を返したように戦争協力者になってしまった。トラファルガーの広場で群集がイギリス万歳を叫んで熱狂しているのをみて,彼は樗然とした。また徴兵制度反対の同志の会合では,運動方法そのものより指導権争いの論議にのみ夢中になっている。人間の本能的欲望の根深さを彼はしみじみと感じた。しかし彼の信念は変わらなかった。そのため大学の教壇を追われた。同志の会合も暴漢の群れに襲われた。1918年には6か月の牢獄生活もしなければならなかった。
の画像  この大戦は彼に非常に大きな変化をもたらした。学究ひと筋であることをやめて,生きた人間について,広く社会大衆に語りかけるようになった。清教主義は人間に幸福をもたらさぬことを悟った。死を見て,生きているものに対する新たな愛を抱いた。人間は深い不幸にとりつかれているとそれが破壊的な怒りになって爆発する。厳しい訓練を要求する古い道徳に疑惑を抱いた。それまで日常の美徳と考えられていたものが,結局ドイツ人を殺戮する手段に用いられたのではなかったか。しかし彼が道徳律廃棄論者にならなかったのは,世界の悲しみに対する深い同情心のためであった。本能の喜びを合理的に発散することによって,よき世界がもたらされるのではないかと信ずるに至った。
 1920年,労働党の代表団とソ連を訪問した。そこに見出したものは,残酷と貧困と猜疑と迫害に満ちた空気であった。ある日4人の乞食のような風態をした男が訪ねてきた。かつて最も著名な詩人たちであった。その中の一人は,律動学を教えて生計の資を得ることを政府に許可されたが,それも「マルクス理論に従って」教えなければならぬと言われて困っているということであった。共産主義体制を狂信的に強要することが,いかに人間の自由を奪うものであるかを深く感じた。この旅行の記憶はおそろしい悪夢のようであった。
 翌年中国を訪ね,北京大学に客員教授としてしばらく滞在した。孔子,老子の思想に共鳴するところが多く,おおらかでヒューマー感覚に富む中国人に好感を抱いた。もちろん共産主義革命以前のことである。その足で日本にも来て,神戸,京都,東京など,12日間の講演旅行をした。社会主義者として絶えず警官に尾行されたが,それ以上に新聞記者とカメラマンのしつこさに腹が立った。大正11年(松下注:大正10年の誤り)で,関東大震災の前年である。社会主義といえば極度に警戒していた当時の空気は,彼の肌に合わなかったようである。
 8月に帰国し,Alys と正式に離婚し,9月に Dora Black と結婚した。そして11月に長男 John が生まれた。Dora は Cambride の学生だったらしい。(松下注:Cambridge大学 の Girton College の学生)新しい自由思想の持主で,ソ連に対してはRussell と意見が反対であったが,率直で実行力に富み,彼の社会主義活動の積極的な協力者であった。中国,日本の旅行中すでに彼の妻となっていた。(松下注:上記に芝崎氏も帰国してから結婚したと書いているように、'妻'ではなかったが、'妊娠'はしていた。)
 1923年には長女 Kate も生まれ,2人の子供たちと遊ぶ時間が非常に楽しいものであった。その子供たちに理想的に自由な学校教育を受けさせるために,夫婦で小さな私立学校を経営することにした。1927年のことで,Petersfield に近い Beacon Hill に,森林にかこまれた静かな建物――(兄の)Frank の邸(写真:Telegraph House)であったが――を借りて始めた。Frank は当時投機に失敗して破産状態であったから,高い家賃で兄を援助するつもりでもあった。しかし学校の運営はなかなか困難であった。経済の点では彼は遺産によって生活することを潔しとしなかった。T. S. Eliot が新婚当時困窮しているのを知って,自分の株券を全部彼に与えてしまった。祖母の遺産も母校その他の学校施設にすっかり寄付してしまい,専ら著作とアメリカ講演旅行による収入で生活し,学校の経営もそれでまかなった。著作は従って広く社会に語りかけるようなものを多く書いた。The Conquest of Happiness(1930)は,その代表的なもので,ベストセラーになった。更に大きな困難は,入学者に問題児が多いということであった。How to be free and happy(1924), What I believe(1925), On Education, especially in early childhood(1926)などの著者が理想とする学校であるから,問題児を預ってもらおうという親が多かったのであろう。たとえばこんな事件があった。小さい2人の兄妹がはいってきたが,感傷的な母親にいつも兄妹仲よくしていなさいとやかましくいわれていた。あるとき,給食のスープの鍋にヘアピンがはいっていた。これは妹の仕わざで,兄に食べさせて殺してやろうと考えていたのだということが分かった。人間心理の複雑さおそろしさに今さら驚かざるを得なかった。
