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『バートランド・ラッセル年譜-簡略版-』

* Bertrand Arthur William Russell, May 18, 1872 - Feb. 2, 1970

*この「ラッセル年譜-簡略版-」は、出典さえ明示していただければ、(そのままの形でも、編集した形でも、)出版物、ホームページ等で使用していただいてかまいません。(松下)

1872年(0歳)
・5.18,午後5時45分頃、Wales (Monmouthshire 州 Trelleck の近く、Wye 河畔に建てられた Ravenscroft と呼ばれる家)で、英国初の女医 Dr. Garrett Anderson の手で生まれる。8ポンド3/4=約4,000g。愛称 Bertie。
1874年(2歳)
・母 Lady Amberley(旧姓 Kate Stanley;1842~1874)及び姉 Rachel(1868~1874)、ジフテリアにかかり死亡

1876年(4歳)
・父 Lord Amberley(1842-1876)死亡。母と同じく、Ravenscroft で火葬。その後、ロンドン郊外 Richmond Park 内の Pembroke Lodgeの父方の祖父母のもとで18歳まで過ごすこととなる。(ラッセルは兄フランクとともに1876年2月、Pembroke Lodge 到着)
・英語と同様、すでに独語が話せた。
・毎朝7時半から8時までピアノの練習;朝8時、家族の祈祷;食事は質素;1年中冷水浴励行
[Pembroke Lodge の住人: 祖父母、ラッセル、兄フランク、Agatha伯母さん、Rollo 伯父さん、及び、8人の使用人。]

1877年(5歳)
・5歳になる少し前から幼稚園に通う(約1年半)。その後、祖母の方針で、Bertie(=愛称)は学校へはいかず、ドイツ人やスイス人家庭教師によって教育を受けることとなる。
・祖母は、仏語、独語、伊語を間違いなく話せた、とのこと。

1878年(6歳)
・5月28日,祖父 John Russell没(1792~1878:第6代ベッドフォード公爵の三男で初代ラッセル伯爵;1846~1852及び1865~1866の2度英国首相。)

・G. Frege: Die Begriffsschrift(『概念文字』)出版

1883年(11歳)
・8月9日、兄より初めてユークリッド幾何学を学ぶ。38歳で Principia Mathematica を完成させるまで、数学が主たる関心事となる。(次に興味を持ったのは "歴史"。)
・宗教について疑問を持つ。

1884年(12歳)
・12歳の時、初めて性の事実を知る。
・12歳の誕生日に、扉に、"汝、群衆の為す悪に従うことなかれ(Thou shalt not follow a multitude to do evil)" と書かれた聖書を祖母からもらう。

1886年(14歳)
・祖母の知的限界がラッセルにとって耐えがたいものとなる。

1887年(15歳)
・我慢出来ないほどの強烈な性欲を感じ始める。自慰の習慣が20歳になるまで続く。毎日、女性の身体を見たいという欲求に長時間を費やす。
・キリスト教信仰の根本的かつ合理的論拠と考えられるものを系統的に検討し始める。最初に「自由意志」を槍玉にあげる。

1888年(16歳)
・3月3日より、"Greek exercise"(『ギリシア語練習帳』)と名付けた日記帳に、主として宗教問題に関する若き日の思索を綴り始める。
・神の実在について疑問を抱く。
・5月9日、ケンブリッジ大学の Trinity College 受験のため Old Southgate にあるギリシア語、ラテン語の速成塾に入寮(18ケ月間:ただし、土、日は帰宅)
・16歳~17歳にかけて多くの詩を読む。ミルトンの詩全部、バイロンのものほとんど,シェークスピアのもの多数、テニスンの大部分。シェリーに共感。

1889年(17歳)
・夏,Surrey 州 Hindhead にある Rollo 叔父さんの家で初めて、当時米国の Bryn Maur College の学生であった Alys Pearsall Smith(ラッセルより5歳年上)と出会い、一目惚れ。翌年から毎夏、ロロ叔父さんと過ごす3ケ月の間、毎日、4マイルの道を歩いて Friday's Hill にあるアリスの家にいくことを日課とした。
・ケンブリッジに行く前、『ミル自伝』を読み、無神論者になる。(死後の生命はない、と確信するようになる。)
・12月、a minor scholarship 合格。初めてケンブリッジにいく。 ・Edward Fitzgerald の家族に招待されて、ヨーロッパにいく(=2歳の時以来の、2回目の海外旅行。)パリ万国博にて完成したばかりのエッフェル塔にのぼる。スイス登山。

・4月14日、Arnold Toynbee (1889.4.14-195.10.22)生まれる。
・4月26日、L. Wittgenstein(1889.4.16-1951) 生まれる。

1890年(18歳)
・10月,Cambridge大学の Trinity College(1546年創立)入学。数学と哲学を専攻。
 "18歳でケンブリッジに入学した私は今や知性が評価され、明晰な思考がよいものとされる世界に自分がおかれていると気づいて、心が酔うほどの歓喜を覚えた"。(『ラッセル自叙伝』より)

1892年(20歳)
・2月27日,Apostles(=the Society) の一員に選ばれる。
・大学3年次に G. E. Moore(1873.11.4-1958.10.24)が新入生として入ってくる。

1893年(21歳)
・5月18日、成人(21歳)に達し、亡き父の遺産2万ポンドを相続。
・問題を解くことが中心のケンブリッジの数学のあり方に疑問をもち、しだいに数学の勉強の手を抜いたが、それでも、6月、数学優等試験で7番目の一級合格者(7th wranglar)となる → 今度は、哲学の系統的研究を始める。
・9月13日,アリスにプロポーズ
・4年次、E. McTaggart 教授の影響で一時ヘーゲリアンとなる。
・4年次、おびただしい量の数理哲学及び哲学の本を読む。ジェームス・ワードに、カントールとフレーゲの著書を紹介される。

