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湯川秀樹「バートランド・ラッセルと世界平和」(ラッセル生誕百周年記念講演要旨)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第22号(1973年9月)pp.2-3.



ラッセル協会会報_第22号
 ラッセルは一生の間に、いろいろなことをしてきた超人的な人間でありました。私は科学者でありますが、若い頃からラッセルに興味をもっていて、私自身哲学的青年でありました。中学生の頃でしたか、ラッセルが日本にきまして、当時日本の印象がとても悪く、すぐに日本を離れていかれましたが、その当時からラッセルは非常に有名でありまして、日本でもよく知られていました。わたくしが中学三年か四年生の頃、アインシュタインが京都を訪れ、講演をされました。当時はまだ残念ながら「相対性原理」というものを理解できませんでしたけれども、アインシュタインもまた非常に有名な科学者でありました。ラッセルもアインシュタインも、学者として、また思想家として非常に立派な人でありますが、二人とも社会的通念を破った人であるという見方ができます。
 学者とは何か。それは真理を探求する者をいうのでありますが、学者というものは、それをしていればよいのであって、事実私もそうでありました。それが、私のような物理学をしているものにとっても、それだけではいけない-ただ真理のために真理を探求するのみではいけないということになってきました。昔は象牙の塔といわれ、そこにたてこもって学問をしていたらそれが最も人類に貢献する道であるということを疑わないのでありました。又私自身もそうでありました。それは学者にとって非常に幸福な時代であったと思います-人文科学の人たちはこれとは違った見方をしていたかもしれませんが。ニュートンといえばわれわれ科学者の模範でありますが、彼は一人書斎にとじこもって浮世離れしていました。ところが今日では、原子爆弾が出現し、ヒロシマ、ナガサキに投下されたことは、私自身にとって、又物理学者として、最も深刻に、かつ複雑な気持ちにならざるを得なかったことであります。その時から、科学者とはいかに生きるべきかということについて考えたのであります。そうして、私達の先輩たちはどう生きたかということを考えたのであります。
 アインシュタインという人は、その中で唯一のちがった生き方をした人だということがわかりました。アインシュタインは、第一次大戦の時、ドイツにおりまして、戦争に反対した人です。当時は、ドイツのナショナリズムが強大な時でしたから、そういう反戦的な考え方に賛成する人はいなかったのであります。その時代からして、アインシュタインは徹底した平和主義者であったのです。私は、当時から尊い物理学者として尊敬しておりましたが、そうした他とは異った生き方をしていることに対して、非常な励ましを感じてもおりました。しかしそのうちに、科学者以外にも広く、哲学者、文学者の中には、はやくから徹底した平和をうったえていた者があったことがわかってきました。ラッセルも、第一次大戦中から、平和をうったえて牢屋に入れられた経験のある人であることがわかりました。そういう入は非常に少ない。しかし、私たち学者というものの生き方がだんだん変っていかねばならないというように考えるようになりました。
 その頃、原子爆弾が出現し、やがて水素爆弾の出現をみると、人類の存続が危いのではないか、と思うにいたりました。ラッセル、アインシュタインらは、いずれも世界連邦主義者でありまして、人類の存続について議論しておりました。いろいろな意味で、この二人は、学者全体からみると少数者の中に入る人達で、変わった人だと思われていました。なるほど、それまでのアカデミズムと比べれば変っていたかもしれませんが、しかし、私達は変らなければならないんだと私も思うようになりました。

