バートランド・ラッセルのポータルサイト
HOME (Top)


ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

シェアする

 ChatGPT や Google Gemini の有能さにはビックリします。両者とも成長途中であり、現在欠点である点も改良され続けるでしょうから、短絡的な評価は禁物です。私が使っているのは「無料版」です。「有料版」であればもっとよい反応があるのでしょうが、「無料版」でも十分役に立ちます。今後、遊びながらいろいろ試してみることにします。
 しばらくの間、有名なエッセイストである東海林さだおの本を「出汁」に使うことにします。
【落語の小言幸兵衛さんは、「何か叱ることはないか」と、朝から叱ることを探して長屋中を見回ったりする。
 老人の胸の内には、不平や不満やわだかまりが渦巻いて常に満タンになっている。
 ガス湯沸かし器の種火がいつもついているようなもので、ちょっとしたきっかけさえあればただちにボッと沸騰する。
 だがこういうふうに、人間を相手に叱っているうちはまだ症状が軽い。
 (出典:東海林さだお『85歳。老いてなお、ケシカランことばかり』p.9
私:ChatGPTへの依頼
 上記の文章について、800字くらいで、面白いコメントを生成してみてください。

ChatGPTからの回答:


あるいは
アマゾンで購入
 東海林さだおの一節は、ユーモアと洞察を交えて、老人特有の「不平不満スイッチ」に焦点を当てています。この描写には、年を重ねる中で人間が抱える心理的な傾向が鋭く表現されており、笑いと共感を誘います。特に、「ガス湯沸かし器の種火」という比喩は秀逸です。種火が常についているという状態は、不平や不満が常に心の片隅で燃え続け、些細な出来事がその火を燃え上がらせるきっかけになる様子を見事に捉えています。このような具体的で日常的なイメージを用いることで、読者は「ああ、いるいる、こういう人!」と共感せずにはいられないでしょう。
 また、「叱っているうちはまだ症状が軽い」という一文はさらに興味深いです。「叱る」という行動は、相手への関心や期待の裏返しであり、ある種のコミュニケーションでもあります。しかし、ここで示唆されているのは、人間を相手に不満をぶつけることすらなくなり、自分の内側にその不満が凝り固まる状態の方が深刻だということです。こうなると、不平不満は他者とのやり取りを通じて発散されることなく、本人を内側から侵食する負のエネルギーとなりかねません。
 この文章が面白いのは、単なる老人批判にとどまらず、人間の普遍的な心理をユーモラスに描き出している点です。老いに伴う孤独感や疎外感、不満が蓄積する原因を考えると、それは決して老齢に限ったものではありません。現代社会では、若い世代でもSNSや職場環境で不平不満を募らせることが多く、種火を抱えた「ガス湯沸かし器」のような状態に陥る人も少なくないでしょう。
 さらに、落語の「小言幸兵衛」というキャラクターを引用している点にも注目したいです。小言幸兵衛は、本来笑いを提供する存在ですが、その裏には、長屋という共同体での人間関係の濃密さや、そこに生じる摩擦が描かれています。この引用を通して、東海林氏は、長屋と現代社会を重ね合わせているようにも感じられます。つまり、不満の種火は、孤立や疎外感によって育まれるのではなく、むしろ人間関係が密接であればあるほど燃えやすくなるのかもしれません。
 結局のところ、この文章は、「不満を抱えること」そのものを否定しているわけではなく、それが人間らしさの一部であることを認めています。同時に、それを笑い飛ばす視点を提供している点で、どこか救いが感じられるのです。


私:
 内容は申し分ないですが、東海林さだおが自分の文章にコメントしているような、「軽妙な感じ」をだせないでしょうか? つまり、批評自体がエッセイ作品にもなるようなものはできませんか?

ChatGPT:
 了解しました!それでは、東海林さだおさん自身が自作にコメントしているような、軽妙洒脱なエッセイ風の批評を試みますね。


 いやはや、自分の書いた文章をこうして眺めてみると、あらためて「老人の不満は種火のごとし」というのはなかなか絶妙な表現だったな、とちょっと鼻が高い。だってどうです? 不満なんて、そんじょそこらのガス湯沸かし器よりよっぽどエコじゃないか。年をとって「ボッ」とくる回数が増えると、そのたびに「ああ、自分はまだ熱くなれるんだ」と変な感慨が湧いてくるわけです。まあ、叱られる方はたまったもんじゃないでしょうけどね。