1894年(22歳)
・1月4日、ロンドンの Grosvener Road 49番地にあるアリスの両親の家を訪ね、食事の時間を除いて、朝から晩までキスをして過ごす。(Pearsall Smith 家は200年続いた Philadelphia Quakers)
・9月~11月16日:パリ英国大使館名誉館員(9月10日パリ着)
・秋、Cambridge 大学を卒業
・12月13日、フレンド公教会にて、5歳年上のアリスと結婚(婚約発表:5月31日:ラッセルもアリスもそれまで性体験がなかった)。 → 祖母への最初の反逆となる。
・(自叙伝によると、ラッセルは、1894年から第一次対戦にいたる間、ラッセルは毎年イタリアに旅行した(ただし、その後は1949年までイタリアにはいかなかった)らしい。

1895年(23歳)
・1985年始め、二種類の一連の著作を執筆していくことを決意:"一つは、最も抽象的な論理学や数学から始めて具体的なものに向かう研究であり、もう一つは最も具体的な社会や歴史から始めて一般的・抽象的な原理に遡る研究”
・1月~3月、ベルリン大学で経済学を学ぶために、アリスとともにドイツに旅行。(ラッセルは祖母の教育方針のおかげでドイツ語がしゃべれた。)ベルリン滞在中、週に3回ほどコンサートにいった。
・秋、トリニテイのフェロウシップ(1901年まで5年間)を得、2、3日後に、ドイツ社会民主主義の研究のため、再びベルリンに行く。

1896年(24歳)
・1896年2~3月、London School of Economicsでドイツ社会民主主義に関する一連の講義(全6回)をする。LSE は、フェビアン協会設立者として有名なウェッブ夫妻が創立したもので、ラッセルはその最初の講師。(この講義は、ラッセルにとって苦痛だったようで、講義の日の前に、足でも折れてしまえばよいと思った由。)

・最初の著書 German Social Democracy 出版
 "しかし、私は、それ(この本の出版)に少しも興味を持たなかった。・・・。数理哲学に専念しようと決心していたからである。"

1897年(25歳)
・1月14日、Master 取得

・An Essay on the Foundations of Geometry 出版(これは、修士論文を書き直したもの。)

1898年(26歳)
・1898年にラッセルとアリスは、毎年何ケ月かをケンブリッジで過ごす慣例を始めた。これは、1902年まで続いた。
・この年の始めに祖母死亡
・1898末ごろ、G. E. Moore とともにヘーゲル主義を脱する。カントも捨てる。

1899年(27歳)
・マクタガートの代理で、母校でライプニッツの哲学を非常勤で講ずる。

・10月、南阿戦争(=ボーア戦争)勃発。当時ラッセルは自由党員で帝国主義者であった。

1900年(28歳)
7月,第一回国際哲学会議(パリ)にてイタリアの数学者 G. ペアノ(1858~1932)にあう。
・19世紀の終わり(1900年12月末)に The Principles of Mathematics の原稿(=初稿)を書き終える。
・"関係の論理" の定式化、雑誌に発表。
・数学者・論理学者 G. Frege(1848.11.8~1925.7.26)の影響

・Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz 出版

1901年(29歳)
・春、矛盾の一つを発見
・1901年の初めにはボーア人の味方となる。(帝国主義者→平和主義者に転換。)
・ホワイトヘッド夫人(Evelyn Whitehead)が心臓発作で苦しむのを目撃して、突如として人間一人一人の魂の孤独がラッセルをとらえる。
・秋、突如として,もはやアリスを愛していないことに気付く。その事実をアリスにかくしておけず告白。
・秋より2学期に渡って、Cambridge 大学で記号論理学の講義

1902年(30歳)
・5月23日、Principles of Mathematics 完成
・ラッセルとアリスはクリスマスをイタリアの I Tatti にある Bernard Berenson の家で過ごす。そこで、ラッセルは A Free man's worship の大部分を執筆

1903年(31歳)
・Lucy M. Donnelly への手紙(2月7日付)、"自分の愛情を余りに一人の人間に集中し過ぎるのは危険です。なぜなら、愛情というものはよく裏をかかれるものですし、人生というものはもろくて誘惑にかかりやすいものだからです。"
・1903年と1904年は、ラッセルにとって、「知的行き詰まり」の時代。

・12月、Independent Review 誌に "A free man's worship" 発表
・The Principles of Mathematics 出版

・G. E. Moore: Principia Ethica 出版

1904年(32歳)
・知的行き詰まり。冬はロンドンで過ごして仕事せず。

1905年(33歳)
・オックスフォード近くの Bagley Wood に家をたて、春そこに移り住む。
春、The theory of description 発見

・Mind 誌に "On denoting" 発表

・Morrell 夫妻は、1905年、"Bedford Square 44番地" に居を構える。1915年に Garsington Manor に引っ越すまで、ここが文学者、芸術家、政治家、平和運動家たちのサロンとなる。

・アインシュタイン、「特殊相対性理論」発表

1906年(34歳)
The theory of types 発見
・ロンドン数学会会員に選ばれる。
・英国労働党成立

1907年(35歳)
・Wimbledon 選挙区より(婦人参政権、自由貿易論を主張して)全国婦人参政権協会連合会の推薦を受け、下院議員補欠選挙に自由党から立候補 → 落選(対立候補は保守党の大物 H. Chaplin)
1907~1910年の間:年に約8ケ月間、日に10~12時間、Principia Mathematicaの執筆に費やす

