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「バートランド・ラッセルは悔い改めたか?」

 ・・・。随分前の話ですが、私はかつて--貴方が中国で講演旅行をされている時に--私と同じ宗派の信徒で中国にしばらく滞在していた人と会う機会がありました。私の記憶によれば、その人の話は次のようなものだったと思います。先生は病気になって、中国のキリスト教系の病院に長いこと入院されました。先生は危篤状態でした。……。危篤状態を脱し、しだいに快方に向かい始めたとき、先生は大いに懺悔し(with great pentience)、宣教師でもある担当の看護婦と語りあって、自分が全東洋の学生の宗教的信仰心を引き裂いてしまった所業を、はたしてはかつて許したことがあるか、あるいは許すことができるものか、それについて彼女はどう考えるか、質問なさったとのことです。・・・。
  →『拝啓バートランド・ラッセル様』目次

(ラッセルからの返事・1950年11月24日付)

 拝復 リッピンコット様、

 お手紙ありがとうございます。私は、1921年に始まり、今ではとうに消えてしまったと思っていたまったく架空の物語が、再び現われてきたことに興味を感じています。
 1921年、私は北京で両側肺炎(double pneumonia)にかかりました。そして、雇うことのできる看護婦といえば、英国人看護婦ひとりだけでした。彼女は非常に信心深い女性であり、私が回復した時、彼女は私に次のように告白しました。即ち、(反キリスト教徒である)私を死なせることこそが彼女の義務だと考えて大いに苦しんだけれども、自分の良心に従いたいという衝動よりも看護婦としての職業的本能の方がずっと強いということがわかった,と。私は、2週間の間、うわごとを言い続けました。そうしてその譫妄(せんもう)状態が終わるやいなや、過ぎ去った2週間のことについては何一つとして思い出せませんでした。2週間の間、夜はその看護婦が私を看病し、昼間は私の妻(Dora)が看病してくれました。私は、咳をするとき、どうも神を冒涜するような言葉を言う癖があったようですが、そのやり方が前述の看護婦がいかにもそれを神に対する厳粛な訴えかけであると思い違いをするような様子であったらしいのです。少なくともこれは、私の妻が語ってくれたことです。(写真:1921年3月29日付の『大阪毎日新聞』が世界に誤報した「ラッセル死亡」を告げる記事)

 因みに、その病院はミッション系の病院ではなく、ドイツ人経営の病院でした。それにその看護婦というのは、キリスト教の宣教師ではありませんでした。
 とにかくこの種の物語は、つねに不信仰者について流布されるのです。あなたもお気づきのことと存じますが、バーナード・ショーが彼の死の直前、意識不明になったとき、その地方の英国国教教区牧師が、ショーがもはや彼を追い出すこともできない容態になったことを知ってから大急ぎでやって来ました。そして、ショーは、信心深い、有意義な教訓に富んだ最期を遂げたと世界に偽って主張しました。
  敬具 バートランド・ラッセル

Dear Mr Lippincott.
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... she had great struggles with her conscience on the ground that she thought it her duty to let me die, although professional instinct proved too strong for this virtuous impulse. ...
... You may have noticed that when G. B. Shaw became unconscious shortly before his death the local Anglican Parson rushed round knowing that Shaw was no longer in a positon to turn him out and pretended to the world that Shaw had made a pious and edifying end.
Yours sincerely
Bertrand Russell

(From: Dear Bertrand Russell; a selection of his correspondence with the general public, 1950 - 1968. Allen & Unwin, 1969.)