R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)『拝啓バートランド・ラッセル様(市民との往復書簡集)』
* 原著: Dear Bertrand Russell, 1969はじめに (編者によるラッセル紹介)
'わたしは一日に百通平均の手紙をもらう'
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一般の人々がラッセルに感じている魅力を説明する材料は無数にある。あれほどの長寿をたもったということのほかに、彼の存在を独特のものにしている要素がたくさんある。平和の使徒であり、人道のチャンピオンとしての世界的人物―バートランド・ラッセル。青年の魂をうばい、老人を奮い起たせる90代のラッセル。国会の上院を軽蔑し、みずから進んで投獄をも辞さない貴族のラッセル。アナーキスト的性格をもって国家権力に抵抗する議論好きな政治家。宗教的独断と因襲的な道徳と戦う無神論者。自分のたてた方程式でユークリッドをうち破った数学者、論理学者。しかもその哲学が、専門外の一般人にもわかりやすいラッセルである。その文体の優雅さと、その皮肉とウイットの辛辣さが、会話と手紙というものが教養ある芸術だった時代にたちかえるノーベル文学賞の受賞者―ラッセルである。
今日、個人個人が自分の思っていることを伝達する能力がかならずしも十分とはいえないのであるが、それにもかかわらず、ラッセルが自分の全然知らない人たちからもらった何千という手紙によって、ラッセルの与えた衝撃がどのようなものであったかを知ることができる。社会一般の各層の人々とこんなに豊富な、そして幅広い手紙の交換をなし得た偉人は、ほかにはおそらく一人もなかったろうと思われるし、普通ではとうてい近づくことのできない哲学者としては、ほかに一人もいなかったことは確かである。
この書簡集(出版)の目的は、ラッセルと手紙をかわした一般の人々の観点に立ってバートランド・ラッセルを知ろうとするところにある。それらの人々は、ただ漠然とファンレターと呼ばれる手紙を書いてきた――偉人が集めた文書としては全然価値のない部類に属するものだと、研究者や調査に当たる者が通常片づけてしまうような手紙であった。けれどもラッセルは、このような手紙であっても、けっしてくだらないといって片づけてしまうようなことはなかった。彼は、しなければならない仕事や専門家としてなすべき仕事が山ほどあったにもかかわらず、その時間をさいて、もらった手紙にたいする返事をいちいち書く労をとったのである。そして、誰宛の返事かということにはかかわりなく、心温かく、またユーモアをもって、彼の見解をまめに、そしてはっきりと書いたのである。こうして彼が誠実をこめて答えてくれるということは、返事をもらうことのできる人々にとっては、驚きでもあり、また大きな喜びでもあった。宗教、道徳、哲学、政治に関する多種多様な質問にまじって、ラッセルを讃える手紙や支持する手紙、真っ向から反対意見を述べたり批判している手紙、また、ラッセルの個人的な趣味や習慣をのべている興味深くめずらしい手紙、青年や老人についての彼の見解をのべている手紙、彼の個性のうちの愛嬌のある面をひきだす、ごくありふれたことがらに関する彼の態度を示しているような手紙等々がたくさんある。いくら読者の投書にたいする返信を書いているコラムニストでも、(当時)これほど激しい手紙の猛攻を受けたものはまずなかったろう。しかもラッセルに寄せられる手紙は、彼が世界に向かってアピールしている事情を反映して、多数の異なる国々からのものなのである。ラッセルは、その執筆活動をはじめ、面会やら講演やらの数限りない用件に追われながら、いかにしてこの際限のない書簡の流れに対処することができただろうか。それが、彼の日課を質問してきた1963年の手紙にたいする返信の中に説明されている。すなわちラッセルは、こう答えている。―
「午前8時から11時30分まで新聞を読んだり、手紙を処理する。わたしは平均1日に100通の手紙をもらう。11時30分から午後1時までの間に人に会う。午後2時から4時までの間、主にいま発行されている核問題関係の文書に目をとおす。午後4時から7時までの間、書きものをしたり人に会ったりする。8時から深夜1時までの間、本を読んだり書きものをしたりする(右写真:プラスペンリン山荘のラッセルの書斎からの眺め)」ラッセルは、70種にもおよぶ著書を書き、数千にも及ぶ論文やエッセイを書き、今世紀第一流の文学者、科学者、政治家――たとえば2、3の例をあげれば、バーナード・ショー、D.H.ロレンス、ジョセフ・コンラッド、T.S.エリオット、H.G.ウェルズ、ヴィトゲンシュタイン、シュヴァイツァー、アインシュタイン、ネール、フルシチョフ等と交信してきたのであるが、しかもなおかつ何千という低い地位の人々と通信しあう時間をみつけ、またそうする努力をなし得たということは、まことに驚嘆にあたいする。
