バートランド・ラッセルのポータルサイト
シェア

バートランド・ラッセル「自由な思考の価値」

* 原著: The value of free thought; how to become a truth-seeker
and break the chains of mental slavery, Aug. 1944)
* Repr. in: B. Russell on God and Religion, ed. by Al Seckel(Prometheus Books, 1986)
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』所収



ラッセルの言葉366
 「自由思想(自由な思考)」という表現は、しばしば単に支配的な伝統に反対することを意味するかのように使われる。・・・。しかし、自由思想の持ち主(自由思想家)と言われるためには、・・・自分の情熱にもとらわれてはならない。・・・。人を自由思想家にするものは、その人の信念(の内容)ではなく、信念を抱く方法である。
( The expression "free thought" is often used as if it meant merely opposition to the prevailing orthodoxy. ... To be worthy of the name, he must be free of two things: the force of tradition, and the tyranny of his own passions. ...)
 
 自由思想家が追い求める自由は、無拘束の絶対的自由ではなく、知性の許す範囲内での自由である。自分以外の権威に屈せず、同時に自分の欲望に引き回されず、ただ証拠だけに従う。・・・。彼は同僚・仲間から、また自分が持つ偏見、困難な自制、自分が理解したいと望んでいる外界(世界)から、自立していなければならない。

 自由思想(自由な思考)に反対する議論を少しとりあげて見よう。

 まず「謙虚であれ」という要請がある。この言葉は、反抗的な若者を年長者が扱う時によく使われる。この言葉には大きな真理がある。しかし、「謙虚であれ」と説くことには、権力者・権威者・為政者には好都合な面が多い。何に対し謙虚であるかによって、その意義に差が出てくる。・・・。
 伝統・権威に反対したが故に汚名を蒙った有徳の士に、ソクラテス、ブルーノ、スピノザらがいる。三人とも道徳の向上に貢献した。
 昔「貧者は、神の声に従えば天国に行ける」と説教された。・・・。貧者は死後に希望を託し、現世の苦労を我慢するように慣らされ、権力者と僧侶に仕え、世直しの話に耳を貸さない訓練をさせられた。神は最高の資本家(Supreme Capitalist)なり」と金持を告発したのは、卜マス・ペイン、ロバート・オウエン、カール・マルクスらの自由思想家であった。・・・。
 独裁政治にも独裁強化の迷信と神話とが必要で、自由な考え方でそれを見抜かない限り、そこから離脱はできない。進歩には、昔も今も保守との対決が必要である。旧教(ローマン・カトリック)の最悪な点は、恐怖を神聖化した点にある。"怒れる神"を恐れるという美徳は、地上の暴君への服従が美徳だと勘違いさせる。
 「誇り(pride)」とは、他人を軽蔑せず、圧迫に屈せず、良心を守る心構えであるのに、(カトリック)教会はこれを罪として罰し、"知性の思い上がり"と呼ぶ。私は誇りこそが美徳中の最も望ましい一つだと確信する。神も悪魔もともにその本質は人の心の反映である。罪は人間の自由意志から生れ、機械からは生れない。
 今日(注:このエッセイの発表は1944年)、人間が自由にもの考える上で重大な障害物はキリスト教ではなく、共産主義とナチズムという二つの新興宗教である。両者を宗教と呼ぶことは、恐らく、両者の友及び敵の双方にとって不快かもしれない。しかし、両者とも、実際、宗教の特徴を全て持っている。両者とも、不合理な教義(ドグマ)のもとでの暮らし方、聖なる歴史、聖者、教団を持っている。ひとつの教義を宗教として認定するために、これ以上何を要求されるのか、私にはわからない。
。・・・。
 私がこの両者を危険視するのは、証拠を示さず、自由討議を許さず、「知らしむべからず」主義を頑固に押し通し、実質的に民主的な手続を実践せず、中世の宗教裁判以上の迫害を実行するからであり、ナチズムはドイツ人のみを優秀民族と過信し、戦争を美化し、他民族を蔑視・虐待し、合理的思考を排し、情動に訴えるからである。自由討議こそ最良の対策である。

...
Let us consider some of the arguments against free thought that are used by those who are not content with a mere appeal to prejudice.
There is first the appeal to modesty, which is used especially by the old in dealing with rebellious youth. Wise men throughout the ages, it is said, have all been agreed in upholding cetrtain great truths, and who are you to set yourself up against their unanimous testimony? If you are prepared to reject St. Paul and St Augusine will you be equally contemptuous of Plato and Aristotle? Or, if you despise all the ancient, what about Descartes and Spinoza, Kant and Hegel? Were they not great intellects, who probed matters more deeply than you can hope to do? ....

Christian orthodoxy, however, is no longer the chief danger to free thought. The greatest danger in our day comes from new religions, Communism and Nazism. To call these religions may perhaps be objectionable both to their friends and to their enemies, but in fact they have all the characteristics of religions. They advocate a way of life on the basis of irrational dogmas; they have a sacred history, a Messiah, and a priesthood. I do not see what more could be demanded to qualify a doctrine as a religion. But let us examine each of them a little more narrowly.
When I of communism in this connection, I do not mean the doctrine that men's goods ought to be held in common. This is an ancient doctrine, advo cated by Plato, apparently held by the primitive Church, revived constantly by religious sects during the middle ages, and condemned by one of the 39 Articles of the Church of England. With its truth or falsehood I am not concerned; what I am concerned