1908年(36歳)
・Fellow of the Royal Society of London(英国学士院会員)に選ばれる。

1910年(38歳)
・1月、自由党の P. Morrell のために応援演説
 ラッセル自身は、無宗教であるため(英国国教徒でないため)、ベッドフォード選挙区から下院議員選挙に立候補できず。
・10月、学期始めに Bridge Street に家を持つ。Bagley Wood の家は売り払う。
・10月、トリニテイ・コレッジで論理学・数理哲学を教え始める(5年契約)。年棒210ポンド。
・(1910.5.27付、ホワイトヘッドからの手紙)"トリニティ・カレッジ評議会は、本日向こう5年間、あなたに『論理学』と『数学原理』の講師の地位を与えることを決定しました。義務は、(1)各学期とも一課程(24時間)の講義をすること、(2)学期間はケンブリッジに在住すること、の2つです。・・・。"
・Principia Mathematica、v.1 出版。プリンキピア・マテマテイカ全3巻の草稿は一応完成(「分枝階型理論」を提唱。)
・Philosophical Essays 出版。

・ホワイトヘッド、ロンドン大学に移る(1914年まで)。

1911年(39歳)
・3月19日、ソルボンヌ大学への講演旅行の途中、ロンドンの Philip Morrell 邸で一泊。Ottoline Morrell(=1873.6.16~1938.4 : P. Morrell の妻で Portland 公爵の腹違いの妹)と恋に陥る。最初の情交。Ottoline は St. Andrews 大学と Oxford大学に在学したが、健康上の理由で両方とも1年ほどで退学。Oxford大学で P. Morrell(1870~1943: 1906-1910 は South Oxfordshire 選出、1910~1918年は、Lancashire 州の Burnley 選出の自由党下院議員)と出合い、1902年に結婚。
・Fernhurst で週末を過ごしている時、アリスにオットラインとのことを打ち明ける。39歳になるまで、ラッセルは妻以外の女性と「完全な関係」(complete relation)をもたず、又、その年になるまで9年間、アリスとさえ性的関係をもたなかった。) そこから、自転車にのってアリスのもとを去り、Trinity College のラッセルの研究室に引っ越す。以来1950年まで、アリスと二度とあうことはなかった。
・10月18日、ウイットゲンシュタインと初めて会う。
・President of the Aristotelian Society(=:1911~1913)となる。(注:アリストテレスの研究団体ではなく、アリストテレルの名前を冠した「哲学の体系的研究のためのアリストテレス協会」のこと)
・この頃、ラッセルは歯槽膿漏を患っていた。
1912年(40歳)[大正1年]
・ベルグソンの哲学を批判。
・ウィトゲンシュタイン、ラッセルのもとに留学

・G. E. Moore も Cambridge 大学の哲学講師となる。

・Principia Mathematica,v.2; 及び The Problems of Philosophy 出版
・"The Problems of Philosophy は、英語で書かれたものの中では、最良の哲学入門書(A. J. Ayer)"

1913年(41歳)[大正2年]
・オットラインの紹介で, Joseph Conrad との交友始まる。
・ラッセル、価値情緒説に転換(G. Santayana の影響)

・Principia Mathematica,v.3 出版
・"数学でいう実数論までがほぼ記号論理学に還元できることが示されたのであるが、残る幾何学をどう処理するかという問題で、ラッセルとホワイトヘッドの考えがどうしても一致しなくなり、Principia Mathematica 第4巻は出ずに終った。"(市井三郎、『ラッセル』(講談社)p.42より)

岡田哲蔵:ラッセル著「自由人の崇拝」の紹介(=日本で最初のラッセル文献か?)
・G. Santayana: Winds of Doctrine を出版し、ラッセルの倫理観を批判 ↑(上記参照)

1914年(42歳)[大正3年]
・二度目のアメリカ旅行。シカゴの著名な婦人家医の娘 Helen Dudley(=2~3年前、G.Murray のもとでギリシア語を学ぶ)との情事。ラッセルはアリスと離婚が成立したら彼女と結婚をすることを約束。その後、戦争の勃発、ラッセルの心変わり「等」のため彼女に対する熱がさめ、それが原因で彼女はついには発狂。
・3~4月にかけて、ハーバード大学で Lowell 記念講義(学生の一人に T. S. Eliot がいた)。
・6月、英国にもどる。
・8月4日、英国、宣戦布告。群衆が英国の参戦に歓呼の声をあげている姿を目撃してショックを受ける。
・11月、反戦運動開始。
・自由党を離れて労働党に入党
・この年、歯槽膿漏直る。

・Our Knowledge of the External World 出版(ラッセルの口述を速記者が筆記したもの)
・"分析的方法はその後のラッセル哲学の最も強力な武器として、様々な領域に適用される。その最初の収穫が、即ち、Our Knowledge of the External World なのである。"(石本新他解説:三人の科学哲学者(「世界の名著」v.58,中央公論社、1971年9月)、p.20 より)

・"Newton 的な絶対時間と絶対空間、それに、物質粒子を放棄して、事象(events)の系に置き換えるようにしたのは、ホワイトヘッドに導かれてのことであった”(ラッセル自叙伝?)