岩松繁俊『20世紀の良心-バートランド・ラッセルの思想と行動』の表紙画像  一九五四年三月、ビキニの核実験によって第五福竜丸が死の灰をあび、一人が死ぬという思いがけない事件が起こりました。雨の中にも放射能が含まれ、マグロにも放射能汚染が進行しました。しかし、実際のところ、どこまでが危険なのか、よくわからないでいました。今思いかえしますと、今日の公害間題と非常によく似ています。ごく微量でも、人間にとって非常に危険であるということと、それから、どのくらいの量が危険なのかよくわかっていないという点においてであります。一九世紀の終りに、放射能が、キューリ夫妻らによって発見されましたが、そういう人たちの中には、のちに、放射能のためにガンで死んだ人が多いのであります。しかし当時は、放射能が人体にどういう影響があるのかわからなかった時代でしたので、そういうことが契機となり、さらにまた核兵器が人類の存続を危ういものにするという認識から、一九五五年に、ラッセルはアインシュタインと相談して、何とか人類を破滅からすくおうと、声明を発表したのであります。それが有名な、ラッセル=アインシュタイン宣言であります。その頃になると、世界中の心ある学者が、人類を破滅から救うために何かしなくてはいけないという考え方に立ってきました。ノーベル賞受賞の科学者、物理学者五〇数名が、私を含めて真剣にこの問題について考えたのでありますが、ラッセル=アインシュタイン宣言は、さらに一歩進めて、戦争をやめなくてはいけないんだという考え方を主張したのであります。核兵器が今日のように出現して、人類が危機に直面している時には、戦争というものを否定する考え方が正しいと思われたのであります。
 ラッセルは日本国憲法(平和憲法)を聞いて、戦争放棄をうたっていること、そしてそれを保持していることを、世界平和の先駆者であり、世界連邦への一里塚であり、平和への日本の役割が大であると述べられたということを日高氏より聞きました。
 先程、ラッセルは自由人であるというお話がありましたが、ラッセルは、一人一人の自由こそ、この上なく大切なものであるとの考えで、自由に振る舞ってきた人であります。これは徹底した個人主義でもあり、合理主義者でもあるわけです。またラッセルは一種の相対主義者であるということでもあります。非常に徹底した相対主義者で、「私はキリスト教徒ではない」「私は無神論者である」とくり返し言っているのですが、これは絶対的なものを認めないということからきているのでしょう。私は、ラッセルのこういう点に共鳴するのであります。私は若い頃に老子・荘子にひかれ、後まで影響されるのですが、荘子という人は、「万物正道」ということを言っております。人間の中にはいろいろな人がいる-しかし、めいめいがそれぞれの生き方をしているのであって、価値には違いがない-相対主義の考え方は、あらゆる束縛から自由である、つまり自由人であるという考え方であります。ラッセル自身が老荘思想をどれくらい知っていたかはわかりませんが、ラッセルの考え方はそれに非常にちかいのであります。ラッセルは、「人類の存続」ということに重点をおいておりますが、老荘思想は、死ということに対して非常にあっさりしております。地球というものは、その上にわれわれをのせて、忙しく働かせてくれている。そしてわれわれはやがて年をとってくる。そして死ぬ。死ぬということは、本当にやすませてくれるということである。生きる(生きつづける)ということもよいことだが、老荘思想では死ぬということもよいことだ……ということであります。これもまた魅力のある考え方であります。非常につきはなした考え方であります。荘子の頃には、人類の存続など考えなくてもよい時代ですから、問題にしなくてもよかったのです。私も今日では、老荘思想だけではいけないと思います。この世は誰にとっても万事都合のよいようにはなっていない。この世の中は、合理的に、つきはなして見ると、そうであります。ラッセルは「だから、どうするのだ」というのであります。私自身はそう簡単に死生を超越できないのであります。ラッセルもまたそうであったようです。百年近くも生きたわけですから、生に対して非常な執着をもっていたことでしよう。何度も大きな病気をし、医者に、みはなされても、立ちなおって生きつづけたことは、驚くべき生命力であるといってよいでしょう。
 ラッセルは、無神論者であり、人間同士の結びつきを、人間愛にもとめ、それ以上の神の存在を除外していた。アインシュタインは、キリスト教徒でも、ユダヤ教徒でもないけれども、宇宙の力、大自然の力-そこに何か神秘的な、また、宗教的なものを感じるのであります。そこに、二人の間に微妙な差があります。そういう違いはあれ、二人とも互いに尊敬しあっていたのであります。人間は、普通、年をとるにつれて円熟し、あまり仕事をしなくなるのですが、ラッセルは、晩年になるにしたがってますます精力的な活動をしています。これは模範でありますが、私には真似のできないことであります。しかし私は、くじけた時、ラッセル、アインシュタインのことを思いだしてみると、勇気づけられるのであります。(当時、京都大学名誉教授)

湯川秀樹の戦争と平和 ノーベル賞科学者が遺した希望 (岩波ブックレット 1029) [ 小沼 通二 ]