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バートランド・ラッセル「日常の用法」崇拝(の批判) n.1 (松下彰良・訳) - The cult of "common usage" (1953)

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ラッセルの言葉366
 現在(注:1953年当時),英国で最も影響力を持っている哲学の学派は,私の同意できないような言語説(学説)を主張している。(注:言語分析のみが哲学の課題であるとし,哲学の問題とされているものはほとんどが間違った言語使用からきたものであるとする主張で当時の英国哲学を支配していた立場。この立場は,日常言語学派あるいはオックスフォード学派と呼ばれており,代表者はライル,オーステイン,ストローソンなど。)私はこの学派の学説(主張)を誤り伝えることを望まない。しかし,いかなる学派のいかなる反対者(異議を唱える者)も、その学派を支持する者からは、その学派の学説(主張)を誤り伝えていると考えられるであろう。その学説は,私の理解しているところでは,通常の意味(日常語としての意味)で使われる言葉を持った日常言語は,哲学にとって十分であり、専門語や日常語の意味の変化は(哲学においても)必要ない、というものである。私自身は,この見解をまったく受け容れることができない。私は,以下の理由によって,この学派(の主張)に反対する。
(1) それは(その学説は),不真面目だから。

(2) それは,古典的教養しかもたない者が数学,物理学,神経病学に関する(自らの)無知の言い訳を可能にするものだから

(3) それは,その学説に反対することがあたかも民主主義に対する犯罪であるかのように(注:哲学にまったく知識がない一般市民でもわかる言葉を使わないのは非民主主義者であるかのごとく)、お世辞たらたらの正直さを装った者によって,発展されているから。

(4) それは,哲学をとるに足らないつまらないものにするから。

(5) それは,哲学者たちの間に,常識からとってきた間抜けさ(混乱した頭)をほとんど不可避的に永続化させるものだから。

The most influential school of philosophy in Britain at the present day maintains a certain linguistic doctrine to which I am unable to subscribe. I do not wish to misrepresent this school, but I suppose any opponent of any doctrine is thought to misrepresent it by those who hold it. The doctrine, as I understand it, consists in maintaining that the language of daily life, with words used in their ordinary meanings, suffices for philosophy, which has no need of technical terms or of changes in the signification of common terms. I find myself totally unable to accept this view. I object to it:

(1) Because it is insincere;

(2) Because it is capable of excusing ignorance of mathematics, physics, and neurology in those who have had only a classical education;

(3) Because it is advanced by some in a tone of unctuous rectitude, as if opposition to it were a sin against democracy;

(4) Because it makes philosophy trivial;

(5) Because it makes almost inevitable the perpetuation among philosophers of the muddle-headedness they have taken over from common sense.

(掲載日:2015.02.14/更新日:)