しかしながら、考えてみれば、その驚嘆も納得がいく。というのは、ラッセルをよく観察すれば、その基本となっているのは、彼の関心事が人類全体のためであると同時に個々の人々ひとりひとりのためということだからである。だからこそ彼は、公の事一般についても、また匿名の個人が提起する問題についても、それらから離れていないで、いつでも接触しうるようにしていたのである。彼はこうした通信の妨げ(communication barrier)になるものは、ことごとくうち破ってきた。われわれがここに選んだ人々への手紙とまったく同じような手紙が何万通とあるということは、彼が自分の方針を不断に実行するという立派な証拠にほかならない。われわれは、ラッセルが非常な卓越さをしめしてきた活動のさまざまな分野について述べてきた。この本に載った手紙は、それに応じて分類されている。もっともラッセルの理念と行動は、彼のいだいた真理と人類の福祉への渇望に基づいているのであって、その相互に明らかに密接な結びつきがあることはいうまでもない。
ラッセルが保存してきた書類から推測すると、彼はその一生の間に、30時間に1通ずつの手紙を書いた計算になる。しかし実際には、ラッセル自身が指摘したように、その数はそれよりもはるかに多かったのである。どうしてかというと、他の手紙の中には、「わたしは引越をするごとに多量の書類を焼却するのがならわしだった」と彼が言うように、焼きすてられたのが相当あった。その上彼は、彼独特のウイットをとばしてこういっている―「このことはわたしが著しい量の手紙を書いたことを物語っているが、それにしてもわたしは、わたしのペンが他の人々の力よりも偉大であったと主張することはできないし、さらに、もっと忙しく働いたということもできない」と。
この書簡集が、当代の最も卓越した知識人の一人である人物の、十分に調べ、かつ十分に論議された生涯をうかがい知る上に、大いに役立つようにとわれわれは心から望んでいる。もしバートランド・ラッセルについて、もっと発見すべき何かが残っているとすれば、それは、公の面からはうかがい知ることのできない、そして個人的なレヴェルにおいて、われわれ一人一人に向けられている彼の人間性を、彼自身の書簡をとおして明らかにすることができるということである。わたくしどもはあえてそう主張する。この意味において、この書簡集には、こうした役割が付加されていることもわかるのである。そうして、現代が、マスコミの力が強く、閉じられたなかでの類似性が強い(個性を発揮しにくい)時代であるが故に、その意義はさらに大きいと思われる。年代からいえば1952年の彼の4度目の結婚以来、そしてラッセル夫人(Edith Finch:写真は、ラッセル夫妻)の好助手ぶりのおかげで、ラッセルの通信の完全な記録がほとんど確実に残されているのである。この期間(1952年以降)だけでも、一般の人々との間に約2万5千通の手紙の交換がある。ラッセルに手紙を書いたほとんどの人々が彼自身から迅速に返事をもらっている。事実、返事が遅れるようなことがあれば、彼はまったく恐縮してしまい、心から詫びるのである。彼の返事はほとんどのばあい簡潔である――それというのも、半ばは彼の仕事の多忙さによるものであるが、本質的には、手紙の重要なボイントをわずか数行でまとめてしまう他のだれもが対抗できないほどの能力によるのである。ラッセルの長文にわたる手紙というのは、彼の書いたものの中にはほとんど見当たらないくらい稀である。そしてたとえあったとしても、それは、それよりも簡潔な方法ではとうてい扱うことのできないある複雑な数学の問題か哲学の問題についての通信であるばあいがほとんどである。
この本をまとめるに当たっては、彼がもらった手紙のほうはずいぶんと縮めて、ごく簡略なものにした――そして、彼が返事を書くのにどうしても欠かせない要点であると考えたところだけにとどめた。ある意味ではこのような編集の仕方は、文学的な興味や体裁を保つのには、どうしてもそうせざるを得ないやり方ではあるけれども、ラッセルが返事をするときの分析能力を十分に知るのにはいささか妨げになるかもしれない。それで、まず最初に、ラッセルにくるたくさんの、そして長文の手紙のうちの1つを読んで、それから、その手紙のポイントとなる、特に顕著な面をすぐさまえぐりだしてみせるラッセルの返事を読むというのが一つの方法である。
だいたいにおいて、ラッセルの手紙にはすこしも手をつけないでそのまま載せた。ただたまに、ある一部の文章においては、手紙の文頭の形式的な文句の繰り返しをさけるために、その部分だけ削除した。わたくしどもがこの編集に当たってなした分類のしかたは、その内容からみて、まったく決定的な分け方というわけではない。どちらかというと、手紙の中でとり扱われている主要な問題の多種多様性に適した、だいたいの手引きといったところである。わたくしどもは、このような広汎な類別の仕方をすることによって、より正統派的な慣行である年次順の類別法で手紙の分類をするという手間を省いた。そんな手間をかけないで、手紙に盛られたアイディアの内容やら連関性やらを主にして整理したのである。
同様の趣旨で、脚注もほんの少ししかつけていない。脚注で説明を補足するような事柄は、すぐこのあとに続く章の伝記的な叙述(ラッセルの略伝)でわかるようにしてある。