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バートランド・ラッセル「一次言語」

* 原著: An Inquiry into Meaning and Truth, 1940, chap. 4 & chap. 5.
* 出典:出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典


【(故)遠藤弘早稲田大学教授による要旨訳です。時間の関係で原文なしです。時間ができたら原文を追加します!】

 ラッセルは言語の階層を考えている。階層の高い言語は(それより)低い(階層の)言語について語るための言語である。この階層は無限の高層へと展開すべきものであるが、最下層の言語は確定していなければならない。さもなければ言語は出発点をもたないことになるからである。ところでこの最下層の言語をラッセルは一次言語、あるいは対象言語とよぶ。この階層の中でこの一次言語に相次ぐ諸言語は二次言語、三次言語等々とよばれる。一般にn次言語の真偽を主張する文、n次言語の文p、qに対して、pでない、pまたはq、pしかしqなどは「n+1」次の言語に属する(注:n次よりひとつ階層が上の言語)。同様に一次だけ階層を高める語の例を挙げるなら、all や some, the, than, believe, desire, doubt, is などである。ここで注目すべきは is が一次言語に属さないという点である。ラッセルによれば、「存在 (existance)」,「有(being)」は直接対象に妥当することのない高次の言語である。
 さて、一次言語は対象語だけから成る言語であると定義される。(対象語の説明を参照) すなわち、それは「人」「犬」のようなクラスを表す語、「黄色い」「固い」のような性質の名称、「歩く」のような動作の名称、「上」「外」「前」「早い」などの関係語だけから成る言語ということになる。つまり、この言語は知覚による直接的経験を記述するものである。もちろんわれわれは自らが無意識的に接している環境のある部分に注意を向け、その部分を切りとったものを記述する。無意識から注意を経て発話にいたるメカニズム一種の因果関係とみなされているが、かかる因果関係そのものは発話の際には全く意識されない。ここで特筆すべきは次の点である。すなわち、複雑な多項関係に注意を向け対象語との連合を確立するとき、われわれは、ゲシュタルト心理学のように、ゲシュタルト(松下注:部分の寄せ集めとしてでなく、ひとまとまりとしてとらえた、対象の姿のこと)を与えることによって受け容れるというのではなく、複合そのものを所与として直接経験するのである。例えば、漠然と一枚のトランプのカードが見えて来たときに「<クラブの2>がある」というゲシュタルト知覚ではなく、「二つの似通った黒いマークが白い背景の上にある」という分析的知覚を得ることこそ一次言語の発生を可能にするものである。
 ところで、上記のような言語の階層はなぜ考えられねばならないのだろうか。それは種々のパラドックスを避けるためであるが、その一つをつけ加えておこう。
「English」という語は英語を意味すると同時にそれ自身が英語である。これに対して「German」はドイツ語を意味しているが、それ自身は英語である。このようなとき、「English」は同述語的「German」は異述語的とよぶことにする。
 さて「異述語的」が異述語的なら、この語はそのもの自身ではない、すなわち異述語的なのだから、同述語的となり、ここに背理(注:論理的矛盾)が生ずる。これを避けるためには言語を階層に分け、異なった階位の語をけっして混同しないようにしなければならない、とラッセルは述べている。
(遠藤)


Source: How to grow old, 1951, by Bertrand Russell. Reprinted in: Portraits from Memories, and Other Essays, 1956
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