 結局この実験は失敗であった。と同時に Dora との結婚生活もうまくいかなくなった。彼女はあまりに奔放な女性であった。そこで John と Kate とを他の学校に送り,自分もその仕事から身を引き,Dora と別居した。彼女はひとりで学校の経営を続けた。1931年兄 Frank が死んだので,Bertrand は第3代のEarl Russell となった。学校経営のための経済的負担が軽くなったので,「売るための本」はEducation and the Social Order(1932)でしばらく打ち切りとして,学究的なものを書くことになった。その最初が Freedom and 0rganization, 1814-1914(1934)で,1931年のアメリカ講演旅行中に出版社と契約したものであった。1935年,Dora と離婚し,翌年 Peter Spence(右の写真) と結婚した。Peter というのは俗称で,本名は Patricia という。Freedom and Organization を執筆する時の協力者であった。1937年,2人の間に Conrad が生まれた。海洋小説家 Joseph Conradと非常に親しかったので,彼に敬意を表して名づけられたものであった。(松下注:コンラッドの小説に共感し親しみをもってはいたが、ほとんどあうことはなかったので、親しかったとは言いすぎかも知れない。)
 Beacon Hill の屋敷を処分して,一家は Oxford に近い Kindlington に家を買って1年ほど住んでいたが,その間 Oxford の婦人が1人訪ねてきただけであった。Cambridge 同様 Oxford の人たちには,彼ら夫婦は "respectable" ではないということであった。1938年,Power, a new social analysis が出版されたのち,Jobn と Kate を Dartington の学校に残し,Russell 夫妻は Conrad を連れてアメリカに渡った。そして翌年第2次世界大戦が始まった。第1次世界大戦に反対した彼の信念は今も変わらなかった。しかし今度の戦争には必ずしも反対ではなかった。彼が反対した前の大戦の結果としてドイツが苛酷に痛めつけられた。その反動として Hitler の独裁が起こり,ナチスの暴虐となった。自由のないところに人間の幸福はあり得ない。ナチスの支配に対しては戦わなければならない。それが彼の科学的知性による意見であった。しかしまた,戦争による悲惨は避けなければならないという感清もある。彼は知性に従うべきだと考えた。無抵抗の反戦には賛成できなかった。無抵抗のものには暴力をふるわないという,フェアプレーの精神があればよいが,Hitler のナチスにはとてもそれは期待できない。やはり戦わなければならないと判断した。そしてイギリスの勝利を念じた。戦争中なぜ彼は祖国に帰らなかったのか,と批判する者もいる。たしかに彼はアメリカに疎開していたことになる。John と Kate もアメリカの大学に入れた。それは彼の生涯に汚点を残すものだと難ずる者もいる。しかし彼は好戦主義者ではない。理性による判断に従って行動したということであろう。しかも1944年までの滞米期間は,彼にとって苦難に満ちた時代であった。