・7月28日、第一次世界大戦勃発
・8月4日、英国、ドイツに宣戦布告

1915年(43歳)[大正4年]
・2月頃、Ottoline Morrell によって D. H. ローレンスを紹介される。
・11月29日付けの S. Unwin の手紙により、Allen & Unwin 社との関係が始まる。
・Principles of Social Reconstruction 執筆
・NCF: No-Conscription Fellowship(徴兵反対協会)の委員となる。
・顕著な哲学上の業績に対し、コロンビア大学より、Nicholas Murray Butler Prize を贈られる。

・Morrell 夫妻、1915年に Oxford の中心部から東南約10キロに位置する Garsington Manor に居を移す(1927年にロンドンの Gower Street に引っ越すまで)。
アインシュタイン、一般相対性理論発表

1916年(44歳)[大正5年]
・1916年初め、Westminster の Caxton Hall で8日間に渡って講演(Principles of Social Reconstruction として後に出版)
・Wilson 大統領に公開書簡
・6月15日、有罪確定:100ポンドの罰金刑
・7月11日、トリニテイ・カレッジの評議会でラッセルの免職決定
・夏、Dora Black (当時、ドラはケンブリッジ大学の Girton College の学生)と初めて会う(1919年に再会)。
・オットラインとの恋愛関係終わる。7月31日、女優の Collete O'Niel(= Lady Constance Malleson)と出会い恋愛し、2ケ月近くで肉体関係を持つ。

・Justice in War Time 出版
・Principles of Social Reconstruction を出版。これはかなりの収入源となる。

1917年(45歳)[大正6年]
・1917年末には、反戦運動に見切りをつけ始める。
・Political Ideals を米国で出版。この本には、陸軍省によって禁じられた公開講演を含んでいた。

・10月、ロシア革命

1918年(46歳)[大正7年]
・1月3日、「ドイツの和平提案」を Tribunal 誌に発表
・1918年始め、ロンドンにて The Philosophy of Logical Positivism に関して8回の講義
・5月初め入獄(ブリクストン監獄:囚人番号2917番。禁固6ケ月の判決)。兄フランクの努力等により、絨毯が敷きつめられた、普通の独房より広い特別室(週2シリング6ペンスの室料)に入ることができた。机、椅子、ベット付。。毎週3人だけ面会が許された。普通は午後8時消灯であるが、特別に午後10時消灯。
[刑務所での日課]:4時間の哲学に関する著述、4時間の哲学関係の読書、4時間の一般的読書)
・刑務所内で、An Introduction to Mathematical Philosophy 執筆
・Analysis of Mind 着手
・9月出獄
・Mysticism and Logic, and Other Essays;及び、Roads to Freedom; socialism, anarchism and syndicalism 出版

・11月11日、第一次世界大戦終戦

1919年(47歳)[大正8年]
・6月より,ケンブリッジ大学の数学者 J. E. Littlewood(1885.6.9~1977.9.6)教授とともに、Dorcet 海岸の Lulworth の近くで3ケ月の休暇を過ごす。そこで Dora Black と再会し、恋愛関係となる。
・北欧、南欧に旅行。
・『論理哲学論考』について議論するために、ウィトゲンシュタインに会いに行く。

・An Introduction to Mathematical Philosophy 出版

・A. Edington の日食観測によって、アインシュタインの理論が実証される。
・4月、デューイ、中国訪問
・5月4日、五四運動
・6月、ベルサイユ条約調印

1920年(48歳)[大正9年]
・スペインのバルセロナにあるカタラン大学で講演。
・5.12~ 6.17:英国労働党代表団に加わって革命ロシアを訪問し、Lenin や Trotsky と会見(5.12:ペテルブルグ=今のレニングラード着)
・10月、ドーラとともに中国を訪問(1921年7月まで北京大学客員教授)
・10月末、長沙で講演(演題:"ボルシェビーキと世界政治")

・The Practice and Theory of Bolshevism 出版

・D. H. Lawrence: Women in Love 出版(ここに登場するジェラルドはラッセルがモデルと言われている)。
・国際連盟成立

1921年(49歳)[大正10年]
・3月初旬、肺炎にかかり、3月下旬危篤に陥る。
・日本の3月28日付の新聞は、3月27日にラッセル死亡と誤報
5月3日、アリスとの離婚、正式に成立。
・7月12日、中国、天津港出港(郵船・営口丸)
・7月16日、朝、営口丸、門司港着。山本実彦の出迎えを受ける。(ただし,門司には上陸せず)。山本によれば、ラッセルは "卵色の背広" を着ていた由。

・7月17日~7月30日: 日本訪問
・7月17日正午: 営口丸にて神戸着。神戸クロニクル主筆ヤングの出迎え。最初の夜は、神戸・北野のトア(東亜)ホテルの2階57号室に泊まる(現在はなし)。
・7月18日、大阪ホテルにて、大阪毎日新聞副主幹と午餐。夜は、神戸トアホテル泊。
・7月19日、ラッセル、ヤング、ブラック、及びパワー(= Eileen Power)は、午前11時2分、神戸三宮駅発の列車で大阪に向かう。大阪ホテルにて昼食をとり、自動車で奈良へいく。奈良公園などで遊ぶ。夜は、奈良ホテル泊。
・7月20日、奈良の大仏見学、夕刻、同じ車で京都にいく。
(7.20~7.24、京都)
・7月21日: 京都大学荒木総長と短時間会見。夕方5時より、改造社主催の都ホテルでの歓迎会に出席。京都大学教授26名出席。
・7月22日、午前中、祇園、知恩院等見学。午後は、ホテルで静養。
・7月24日,7.49p.m.:東海道線特急で横浜着(京都から横浜まで10時間!)。山下町のグランド・ホテルに一泊
・7月25日、午後5時入京。夜、改造社の山本社長の案内で帝劇見物。帝国ホテルにて東京の第一夜を過ごす(2階32号室)。
・7月26日、午前11時より、帝国ホテルにて日本の著名な思想家達と会見(大杉栄、堺利彦、桑木厳翼、姉崎正治、上田貞次郎、阿部次郎、和辻哲郎、北澤新次郎、鈴木文次、与謝野晶子、福田徳三他)
・7月27日、午前11時~12時半まで、都下新聞記者20名と共同記者会見。午後は、上野及び日本橋丸善へ(桑木或雄が同行)
・7月28日、夜、慶応大学大講堂にて講演(聴衆は3,000人以上:通訳は、帆足理一郎)
・7月29日、横浜のグランドホテル泊
・7月30日、午後、Canadian Pacific 社の Empress of Asia 号でバンクーバー向け出帆

