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バートランド・ラッセル「権力哲学」

* 牧野力(編)『ラッセル思想辞典』より
From: Power; a new social analysis, 1938, chap. 1

 権力は欲求達成の手段である。
 哲学は、通常何か一つの支配的な欲望に貫かれており、それによってその哲学にまとまりが生れる。
 権力哲学という意味は、権力が哲学の主題内容だと言うのではなく、むしろ、権力がその哲学者の形而上学と倫理的判断との意識的か無意識な動機であって、主として権力愛に動かされて生れた哲学、との意味である。
 人間の信念は欲望と観察を結合した結果である。哲学者の仕事を支配した欲望は様々で、知ろうとする欲望、知ることの可能性を証明しようとする欲望、幸福を求める欲望、徳を慕う欲望、救いを求める欲望、神か宇宙との一体感を求める欲望、人間同士の一体感を求める欲望、美に対する欲望、享楽に対する欲望、そして最後に権力に対する欲望がある。

 経験哲学は真理を求めるが、観念論は確実性を求め、ベンサムとマンチェスター派の哲学は、快楽を究極目的と考え、富を最も主要な手段と考える。近代の権力哲学は、マンチェスター派の目的が余りに断片的な積極性の乏しい見方だとして、その反動として起きた。
 人間生活はどうにもならない事実と意欲との不断の相互作用だから、己の権力衝動だけに導かれる哲学者は、己の意志の結果でない事実が演ずる役割を最小限に扱うか、非難しようとする。私が今考えているその哲学者とは、単に、マキアヴェリや『国家』の中のツラシマコスのように「むき出しの権力」を賛美した人々だけではなく、むしろ、自分自身の権力愛を、形而上学や倫理学の美しい衣の下に隠し持つ理論の発案者たちである。近代における第一人者はフィヒテで、その点で最も徹底していた。
 フィヒテの哲学は、自我を世界の唯一の存在とし、そこから出発する。自我は自らを事実として推定するが故に、存在するのであり、他の一切は存在しないのである。この究極的自在とはつまり彼の自我に他ならない。彼の形而上学には社会的義務を容認する余地がまったく残されていない。プラグマチズムも、ベルグソンの創造的進化も権力哲学の一種だ。

ラッセル著書解題
 ニイチェは自分の権力衝動に形而上学を支配させなかった。むしろ、権力衝動を駆使して、倫理学を勝手気ままに動かした点では最も重要な哲学者であった。彼はキリスト教道徳を奴隷道徳としてしりぞけ、代りに英雄的支配者(=超人)にふさわしい道徳を置き換えた。そして彼は新約聖書の教えと意識的に対立する。俗衆はそれ自身無価値で、ただ偉大な英雄、超人の手段としてのみ価値があるから、たとえ俗衆に危害を加えても、それによって英雄が己の自我発展を促すことができれば、英雄にはそうする権利があると言う。
 キリスト教の理論は、神の前には万人が等しいものだと主張して来た。民主主義は、キリスト教の教えを引き合いに出して、支えとすることができるが、ニイチェの超人哲学は貴族政治には最適の倫理である。神をその王位から追い払っても、俗世の暴君たちに対してはその席をあけて出迎えねばならない。
 権力を愛する心は、正常な人間の本能の一部だが、権力哲学は、明らかに、正気の沙汰ではない。権力哲学は、その社会的な影響結果をも考慮に入れれば、自分で自分の誤りを明確にできるはずである。 (挿絵: From: Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)