 1938年から1年間は Chicago 大学の客員教授であった。講義は Oxford 大学でやったのと同じで,"Words and Facts" という題名の予定であったが,アメリカ人には簡単な題名は人気がないと聞いて,"The Correlation between Oral and Somatic Motor Habits" というようなことにしたため大成功であった。次いで California 大学に行った。学長が独断専横な男で,教授たちはみなちぢみ上がっている。学問のレベルも低かった。休暇を利用して John と Kate がイギリスから来たが,戦争になったので,2人を帰すことができない。John は Ca1ifornia 大学にはいり,のち Harvard に移った。Kate は15歳で大学は無理だから,Los Angeles で一番評判のいい学校を選んだ。ところが学科目の中で Kate が履習していないものは1科目しかなく,しかもそれは「資本主義の効用」というものであったので,そこをやめて大学に入れてしまった。
 次は New York 市の市立大学に招かれる予定であったところ,同市の英国国教会から,道徳的に不適当であるとの異議が出た。また一女子学生の母親が,Russell を教授にすると娘が不良になるとして,市当局を相手に訴訟を起こした。検察側は,彼の著作はすべて淫らで,好色的,狭量,不敬,虚偽であると論告した。Marriage and Morals などが有力な証拠であった。(雇用者である)市当局は「進んで」敗訴となり,彼を大学に招くことを取りやめた。全米に彼を危険人物とする評判が流れ,講演旅行の約束も全部取り消された。経済的にも非常に苦しくなった。 幸い Philadelphia 近くの Barnes 財団研究所の所長 Barnes 博士に招かれ,5年間の契約で哲学史の講義をすることになった。ところがこの Barnes 博士が気まぐれで,わがままなであったので,2年半で急に契約破棄を通告してきた。再び困窮に陥ったが,そのうち次第に講演を依頼されるようになって,どうにか苦境を切り抜けることが出来た。在米期の終り頃は,Princeton に住んで Einstein などとも親しくなり,快適な生活であった。John はイギリスに帰って海軍にはいり,日本語の勉強を命ぜられていた。Russell は哲学史の研究に専念し,その成果は A History of Western Philosophy となって1945年に出版された。哲学を,社会生活の基本的要素の一つとして,文化的,歴史的な関連において扱おうとするもので,人間精神の発展に重要な役割を演じた哲学者たちを取り上げた。単独に哲学だけを扱う従来の方法とちがうところに彼の創意があり,名著として高く評価されている。1944年5月,Kate だけを Radcliff 大学に残し,Peter と Conrad を連れてイギリスに帰った。(彼の『自叙伝』はここで終わる)(松下注:第3巻が1969年に出版されている。)
 RusseIl は再び Trinity College に招かれて講義することになった。彼に対するイギリスの世論は2つに分かれ,大学でも彼を専任教授にすることに反対する声もあった。BBCも彼の講演を放送することを渋っていた。しかし学生には圧倒的な人気で,一番大きな教室でも,あふれてはいれない学生が多いというほどであった。Trinity の昔の仲間もみな彼を心から歓迎した。ただ一人の例外は,哲学教授の Wittgenstein であった。彼はオーストリア出身の秀才で,その昔 Russell を慕って Trinity に入学し,Russell もまた特別に目をかけて指導した学生であった。大学にはそんな奇人もいる。
 1945年,終戦後の総選挙でイギリスは労働党が政権を取った。党員でもあるし,伯爵として貴族院にもしばしば招かれ,社会福祉国家の建設に努力することになった。広島に落とされた原爆はやがて水素爆弾を生み,それが第3次世界大戦の危険をはらむであろうことを,彼はいち早くおそれた。それに対処して世界平和を維持するためには,西欧資本主義国家が再軍備を強化して団結せねばならないと主張した。左翼からは反逆者と非難されたが,何をおいても平和を維持し,独裁主義の奴隷とならず自由を守るためにはやむを得ないと彼は考えた。イギリス外務省は,西欧諸国にこの政策を説くため,Russell を最適任者として講演旅行を依頼した。70の坂を越えながら,いささかの衰えもみせず,彼は東奔西走した。1948年,この旅行中ノールウェー沖で飛行機墜落事故があった(松下注:といっても水上飛行艇)。彼は元来非常な愛煙家で,絶えずパイプをくわえている。飛行機では喫煙が許される後部座席に乗っていたため脱出することが出来て,外套を着たまま寒中の海を10分間も泳いで救助された。(写真:救出され、病院に収容されたラッセル)
