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バートランド・ラッセル「国家」

* 出典:バートランド・ラッセル『権威と個人』
* 原著:Authoriti and the Individual, 1949, chap.6
* 『ラッセル思想辞典』所収


ラッセルの言葉366
 社会は、その構成員である個人に良い生活をもたらすためにある。社会という名の枠の全体にではなく、個人の内にこそ究極の価値は求められるべきである
 良い社会は個人に良い生活をもたらす手段であり、社会自体が別の美点を持つわけではない。
 国家を一つの有機体だと言う時、一つの類推が行われる。その類推の限界を認識しないと、全く危険なことになりかねない。人間や高等動物は、厳密な意味での有機体である。善悪いかなることが人間にふりかかるにしても、それは一個人としてのその人自身にふりかかるのであって、その人のあれかこれかの一部分にではない。私が歯痛に苦しむ時、その痛みを受けているのは、私自身で、神経がその患部を私の脳髄と結合していなければ、痛みは存在しない。地方の農夫が吹雪に襲われた時に、寒いと感じるのは、首都ロンドンにある国家政府ではない。個人という有機体自身が善悪の担い手であり、個人のどの一部でも、人間の集団でもない。様々な個人の善悪の外に、人間集団の中にも善悪があると信じるのは誤りである。単なる誤りだけでなく、この類推は、直ちに全体主義の考え方に通じる危険な道となる。
 国家には、単に市民の福祉の手段としてだけでなく、国家自体の美点がある、と考えている哲学者や政治家がいる。この見解に同意する理由は全くない。国家とは抽象された事柄で、快も苦も希望も感じえない。そして、国家の目的であると人々が考えているものは、実は、国家を操るその支配者個人の目的である。もっと具体的に考えて見れば、国家ではなくて、普通一般の人間以上に権力を握っている人々が考える目的である。「国家」礼賛は、現実には少数支配者とその取巻き連中が行う、彼らに好都合なように国家を操る目的で行う礼賛である。真の民主主義から考えて、根本的にこれほど不正でまやかしの説はない。 (松下注:写真は、B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953 より)
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There are some among philosophers and statesmen who think. that the State can have an excellence of its own, and not merely as a means to the welfare of the citizens. I cannot see any reason to agree with this view. 'The State' is an abstraction; it does not feel pleasure or pain, it has no hopes or fears, and what we think of as its purposes are really the purposes of individuals who direct it. When we think concretely, not abstractly, we find, in place of the State, certain people who have more power than falls to the share of most men. And so glorification of the State' turns out to be, in fact, glorification of a governing minority. No democrat can tolerate such a fundamentally unjust theory.