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『拝啓バートランド・ラッセル様_市民との往復書簡集)』

* 原著:英文(原文)
* 出典:R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)『拝啓バートランド・ラッセル様_市民との往復書簡集)』(講談社、1970年)

III 青年と老年(関係書簡) 解説

目次


'私は、老年というのは人間として見苦しくないようにと奮闘する
時代であると考えています--他にもあるでしょうが・・・。'
 バートランド・ラッセル(1872~1970)は、生涯の最初の28年間を19世紀に生きているので、「わたしは自分をヴィクトリア女王時代の人間といってもいいだろうし、またそういわなければならない。」といったことがあるが、まさにそのとおりである。1921年、中国訪問中、彼の死亡が(誤報で)伝えられたとき、彼は自分自身の死亡記事を読まされ、またみずから1962年に死去することを予想した死亡記事を書いたりしたにもかかわらず、97歳になってなお、彼はその存在を世界に印象し続けている。
 (多面的な)彼の生涯において最も注目すべき一面は、若い人々との親和性(相性が良かったということ)である。彼が年老いれば老いるほど、彼にたいする青年たちの讃美はより熱烈なものになっていった。
 1961年、彼はロンドン大学経済学部(ラッセルは前世紀末の(松下注:1896年)ここで講義したことがある)で学生たちに講演したとき、25年前に同じような講演会が開催されたとき、司会者がすでに自分(ラッセル)をヴィクトリア女王時代の生き残りとして紹介していたと、ラッセルは発言している。
 ラッセルは、自分の発言は次の世代の人々によって考慮され、判断されるようにということを常に意識していた。彼は断言する――
「若い人たちは、かれらの年長者たちが、まかりまちがえば自分たちをことごとくをみな殺しにしてしまう(ようなことをする)かもしれないということを、かすかであるとしても気付いている。若い人たちが反抗するのもまったく理解できる――若い人たちには、老人たちの慣行となっている無責任さというものが少しもない。若者を非難するのは、年寄りによくある一種の刺激剤ともいうべきものである。そして、若者に対する年寄りの非難は、若者の年寄りに対する非難のように納得のゆくものではまずないと判断しても間違いないだろう。」
 青年(若者)にとってラッセルは、プロメテウス(注:天から火を盗んで人類に与えたため、ゼウスの怒りにふれ、コーカサス山の岩に縛られ、禿鷲に肝臓を食われたというギリシヤ神話に出てくる神) タイプの人間である。彼は、権威、因習、そして独断的な教義にたいして熱烈に反対する――尊敬すべき思想といわれながら、実際は人間の業績にたいする障害となったり、人間の好奇心を硬直化させたり、偏見のない素直な心(open mind)を殺してしまうような思想・考え方にはげしく反対するのである。彼は青年たちにこう訴える。
「若い人たちにとって重要なことは、既成の見方に疑いをさしはさみ、それに挑戦したいと欲する燃えるような情熱を持ちつづけることです。それは(旧来のものにしがみつく)体制側(保守的な人々)にとっては非常な恐怖となりますが、創造的なものや新しいものを生み出すためには大いに必要なことです。」
 そして、プロメテウスが(ギリシアの)神々の怒りをかったとき、
「愚かな人たちや悪意のある人たちに反抗することは、けっしてなまやさしいことではありません。・・・。(しかし、)孤立しても、無視されても、攻撃されても、他人に疑われても、嚇かされても――断じて沈黙してはなりません。」
 ラッセルが現代の青年たちにとって、このように力強い象徴であることは疑いない。しかしまた彼は老人たちにとっても、老年、引退、そして衰弱といった昔ながらの老人のイメージに挑戦し、彼ら老人たちにインスピレーションを与える存在でもある。彼は『自伝的回想』(Portraits from Memory, and Other Essays, 1956)の中で次のように書いている――
「人間の思想は、将来を志向するとともに、何かしら なされなければならないことに志向されるべきです。・・・。わたしは仕事を続けながら死にたいと思う――自分がなしとげることのできなくなったことを、だれかほかの者が達成してくれることを知りつつ、そしてまた、自分に可能だったことはすべてなし終えたことに満足しつつ・・・。
 ラッセルは、人々がその思想と行動を利己的なものから社会的なものへと向上させるよう、考え方を変えさせようと心をくだいてきた。彼は、そのような思想と行動以外では、老若の間にべつに何らの区別をみとめない。そして彼は次のように信じている。
適切な行動を伴うところの、強い非個人的な興味を持つ人々にとって、幸福な老年を迎えることは、容易なことである。
 死の恐怖ということに関しては、彼はこういっている――
死の恐怖を克服する最良の方法は、自我というものの壁が少しずつ後退していって、あなたがたの生命がしだいに普遍的な生命に没入していくようになるまで、自分の興味・関心を次第により広く、より非個人的なものにしていくことです――少なくともわたしにはそのように思われます。」
 バートランド・ラッセルは、自分のことを、死せる時代(すぎ去った時代)の生き残りというふうに考えることを好んだ。彼は、同時代のあらゆる人々よりも長生きした。それにもかかわらず彼は、そのような状況のなかにもユーモア(の種)を見つけた。彼は、彼の本の出版元(スタンレイ・アンウィン卿-1968年10月、83歳で逝去)への手紙のなかで、自分をあまりにまじめすぎる人間ととらないよう主張している。――
「……わたしは、自叙伝を書き終えると同時に死ぬべきところを死にそこねましたので、「あとがき」を同封します。もしわたしが百まで生きるようでしたら、また追加の「あとがき」をお送りします。」