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バートランド・ラッセル「因果関係」

* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典
* Source: Human Knowledge; its scope and limits, 1948

 以下は、遠藤弘氏(当時、早稲田大学教授)によるラッセル『人間の知識』第6部「科学的推理の公準(Postulates of Sceintific Inference 科学的推理の前提として必要な仮定や要請=数学における公理のようなもの)」の要旨訳に原文(英文)を少し添付したものです。



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 ラッセルにあっては原因と結果という伝統的な概念が変化の諸法則によっておきかえれらる。伝統的な意味である事象Aが事象Bの原因であると言われるとき、A、B間には次の二つの関係がなり立つことが要請されて来た。すなわち、(1) Aが起るときには常にBがひき続いて起る。(2) はじめにAが起り、相次いでBが起ることは単なる事実性にとどまるものでなく、それにはなにがしかの必然性が伴う。しかし実際のところこのような事象の系列は自然界には見当らないとラッセルはいう。自然内の一切の事象は連続的に変化しつつあるようにみえる。だから一つの事象といっているものも実際は過程である。因果とは時間的に近接した二つの過程である。過程は時間的な幅をどれほど狭めて考えても過程にはちがいないから、因果を二つの事象と考えて、両事象を限りなく短く限定することができる。そうすると結局、因果の法則が教えてくれるものは、各瞬間に何らかの変化の方向があるということにほかならない。だから物理的法則が語ろうとしているのはAの次にBが起るであろう、というようなことでなく、与えられた状況の下で、一つの粒子の運動がどのような加速度をもつかというようなことである。しかしながらもとより無限小を観察することは人間の能力を越えているし、そもそも空間や時間が無限可分かどうかもわからない(注:どれだけ細かく分割できるか知ることができない)のだから、以上のように法則を精緻な仕方で理解したところで、人間がそれによって真理をありのままに把握したことにはならない。とすれば、科学においては経験的一般化による蓋然的な命題が幅を効かせることになる伝統的な因果法則はそのような蓋然的一般化の最たるものである。つまり、因果法則からその形而上学的な色調の普遍性や必然性を拭い去るべきである。さらに通常考えられている原因の専一性についてもラッセルは否定的である。Bに対しては専らAが原因というのではなく、Aは高々「ほぼ変らぬ先行事象」にすぎない。
We must ask ourselves: when we assume causation, do we assume a specific relation, cause-and-effect, or do we merely assume invariable sequence? That is to say, when I assert "every "event of class A causes an event of class B", do I mean merely "every event of class A is followed by an event of class B", or do I mean something more? Before Hume, the latter view was always taken ; since Hume, most empiricists have taken the former. I am at present only concerned to interpret the law of causation, not to inquire into its truth. As a matter of interpretation of what is commonly believed, I do not think that invariable sequence will suffice. ...

 知覚においては、通常,物が原因で知覚表象は結果であるといわれる。しかしもともと経験的に知られる一片の質料は単一の存在物ではなく、かずかずの存在物の一つのシステムである。たとえば、人びとが眺める同一のテーブルというのは仮説あるいは構成物である。さまざまな観察者に対してそのテーブルが呈示するすべての現れの共通の原因としてザ・テーブルすなわち「実在の」テーブルなるものを考えるのは誤りである。われわれはむしろテーブルの現れという感覚全体を集めた集合を現実にテーブルであると考えているとみるべきである。いや、はじめにテーブルの現れといえば、テーブルとの関わりによって現れが集合へとまとめられるような印象を与えてしまうが、そうではなく、もろもろの現れは現れ相互の関わりをもとにして(厳密にいえば、パースペクティヴの法則、光の反射、屈折の法則によって)集められるものであり、同一物としてのザ・テーブルはその集合からの推論の結果に他ならない。テー・ブルばかりでなく、すべての物理的対象について同じことがいえるのである。それにしても外的原因があるという信念は全く原初的であり、ある意味で動物の行動にもともと伏在している。(「動物的推理」の項参照)こうして科学以前の概念は科学において「因果法則」という概念でおきかえられるが、既述の議論を煎じ詰めれば、このことは結局、ある状況の下における変化の傾向やその変化がひき起す変化の傾向の変化を述べたり、単一の持続する実体的実質を事象の系列の結合におきかえて、いわゆる因果列を考えたり、そこでの統計的規則性を重視したりすることを意味するのである。(「科学的推理の公準」の項参照)
... For reasons given in earlier Chapters, a "thing" or a piece of matter is not to be regarded as a single persistent substantial entity, but as a string of events having a certain kind of causal connection with each other. This kind is what I call "quasi-permanence". The causal law that I suggest may be enunciated as follows: "Given an event at a certain time, then at any slightly earlier or slightly later time there is, at some neighbouring place, a closely similar event". I do not assert that this happens always, but only that it happens very often -- sufficiently often to give a high probability to an induction confirming it in a particular case.