 BBCも彼に講演を依頼するようになって,1948年,『権威と個人』(Authority and the Individual)について放送し,翌年出版された。労働党の政策として重工業の国家管理を認め,社会生活に統制の必要を説きながらも,個人の自由と創造性とを最大限に許すべきであると主張する。これは彼の思想の最も重要な基本線として生涯主張し続けてきたものである。世界政府の構想もこの頃から打ち出されてきたが,これは New Hopes for a Changing World(1952)に,かなり明確に描かれている。
 Russell はたちまちにしてイギリスの最も重要な人物の1人としてその功績を認められるようになった。そして1949年,メリット勲位(the Order of Merit)を授与された。これは1902年制定されたもので,文武の殊勲者24人に限り国王より与えられる最高の名誉であった。1918年国王の名において投獄された Bertrand Russell であってみれば,この勲位は贈る側でも受ける側でもいささかの戸惑いを禁じ得なかったであろう。そして更に翌1950年,ノーベル文学賞が授与されることになった。「人道と思想の自由を擁護し,常に毅然として遂行せる多面にして重要なる業績を認め」られたもの。彼は78歳であった。この年の6月,招かれてオーストラリアをはじめて訪れた。世界的名士として講演,放送,旅行をし,多くの新しい友人を得た。その頃,朝鮮戦争がはじまり,第3次大戦に拡大するのではないかと彼は恐れた。ロンドンに電報を打って,孫たちを至急田舎に疎開させようとした。
 1951年に彼の最初の妻であった Alys が84歳で死んだ。翌年 Patricia 夫人と離婚して,Edith Finch と結婚した。(写真は、1952年12月15日、結婚式当日の2人)Edith は17世紀にアメリカ'に渡った,ニューイングランドの旧家の出で,ヨーロッパに留学したのち,Bryn Mawr 女子大学――AIys の母校である―― の教師であった。明朗活発で知的な彼女との結婚によって,80歳の Russell ははじめて 'the longin for love' の情熱を満たし得た思いであった。そして
'Now, old and near my end,/I have known you,/And, knowing you,/I have found both ecstasy and peace,/I know rest,/After so ㎜any lonely years,/I know what life and love may be,/Now, if I sleep,/I shall sleep fulfilled'
と歌っている。
 彼はしかし,結婚生活の幸福に酔って,現実の世界に幻想を抱くようなことは出来なかった。宇宙は人間のために造られているのではない。そして人間の世界はむしろ悪であり,観念的に正義の存在を信じることは出来ない。冷酷な現実を正視して,人生はつらい,悲しいものであることを体得してはじめて幸福が得られるのだ。弱気を出して徒らに自分をいたわらず,因襲に屈せず権勢におもねらず,積極的に攻勢に出なければならない。これが彼の人生に処する姿勢であり,生活の知恵であった。精神的にも肉体的にも依然として強靱な彼は,核兵器の脅威に戦いを挑んだ。
 彼が予想した通り水爆が現われた。世界が核兵器を用いて戦争を始めれば,もはや勝つも負けるもない。人類は絶滅するであろう。さかしらな知恵を与えられたがために,自らの発明した武器によって滅亡するというのは,結局人類の命数が尽きたということであろうかとも思うが,そう簡単にあきらめてはならないと Russell は考える。彼の生きる意欲と,人間に対する愛情とは,彼に諦観を許さない。悲惨な核戦争から世界を救おうとする行動の第一歩は,1955年,Einstein をはじめとする,世界のノーベル賞受賞科学者11名(湯川秀樹博士もその1人)の署名による,核兵器廃棄を訴える宣言(いわゆる Russell-Einstein Manifesto)であった。そののちは論文,講演,テレビ,ラジオ,通信,会議など,あらゆる手段を通じて,全世界の人たちに訴えてきた。その間の事情は,1961年出版の Has Man a Future? に詳しく記されている。