・8月27日、ロンドンに戻る。生まれてくる子供のために Sidney街31番地に引越す。
9月27日、Dora Black と再婚
・11月16日、長男 John 誕生
・この年、成人した時に相続した財産(約2万ポンド)をほぼ使い果たす。

・The Analysis of Mind 出版

・A. Einstein,ノーベル物理学賞授賞
・A. S. Neill(1883.10.17~1973.9.23)によって Summer Hill School 創設される。
・Mahatma Gandhi、対英非協力運動開始
・ウィトゲンシュタインの Logisch-philosophische Abhandlung が『自然哲学年報』(1921年刊行)の最終号、v.14,n.3/4、p.185~262 に掲載される。

1922年(50歳)[大正11年]
・春、コーンウオールに別荘 "Carn Voel" を購入
・保守党の牙城であるチェルシー選挙区から、労働党の候補として下院議員選挙に立候補し、落選(ロンドンのフラット:シドニー街13番地)

・The Problem of China 出版

・ウィトゲンシュタインの Tractatus Logico-Philosophicus(独英対訳版でラッセルの長文の序文付)が出版される。

1923年(51歳)[大正12年]
・再び、チェルシー選挙区から下院議員選挙に立候補して落選 → 職業的政治家になる道を断念
・12月29日,長女 Katharine Jane Russell(愛称 Kate)生まれる。

・The Prospects of Industrial Civilization; 及び The ABC of Atoms 出版

・11月18日、アインシュタイン訪日(改造社の招き。ラッセルが山本社長に聞かれ推薦したもの。)

1924年(52歳)[大正13年]
・アメリカに講演旅行(3度目の訪米)

・Icarus; or, the Future of Science 出版

・ホワイトヘッド、米国に渡り、ハーバード大学の哲学教授となる。
・Dora 立候補。 ・1月、英国で初めて労働党内閣(=J. R. MacDonald 首相)成立

1925年(53歳)[大正14年]
・The ABC of Relativity,1st ed.; What I believe、出版。
・Principia Mathematica,2nd ed.,v.1出版
 (第2版では、論理的パラドックスと意味論的パラドックスとを区別:単純階型理論)

1926年(54歳)[大正15年/昭和1年]
・Trinity College で、"物質の分析" に関する Tarner 記念講義

・On Education 出版。ベストセラーになってようやく経済的に落着く。

1927年(55歳)[昭和2年]
・9月より、ドーラとともに Chichester と Petersfield の間、South Downs にある兄の家 Telegraph House(200エーカの私有地付) を借りて Beacon Hill School(寄宿制の実験学校)を始める。
・アメリカへ講演旅行(4度目の訪米)
 資金稼ぎのために本を執筆しなければならず、学校の運営に全力をささげることができなかった。

・The Outline of Philosophy;The Analysis of Matter;及び、Selected Papers of B. Russell 出版

1928年(56歳)[昭和3年]
・Sceptical Essays 出版

イギリスの全女性に参政権が与えられる。

1929年(57歳)[昭和4年]
・秋、アメリカ講演旅行(5度目の訪米)
・Dora、下院議員選挙に立候補し、落選。

・Marriage and Morals 出版

・1929年の始め、ウィトゲンシュタインはケンブリッジにもどり、研究生として登録し、既刊の『論理哲学論考』により Doctor of Philosophy の学位を取得し、トリニティのフェロウとなり、講義を始める。
・中欧にウィーン学団、結成される。
・世界大恐慌(10月24日、ニュ-ヨーク株式市場大暴落)

1930年(58歳)[昭和5年]

・The Conquest of Happiness 出版

1931年(59歳)[昭和6年]
・兄 John Francis Stanley Russell(1865.8.12~1931.3.3)、借金を残して死亡:ラッセル、第3代伯爵となる。以後、兄の先妻に年400ポンドの扶助料を兄のかわりに支払うこととなる。
・アメリカのハースト系の新聞・雑誌に、毎週エッセイを寄稿し始める(以後4年間)
・秋、アメリカに講演旅行(6度目の訪米)
1921年までの『自叙伝』の大要を口述。

・Scientific Outlook 出版

ゲーデル、「不完全性定理」発表

1932年(60歳)[昭和7年]
・春、Beacon Hill School より手を引く。テレグラフ・ハウスを去り、パトリシア・スペンスとコーンウオールに移り住む。(離婚手続きが難航し、決着がつくまで、以後3年間を要することとなる。)
・(兄の2度目の妻に年400ポンドの別居手当を支払うだけでなく、さらに)ドラに別居手当を支払う義務を負うこととなる。
・Royal Society(英国学士院)より Sylvester Medal