あるいは
アマゾンで購入
 でもね、ここで僕が本当に言いたかったのは、「叱ってるうちはまだ軽症」ってとこなんですよ。叱るっていうのは、相手に興味がある証拠なんです。たとえば電車で前の若者が脚を広げて座ってるのを見たとき、文句を言いたくなる人はまだ大丈夫。問題は、それを見ても「どうでもいいや」と思い始めたら、そのときこそ危険信号。人間、叱る気力をなくしたら、ただの冷めた湯沸かし器になっちゃいますからね。
 でもまあ、「叱る」ってのもほどほどがいい。毎日怒鳴り散らしてばかりだと、ガス湯沸かし器の中のガスが尽きる。で、次第にターゲットが変わるんですよね。家族 → 隣人 → 世の中全般 → 挙げ句の果てに自分の人生そのものに。こうなると笑い話にもなりません。だから、せめて僕たちは「叱るポイント」を減らしていきましょうよ。たとえば、床に落ちた髪の毛を見て「年取ったなあ」と嘆く代わりに、「あれ、まだこれだけ生えてるじゃないか」と前向きに考える、とかね。
 とはいえ、僕だって不平不満の種火を抱えてないわけじゃない。原稿を書くたび、「締め切りなんてものがなければなあ」と湯沸かし器がボッと火を噴くこともある。でも、そうやって湧き出てきた不満も、書き上げた瞬間に「ああ、湯が沸いたぞ!」と少し嬉しくなるから面白いもんです。不満の種火があるからこそ、人間は湯を沸かせるわけで、もしかしたらそれが人生の「醍醐味」ってやつなのかもしれませんね。
 さあ、あなたも湯沸かし器を眺めつつ、自分の種火と上手に付き合ってみてください。燃えすぎたら困るけど、消えちゃったらもっと寂しいですからね。


私:
 非常によくなったと思います。東海林さだおはもう85歳ですが、東海林さだお専用生成AIができれば、永遠に東海林さだおの作品(エッセイ集)を出し続けることができるかもしれないですね。そうしたら、東海林さだおさんの遺族が著作権を得ることになるのでしょうか? それとも私(ChatGPT)が創作しているのだから、私を創った開発者に著作権がある!ということになるのでしょうか?

ChatGPT:
 これは非常に興味深い、そして法的・倫理的に複雑な問題ですね!まず、「東海林さだお専用生成AI」がどのように機能するかによって、著作権の所在が変わってきます。


1. 東海林さだおさんの遺族が著作権を得る場合
 もしそのAIが東海林さだおさんの既存の作品をベースにして、彼の文体や発想を学習したモデルであれば、それは「東海林さだおさんの表現スタイル」を活用していることになります。この場合、AIが生成した文章が「東海林さだおさんの作品の派生物」とみなされる可能性が高いです。したがって、著作権は東海林さだおさん(またはその遺族)に帰属する可能性があります。

2. 開発者に著作権が帰属する場合
 一方で、AIの生成物が完全に新しいものであり、特定の個人の作品に基づかないと解釈される場合、著作権はAIを設計した開発者、またはその企業に帰属する可能性があります。ただし、現在の多くの法律ではAI自身には著作権を主張する権利がないため、生成された文章に対する権利は開発者側が持つとされます。

3. 曖昧な状況と法的なグレーゾーン
 しかし、ここでの大きな問題は、AIが「特定の個人の作風を模倣する」という点にあります。これは、単なる模倣であれば著作権の侵害にはならない場合もありますが、模倣の精度が高すぎる場合や、あまりに「本人らしい」表現が生成される場合、倫理的・法的に議論を呼ぶでしょう。

4. AIと創作の未来
 仮に「東海林さだお専用生成AI」が普及し、そのエッセイが「永遠に新作」として出続けた場合、それは東海林さだおさんのファンにとって夢のような話でもあります。しかし、これが「オリジナル作品と同じ価値を持つかどうか」という問題も浮かびます。ファンは「本人の生身の思考」が宿った作品を求めている場合も多いですからね。

5. 哲学的視点から
 最後に、東海林さだおさんのような作家の「魂」とは、文体だけではなく、経験や感情、人生の一部そのものと言えるかもしれません。AIがいくらその文体を真似ても、それが「本人の作品」とみなされるかどうかは、読者が「何を真実の創作と考えるか」に依存します。 どちらにしても、AIが生み出す作品の権利や価値は、今後の社会的な議論によって形成されていくことでしょう。東海林さだおさんがこの話を聞いたら、「ほほう、これまたケシカラン話じゃないか」と湯沸かし器の種火を点けながら、興味津々で茶化してくれそうですね!