その中で彼はまず,原爆と水爆との原理と,その恐ろしさを説明し,良識ある科学者の訴えを,その証明としてありのままに記す。そしてその恐ろしさを認識し,今までの愚を捨てて賢明な道を進むならば,人間は永劫に輝かしい未来を持つであろう。あるいはその愚を捨てず減亡の道を辿るか,今こそその分かれ道で,一刻の猶余も許されぬとして,「私は今暗がりでこれを書いているが,人類は果たして,この書が出版されるまで,いや,出版されて読まれるまで,生き続けてくれるかどうか知り難い。しかしまだ望みはある。望みのある限り,絶望は弱虫のやることだ」と述べている。悲壮である。それから今日まで,どうやら人類が生き続けて来たのも,Russell の英知と情熱と行動力とに少なからず負うているというべきであろう。
 彼はすでに95歳をすぎた。命のある限り世界平和のため戦い続けるであろうが,近年やや耳が遠くなり,足元を見て歩くようになったという。世界情勢に関しても,"I shall sleep fulfilled"と彼が心から歌えるような日の一日も早からんことを。

 Russell の著書は,1896年の German Social Democracy から,1967~9年 の Autobiography of Bertrand Russell まで,主要なものだけでも,100冊に近いであろう。大別すれば数理,哲学に関するものと,practica1 な人生・社会に関するものとの2種類になる。彼が専門分野で 'important' と考えるものと,popular で 'potboilers' と呼ぶものとである。年代別にしてどのように分布されているかは,上述した彼の略歴によって大よその見当がつくであろうが,哲学に関するものが姿を消している時期はない。1955年以降,核兵器反対運動に入ってからでも同様である。彼の哲学精神は衰えることを知らぬようである。
 「Russellは哲学者ではない」という哲学者もいる。これは彼に一定の哲学体系がないということである。懐疑家で,経験主義者で,科学者である。観念的な絶対主義を嫌い,狂信を警戒する。社会的,文化的なものとの関連において哲学を考え,一つの体系を不動のものとして固執することは,人間界の真理を理解するためには,むしろ危険であると信じている」のであろう。Locke や Hume など,元来イギリス人は,人生のための哲学ということを考えている。Russell の哲学もそういうものである。哲学の門外漢にはよく分からないが,しろうと考えではその方がよいのかもしれないとも思われる。
 一般の読者にとっては,「その他」の部類の方がむしろ 'important' である。宗教,倫理,道徳,教育,社会,歴史,政治,経済など,あらゆる問題が取り扱われている。それらに関する彼の思想,見解には矛盾や誤解があるようにも思われるが,1970年にも及んで書き続けられたものを,一つの時点に並列して見れば,それは当然のことである。歴史的に考察しなければならない。その時代の現実と,彼自身の経験と,科学的な探求とに応じて,彼の思想・見解が変化してきたということである。その変化がどののようなものであったかということは,興味のあることではあるが,あまり問題にする必要はないと思う。むしろそのような変化にもかかわらず,彼の一生を貫いて変わることのない一つの精神がある。それが重要である。最も簡単に言えば,それは「自由の精神」ということであろう。因習,偏見,迷信,妄想,虚栄,権力などさまざまな不純なものに煩わされることなく考える自由,行動する自由を彼は常に求めてきた。科学的,客観的であるというのは,無知からの自由ということである。このような自由の精神が人間の幸福に連なるものであることを信じている。だからすべての人にこの自由が適正に与えられねばならない。人間性の開放から,平和にして幸福な世界政府の構想に至るまで,すべてこの精神に貫かれていることを読みとるべきである。
 Russellの論文を読む者にとって、彼の英語の文体がまだ非常に魅力的で、貴重である。格調の高さは、音読してみればいよくわかる。均整のとれた構文で,リズムに風格がある。破格の語法や俗語などもない。冗漫であったり,もってまわったようなところもなく,意味が明確である。適当に感情の高まりもあるし,humour や wit がまるで燻し銀のような感じである。paragraph のはじめに抽象的な命題や結論を出しておいて、それから具体例に説明したり証明したりという方式がよく用いられる。非常に論理的である。よい英語を勉強するにはRussell の文をお手本にするのがよい。高校英語 もRussell が読めるようになれば,もう優等で卒業だと思う。