・Education and the Social Order 出版

・W. K. Heisenberg(1901-1976)、ノーベル物理学賞受賞
・ナチス、第一党となる。
・日本が清朝廃帝薄儀をかつぎだし、満州国を成立させる。

1933年(61歳)[昭和8年]
・パトリシア・スペンスの協力を得て、Freedom and Organization の執筆に着手

・1月30日,ヒトラー、ドイツの首相に就任
・「プリンストン高等研究所」設立
1934年(62歳)[昭和9年]
・Freedom and Organization 出版

・12月、ソ連で粛正始まる。

1935年(63歳)[昭和10年]
法的に、ドラとの離婚成立。裁判所が John と Kate の後見人となる、との採決がくだされた。
・哲学上の名声を再び得ようと決意

・In Praise of Idleness;及び Religion and Science 出版

1936年(64歳)[昭和11年]
・1月、Patricia Spence と結婚(3度目)

・Which Way to Peace? 出版

・A. J. Ayer: Language, Truth and Logic 出版
・J. M. Keynes: General Theory of Employment,Interest and Money 出版

1937年(65歳)[昭和12年]
・次男 Conrad Sebastian Robert Russell、生まれる。
・11月、再び、英国哲学会会長(1937~38)となる。
・上院で外交問題に関する処女演説(ラッセルは伯爵であるので有資格者)

・The Amberley Papers、2 vols 出版(Patricia Spence の協力)
・『ライプニッツの哲学』の再版に新しい序文をつける。

1938年(66歳)[昭和13年]
・Oxford 大学で、"Language and Fact" というテーマ(Inquiry into Meaning and Truth の初期の形)で連続講義
・Ottoline 死亡(ラッセルはオットラインに、1911年~1938年の間に約2,000通の手紙を書いたといわれる)。
・秋、妻子とともに渡米(6年間の米国生活始まる)
・1938年末、Chicago 大学でゼミナール(Carnap, Morris 参加)

・Power 出版

・3月、ナチス・ドイツ、オーソトリアを併合

1939年(67歳)[昭和14年]
・1939年初め、引続き Chicago 大学で講義
・California 大学(ロサンゼルス校)で講義・演習
・夏休み、John, Kate, Patricia とともに、カリフォルニア州 Yosemite 国立公園にいく。

・8月2日、アインシュタイン等、ルーズベルト大統領に書簡を送り,米国が原子爆弾の研究を開始するよう進言
9月1日、第二次世界大戦勃発

1940年(68歳)[昭和15年]
・2月ごろ、ニューヨーク市立大学客員教授として紹聘を受ける(後で取消される:いわゆるバートランド・ラッセル事件)。
・秋、Harvard 大学で William James Lectures

・An Inquiry into Meaning and Truth 出版

1941年(69歳)[昭和16年]
・1月より、バーンズ財団で西洋哲学史の講義を開始。(5年契約であったが、実際は1942年の末でうち切られる。)

1942年(70歳)[昭和17年]
・(1942.3.23付 G. Murray への手紙)"・・・。私は、日本の参戦が事情を変化させたと思います。英米の、慈悲深そうにしていながら実は帝国主義だというやり方は、もう通用しないでしょう。「アジア人のためのアジア」は認めなければなりません。ただ問題なのは、インドと中国が解放されるだろうか、それとも日本に支配されるだろうかということです。もし解放されるとすれば、アジア的なロシアの方に引きつけられるでしょう。ただし、そうはいってもそこには何ら文化的結合というものはないでしょう。・・・。"

・1月18日、ベルリンで日独伊軍事協定調印
1943年(71歳)[昭和18年]
・プリンストンに転居してアインシュタインとの親交始まる。

1944年(72歳)[昭和19年]
・6月(=ノルマンディ上陸作戦の直前)、英国に戻る。 Trinity Collegeから5年契約の講師として紹聘される。傍ら、英国政府に協力して各地で講演を行う。
(1944.1.13付、ホワイトヘッド夫妻からの手紙)"わたしたちは、今ちょうど、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ評議会の議事録で、あなたがフェローと講師の地位に再任されたことを知りました。その議事録は、その決定が全員一致であったことを強調しています。・・・。"

・The Philosohy of B. Russell,1st ed. 出版

1945年(73歳)[昭和20年]
・11月28日、上院で演説:水爆の実用化を予言(上院での演説は2回目)。
・世界政府運動を開始
・Human Knowledge の執筆に着手。
・A History of Western Philosophy 出版(英国初版は1946年

・ホワイトヘッド、Order of Merit 受賞
・7月16日、米国ニューメキシコ州アラモゴルド砂漠で原爆実験
・8月6日広島に、8月9日長崎に、原爆投下
・8月15日、日本は無条件降伏(第二次大戦終結)。
・国際連合成立

1946年(74歳)[昭和21年]
・ケンブリッジ大学 Newnham Colledge において、Henry Sidgwick 記念講義
(1946.6.23付、Lucy Donnelly への手紙)"私は今、スイスに短期の講演旅行にきています。1週間後には、長期休暇をとって、北ウェールズにいるピーターとコンラッドのところに帰ります。その後、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに戻ります。トリニティでは、ずっとニュートンが使っていた部屋で暮らしています。・・・。"

1947(75歳)[昭和22年]
・1947年末、ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学教授を辞職

1948(76歳)[昭和23年]
・核兵器の拡散を阻止するためにソ連を原爆で脅かすことを主唱
・10月、オスロから Trondheim にいく水上飛行機が墜落し、冬の北海に投げ出されたが九死に一生を得る。(反ソ同盟にノルウェーを参加させるため、労働党英国政府の委嘱でノルウェーへ行く途中)
(1948.3.27付、Lucy Donnelly への手紙)"・・・。私は自叙伝を書き始めました。そしてそれがいかに大変なものであるかわかりました。あなたにさしあげた手紙を拝借できれば幸いです。・・・。娘のケイトは、ちょうど、Charles Tate という名前のアメリカ人と結婚したばかりです。ケイトは現在なおマサチューセッツ州ケンブリッジに住んでいます。私はまだケイトの相手にあったことはありませんが、聞いた範囲ではとてもいい人のようです。・・・。"

