バートランド・ラッセル「意識」
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』
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この文章は、この世に存在するのは物質でも精神でもなく、その中間的なもの、つまりある方向からみれば物的なものに見え、ある方向から見れば心的な物に見えるという、ラッセルの「中立一元論」の考え方をまとめたものです。内容をもっと知りたい方は、勁草書房から The Analysis of Mind, 1921 の日本語訳(ラッセル『心の分析』)が、筑摩書房からちくま学芸文庫の1冊として An Outline of Philosophy, 1927の日本語訳(ラッセル『現代哲学』)が出されていますので、お読みになってください。】
意識は、対象へのある関係と受けとられるにせよ、すべての心的諸現象に行き亘る一つの性質と受けとられるにせよ、ともかくもこの意識こそ心的なものの本質であるとする教説は、ブレンターノが意識の志向性をよりどころとして心理を生理から区別したことがきっかけとなって、前世紀末葉(注:19世紀末)から今日にいたるまで哲学思想の一つの潮流を成している。ブレンターノの影響下にあった初期のラッセル思想もこうした見解をとっているが、やがてその教説に対して批判的となり、『心の分析』(1921年刊)ではこれを真向から否定するようになる。ラッセルはつぎのように語っている。
「ごく最近まで私は彼(=ブレンターノ)がそうしたように、心的現象はおそらく快苦を除けば、対象と本質的な関わりをもつと信じていた。いまではもはや知の場合においてすらこのことを信じない」(The Analysis of Mind, p.15)。さてブレンターノおよびその後継者たち、例えば、オーストリア学派のマイノングや現象学のフッサールが行っている意識分析の特徴は、意識を作用と内容と対象に分けることであるが、ラッセルによれば、まず、作用という概念は虚構にすぎない。思惟の内容の生起そのものが思惟の生起であり、作用に相当するいかなるものも発見しえないからである。そもそも作用という概念の発生源は「われ思う」の「われ」にある。「われ」といえば「われの作用」があるように思われてしまう。その意味では作用は主観の亡霊にすぎないとラッセルはいう。「われ思う」はむしろ「ここに雨が降る(It rains here.)」のように「私において思う(It thinks in me.)」といい直すか、あるいはもっと適切な表現は「私において思惟がある(There is a thought in me.)」である。そしてその思惟の生起が内容の生起に他ならないのである。
さらにラッセルによれば、内容と対象の関係は派生的なものでしかない。それは思惟を構成するものが、共同して対象をつくり上げている他の諸要因(例えば、異なるパースペクティヴで当の対象を見ること、対象を見るだけでなく触れたときの感覚、他人が当の対象を見たり、触れたりしたときの感じ等々)と結びついているという信念にもとづいている。すなわち、私の思惟が向かう方向は他の思惟が向かう方向とあるところ(ここに対象がおかれていることになるが)で交わるであろうという漠然たる信念、そしてまた、その同じ私の思惟の方向はさらに別の思惟の方向とも当の同じところで交わるであろうという漠然たる信念等々、これら多数の信念を私の思惟が伴うとき、私の思惟ははじめから、一つの対象についての思惟であったとされるのであり、当の位置にその対象が存在していたのだ、と考えられるようになる。想像の場合はこの信念が欠けているために対象は成り立たない。そこには対象のない内容だけが存在することになる。
以上のごとく、ラッセルにあっては作用、内容、対象から形成される意識の概念はけっして原初的なそれではない。さらに、経験を意識とその内容という内的二重性によって説明することに対して W. ジェームズが行っている論駁をラッセルは正当なものとして受け容れる。連合の脈絡に応じて同じ経験の一断片が意識となり、客観的内容ともなるという W.ジェームズの根本的経験論が、その経験概念をすら論外に追いやったペリーやエドウィンらの実在論によって尖鋭化されて、ラッセル自身の中性一元論が培われることになる。その後『哲学概論』(An Outline of Philosophy, 1927)においては次のように論ぜられている。
外的対象は心的でなく、それへの関係だけが心的つまり意識であるという常識的見解はさまざまな困難をまねく。たとえば物理的対象そのものはけっして知覚の対象と同一ではないということ、テーブルという外的対象がなくとも、私はテーブルを見ることができるという事実によって,当の見解を否定することができる。だから元来心的事象なるものはもともと関係ではない。もしそれが関係というならば、当の関係項である対象も心的とならざるをえない。とすれば、対象を関係そのものから区別する理由はなく、関係そのものが崩れる。なるほど対象の触覚による感触の期待や対象の把持的効果などを考慮に入れなければならないが、こういったものとて、対象との間に、たがいに本質的に異なりながら、一方が他方を論理的に要請するという関係を形成しえず、対象ともども心的という点で同じレベルのものと考えざるをえなくなる。しかし、そうであるにしても、心的という点で独自のものがそこにあるのかといえば、ラッセルにあっては、われわれをしてある種の事象を心的とよばせ、それを他の事象から区別せしめているものは感性と連合的再生との結びつきにほかならない。この結びつきがより顕著であればあるほど、結びつけられている当の事象はより多く心的である。だからして心性なるものは程度の差でしかないという。以上のことから、結局ラッセルにとって、意識は特別な類いの関係でもないし、ある事象にだけ属していて他の事象には属してないような固有な性質でもないということになる。(遠藤)