 2.本書の解説

 Politically important desire は1950年,ラッセルがノーベル文学賞を受けた時の講演である。彼はこれまで,人間の自由と幸福,世界の平和のため,科学的合理主義に基づいて啓蒙運動にあらゆる力を注いで努力してきた。そして彼がいつも突き当たる問題は,人間が本能的に持つさまざまな欲望とそれらの組合わせによって生ずる人間心理の複雑さということであった。政治理論とその方法を論ずる場合にも,人間心理を分析し,あらゆる欲望や情念を摘出し,その1つ1つについて実態を究明しなければならない。それらの存在とその作用に対する科学的認識に基づいて,それらをいかに処置すべかを建設的に考えよう,というのが本論文の趣旨である。New York Times 紙が,これを "as witty as it is penntrating" と評したというが,まことにラッセルの本領を遺憾なく発揮した名論文というぺきであり,今日の社会に於けるさまざまな現象を根元的に理解し,その解決の方法を考えるに当たって多くの suggcetion を与えてくれるものであると思う。 Eastern and Western Ideals of Happiness は1928年出版の Sceptical Essays に収められた1篇。ラッセルは1921年北京大学に招かれて初めて中国に行った。そして中国人がアメリカや西欧諸国の人たちのような烈しい競争心もなく,裕々として余暇を楽しみ,sense of humour が豊かであることを知って好感を抱いたようである。それから日本にも立ち寄ったが,日本人の背伸びをした西洋文明への追随と,社会主義を警戒する空気とに不愉快な思いをしたらしい。従ってここでいう"Eastern" を代表するものは中国である。東西の幸福に対する理念の相違は,キリスト教と儒教との相違に由来するという。キリスト教の「汝の敵を愛せ」という教義は,あまりに理想にすぎるため,現実には力の政治に悪用されてしまう。理論では戦争を否定しながら,実際には戦いの連続である。儒教では学問と礼譲を重んじる。「戦争をするのが正しい時もある」と教えるが,実際にはほとんど戦争が起こらない。キリスト教の原罪説に対して儒教では性善説である。意見の相違は,中国人は話し合って理解しようとするが,西欧人は主義の相違であるとして妥協せず,互いに憎み合う。もし全世界が中国のようであったら,世界は幸福であろう。しかし他の国々が好戦的で能動的である以上,中国も独立を保つためには,他国の悪をまねなければなるまい。とすれば・精神文明とは果たして進歩するものなのかどうか,甚だ疑問である,とラッセルは言う。そののちの中国の革命的変化を思うと,ラッセルと共にひとしおその感を深くする。

 本書のテキストは The Basic Writings of B. Russell, 1903-1959, edted by Robert E. Egner and Lester E. Denonn, London: George and Allen Ltd.(1961)より採った。高校上級生にも,この偉大な哲人の書を十分に理解・味読していただきたく,注釈に万全を期して3人がかりの仕事とした。清水氏に最初の原稿を依頼し,渡辺氏と小生とがそれぞれ詳細に検討し,構文・語法のみならず内容の説明にも意を用いて加筆した。但し3人寄るも文珠の知恵に及び難く,万全とは片腹痛しというところもあろうかと恐れている。御叱正を賜わりたい。(柴崎武夫)

3.付記

 1970年2月2日, Bertrand Russell 卿の死が報じられた。享年97歳,まさに天寿を完うしたというべきであるが,世界平和を悲願としてエネルギーの限りを尽して斗い続けてきたこの偉大な哲人を失った悲しみは大きい。生涯 Agnostic(不可知論者)であった彼に対して,「その霊よ安かれ」と祈るのは無意味なことであろうが,彼の魂はその生涯の歴史と厖大な著作との中に永遠に生きて,われわれに英知と誠実と勇気とを与え続けることであろう。Edith 夫人のため,謹んで哀悼の意を表したい。(1970年2月,編 者)