・ラッセル理論哲学の集大成, Human Knowledge 出版

・ソ連(スターリン),ベルリン封鎖

1949(77歳)[昭和24年]
・Patricia と別居
・BBCラジオを通じて Reith Lectures
・6月、Order of Merit をジョージ6世より授与される。

・Authority and the Individual 出版

・7月、ソ連、原爆実験
・10月、中華人民共和国、成立

1950(78歳)[昭和25年]
・6月、オーストラリヤへ講演旅行
・12月、ノーベル文学賞授賞。(Marriage and Morals(1929年刊))が授賞理由の一つ
・プリンストン高等研究所へ行き、アインシュタインと会う。 ・コロンビア大学で連続講義
・アリスと再会。

・Unpopular Essays 出版

・1月、トルーマン大統領、水爆製造計画を発表。これに対し、アインシュタインは声明を出し、「国家の武装を通じて安全保障を達成し得るという信念は、軍事技術の現段階では、人類全体を破滅に導く幻想にすぎない」と訴える。
・2月、共和党の上院議員 J. McCarthy(1908~1957)は、国務省内の赤色分子200名の追放処分を要求
・6月、朝鮮戦争勃発
・米国でマッカーシー旋風

1951(79歳)[昭和26年]
・1月21日、アリス死亡
・アメリカへの講演旅行(これがアメリカへ行った最後?)

・New Hopes for a Changing World;及び The Wit and Wisdom of B. Russell 出版

・4月29日、ウィトゲンシュタイン(1889.4.26~1951.4.29)、ガンで死亡


1952(80歳)[昭和27年]
・6月、パトリシアと正式離婚。パトリシアに11,000ポンドの慰謝料を支払う。(ちなみに、ノーベル賞の賞金は1万ポンド)
・12月15日、Edith Finch と再婚(4度目)

・The Impact of Science on Society(enlarged ed.); 及び Bertrand Russell's Dictionary of Mind, Matter and Morals 出版

1953(81歳)[昭和28年]
・ロンドン郊外に4階建ての家を購入して、1、2階を長男一家に使わせる。(長男には3人の子供あり)
・肺炎で死にかかる。
・The Good Citizen's Alphabet;及び Satan in the Suburbs 出版

・3月5日、スターリン死亡(フルシチョフが葬儀委員長)
・ウィトゲンシュタインの『哲学研究』出版される。

1954(82歳)[昭和29年]
・12月23日、BBCを通じて核兵器の禁止・廃止を訴える。

・Human Society in Ethics and Politics、及び Nightmares of Eminent Persons出版
・市井三郎氏は、Human Society in Ethics and Politics を「学問的労作」である、として評価している。

・3月1日、ビキニ水爆実験
・7月22日、ジュネーブ休戦協定発効

1955(83歳)[昭和30年]
北ウェールズの Plas Penrhyn に山荘を購入して、エデイス夫人ととともに、移り住む。
・7月9日、ラッセル=アインシュタイン声明発表: 世界科学者会議を提唱(アインシュタインは亡くなる1週間前(4月11日)に声明に署名していた!)
・ローマにおける世界連邦国会委員会国際会議、パリにおける世界連邦世界協会世界大会、ロンドンにおける世界科学者会議等に出席

・A. Einstein(1879.3.14~1955.4.18)没

1956(84歳)[昭和31年]
・英国のスエズ出兵とソ連のハンガリー干渉(1956.10.23)を強く非難
・英国下院において、世界政府協会主催のラッセルのための晩餐会が開かれる。

・Portraits from Memory,and Other Essays;及び Logic and Knowledge; Essays 出版

1957(85歳)[昭和32年]
・7.7 - 7.10: カナダの寒村パグウオッシュにおいて、第一回パグウオッシュ会議(Cyrus Eaton :サイラス・イートンの財政的援助):ラッセルは健康を損ねて欠席。10ケ国から22名、日本からは(湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩男)出席
・フルシチョフとアイゼンハウアーに公開書簡を送り、米ソ巨頭会談を呼びかける。
・英国における哲学の傾向を批判
・ユネスコより、科学的知識普及の功績で Kalinga 賞を授賞

・Understanding History and Other Essays;及び, Why I am not a Christian, and other related subjects 出版

・10月、ソ連、スプートニク打上げ成功

1958(86歳)[昭和33年]
・1月、CND: Campaign for Nuclear Disarmament 発足、初代総裁となる。(議長は,聖職者コリンズ)
・2月17日、Westminster の Central Hall でCND創立大会(10,000名を越える参加者)
・第2回パグオッシュ会議(オーストリアで開催)に出席
・9月、第3回パグウオッシュ会議に出席:19ケ国から70名出席、ウィーン宣言出される。

・The Vital Letters of Russell,Khrushcev,Dulles 出版

1959(87歳)[昭和34年]
・Edith Russell の家政婦宛の手紙(4月6日付)によると、ラッセルはのどに障害があり、流動食しかとれない状態とのこと。また、K. Blackwell 氏によると、晩年の12年間は流動食しかとれなくなった由。

・Common Sense and Nuclear Warfare 及び My Philosophical Development 出版

・6月頃?、日高一輝氏、ヨーロッパに渡り、ラッセルの側近の1人として活動する。(1962年春まで)
・朝日新聞がラッセルを日本に招待するプランは実現出来ず。

1960(88歳)[昭和35年]
・7月末、初めて Ralph Schoenman(当時24歳)が訪ねてくる。
・CND総裁を辞し、Committee of Hundred (百人委員会)を組織
・9月24日、トラファルガー広場で演説
・ヨーロッパ文化の振興に貢献した業績により、デンマークより Soning 賞

・B. Russell Speaks His Mind 出版

・ソ連、対中国経済技術援助停止: 中国「自力更正」へ → 中ソ対立に発展
・12月、南ベトナム民族解放戦線結成
・OPEC結成 ・日米新安保条約

1961(89歳)[昭和36年]
・百人委員会を結成し、委員長となる。
・2月18日、英国の核政策に抗議するトラファルガー広場における2万人の大集会
・9月、百人委員会、国防省前に座り込み。
・9月12日、2ケ月の懲役の判決(後に1週間に減刑)
・10月29日、トラファルガー広場で「市民不服従」の大集会
・11月、ブリクストン刑務所付属病院に一週間拘束される。
・12月9日、英国全土の核兵器基地と米軍基地への5万人の抗議デモ

・Fact and Fiction; Has Man a Fututre?、及び、The Basic Writings of Bertrand Russell 出版

1962(90歳)[昭和37年]
・4月23日、米国に核実験不再開要請
・5月18日、90回目の誕生日
・5月19日、ロンドンのロイヤル・フェステバル・ホールにおいて、ラッセル生誕90年記念コンサート開催
・7月、核と軍縮問題についてウタント事務総長と会談
・10.25~10.26、キューバ危機:ケネディ大統領とフルシチョフ首相に電報を送って調停に尽力

・中印国境紛争

1963(91歳)[昭和38年]
・百人委員会解散
・8月27日、全米人種会議への声明
・ベトナム反戦(反米)活動始める。
・9月29日、Bertrand Russell Peace Foundation(バートランド・ラッセル平和財団)及び、Atlantic Peace Foundation(大西洋平和財団)創設

・Unarmed Victory 出版

・8月、部分的核実験停止条約(地下実験は野放し)
・10月、中国が始めての核実験
・11月22日、ダラスでケネディ大統領暗殺される。

1964(92歳)[昭和39年]
・R. シエーマンや C. ファーレイをベトナムに派遣

・フルシチョフ首相辞任
・10月16日、英国総選挙、労働党の勝利
・10月16日、中国初の核実験
・UNCTAD 第1回ジュネーブ総会

1965(93歳)[昭和40年]
・10月14日、ロンドンにおける「核兵器撤廃青年運動」の集会で、労働党の党員証を破り捨てる。

・On the Philosophy of Science 出版

・ラッセル平和財団日本協力委員会(吉野源三郎委員長)設立される。
・日本バートランドラッセル協会、1965年1月20日、早大・大隈会館にて設立総会

1966(94歳)[昭和41年]
・6月4日、ロンドンのマハトマ・ガンジーホールで Vietnam Solidality Campaign を組織し、ヴェトナム戦争犯罪国際裁判の開廷準備を決議

*長崎大学の岩松繁俊氏、9月11日,自宅に「バートランド・ラッセル平和財団日本資料センター」を設立し、同センター資料 No.1を発行

1967(95歳)[昭和42年]
・5.2~5.10:第一回国際戦争犯罪法廷(いわゆるラッセル法廷:於ストックフォルム)
・11.20~12.1:第二回ラッセル法廷(於:コペンハーゲン)

・War Crimes in Vietnam 及び The Autobiography of B. Russell、v.1 出版
・A Detailed Catalogue of B. Russell 出版

・6月、中国、初めての水爆実験

1968(96歳)[昭和43年]
・3月28日、ラッセル関係文書、カナダの MacMaster 大学に売却(ラッセルの蔵書は、Edith が亡くなってからマクマスターへ)
・8月20日、ソ連、ポーランド、東独、ブルガリア、ハンガリーの軍隊、チェコ侵入 → ラッセル、ソ連を非難するとともに、全世界の共産主義者・社会主義者にアピール
・Autobiography、v.2;及び The Art of Philosophizing and Other Essays 出版

・核拡散防止条約

1969(97歳)[昭和44年]
・2.1~2.2:チェコスロバキアに関するストックフォルム会議
・5月:同上、ロンドン会議
・Autobiography,v.3、及び Dear Bertrand Russell 出版

1970(数えで98歳)[昭和45年]
・2月2日(約97歳10ケ月)、プラスペンリンにて死亡


[ラッセルの親兄弟]
 *母 Lady Russell: 1874.06.28 死亡
 *姉 Rachel: 1874.07.03 死亡
 *父 Lord Amberley: 1876.01.09 死亡
 *兄 John Francis Stanley Russel: 1931.03.03 死亡

[ラッセルの妻]
 1) Alys Pearsal Smith,1867~1951.
 2) Dora Black,1894.04.03~1986.07.02?
 3) Patricia Spence,
 4) Edith Finch,1900.11.05~1978.01.01

[子供]John と Kate は Dora との間に出来た子供
  Conrad は Patricia との間の子供
 1) John Conrad Russell, 1921.11.16~1987
 2) Katharine Russell(=Katharine Tait),1923.12.29~
  * 四男一女あり。Tait 氏と結婚し、後に離婚
 3) Conrad Russell, 1937~
  * ケンブリッジ大教授?

[孫]
  * Lucy Russell: 長男ジョンの三女、1975年04月11日,焼身自殺