![]() ラッセル協会会報_第2号 |
「横関さんでしょう。…ラッセル先生,承知してくれましたよ。」と流暢な日本語で私の耳もとで気ぜわしくささやき,呆っ気にとられている私の手からカバンをもぎ取るようにして,
「さあ,こっちへ来て下さい。新聞記者に見付かるとまずいんです。」とプラットフォームを駆け出して駅の裏口へ走って行った。北京の地理は私も少しは心得ているが,外人は北京駅プラットフォームから最短距離にある公使館区域の出入り口から出入りするのが普通で,わざわざ遠回りになる裏口ヘ出ることは無いはずだ。この男ごまの蝿でもあるまいが,とにかくけったいな人物だと,内心不安に思いながらもその後について行った。駅を出ると二台のヤンチョが待っていた。青年はそこでやっと周囲を見回して安心した表情になり
「どうも…驚いたでしょう。僕は「申報」の主筆陳溥賢です。蒋先生の代理でお迎に来たんです。実はラッセル先生の宿舎は秘密にしてあるんです。そこへあなたが来るというので,内外の新聞記者が,あなたをつかまえればその宿がわかると思うので,きのうから前面駅に張り込んでいるんです。」二人ははっはと笑いこけながらヤンチョに飛び乗った。
「やれやれそうですか。私はまたごまの蝿かと思いましたよ。」
| |
これをアマゾンで購入 |
「私も格別日本政府の意向を確かめて来たのではないから,その辺は何ともお答えし兼ねるが,しかしそんな事を心配しておっては,この計画はお願い出来なかったでしょう。日本に「当たって砕けろ」という諺があります。何事でも突き当たってみると案外開ける道があるものだという意味です。」と,私が言うと,通訳に当たってくれた蒋,陳両氏は,軽い笑いを浮かべながら丹念にその意味を通じてくれた。了解出来たらしい教授は,これもまた気軽そうな表情になり
「わかりました。日本に行きましょう。来年北京大学の講演がすみ次第・・・」と,快く承諾された。
「そうか,なかなか気むずかしい人物だと聞いている。もしも言葉の行き違いでもあるといかんから,大使館から通訳を出してあげる。」と言うのだ。私もいささか驚いて,
「いやいや,とんでもない。相手の人物が人物だから,後日,日本政府からあなたが叱られては大変だ。ひょっとすると上陸も出来ないかも知れないと思うので・・・・」と私が固く辞退すると,大使は軽く受け流して,
「遠慮は無用だ。」とその長身を乗り出すようにして,
「なるほどあの人は自由主義者で非戦論者かも知れない。しかしれっきとした英国の紳士であり純粋の学者ではないか,もし日本の軍部などが上陸禁止をしたら一体日英国交の上にどんな影響があると思う,僕にも考えがある。安心して教授の招待に努力しろ…・・・。」と,激励してくれたのだった。
「ラッセルは英国の学究だよ。地位もあり学識もある。そんな人に対して上陸禁止など犯罪人同様な失礼なことは出来まいよ。」と相手にしなかった。後年私が外務省に勤務した時,情報部長の小村欣一侯から,
「実は小幡さんから当時外務省に対して,不祥事にならぬようにとの要望書が届いていた」ということを聞かされた。
京都で講演会をやるはずだったが,警察への届け出が時間切れとやらで中止になった。実は間違いを起こして責任を取らされるのが面倒だったので,署長がうまく逃げたものらしいと伝えられた。そこでやむなく都ホテルにおける学者二十七人との懇談会となったのだが,私服が廊下にうろついていたことは確かである。その時の西田幾太郎先生の印象記(「改造」1921年9月号/以下同様)によると,
ラッセル著書解題
「・・・。ラッスル(まま)といふ人は,社会改造を唱える人であるから,街頭に立つ志士風なところもある人かと思つてゐたが,おちついた学者風の人で,何だかプリンチピヤ・マテマチカが氏の本質らしく思はれた。…・・・」
土田杏村氏(京大教授)
「・・・応接室(都ホテル)の前にシガーをくゆらしながら,ビッコをひいて歩いてくる白服姿が見えた・・・氏は見るからに哲人らしいしょうしゃな姿をしている。社会評論家としてみても,情熱の力をもって民衆を煽動するといふ側の人ではない。ただすべての慣習や権威に誤魔化されないで,自己の学的良心の命ずるままに正義と自由の声をあげるといふ人物だ。氏を危険人物だといふものは,自分等の不公平な慣習や権威に執着しすぎて居る人だ。・・・」(松下注:土田杏村は京大哲学科卒だが,京大教授にはなっていない。横関氏の勘違いと思われる。)
桑木厳翼氏(帝大教授)(KUWAKI, Genyoku, 1874-1946:京大教授を経て東大教授となる。)
「・・・'なんとなく尖った人だ' これが帝国ホテルの客室ではじめて面接したときの印象である。かねて新聞ではあきるほど写真を見たが,黒白の陰影のみでその紅みを帯びた顔容もわからず,またその学者芸術家に共通なつつましやかな態度も想像せられない。顎も鼻も尖った三角形でいかにも神経質らしいが,太い直線の眉は英国紳士の毅然たる風格をしのばせるものがある。・・・」
大杉栄氏
「・・・。写真で見た通りの顔ですね。頬というよりはむしろ,口の両角のすぐ上のあたりが,神経質らしく妙にやせている。病後のせいもあろう・・・十数人かの写真屋がかわるがわるポンポンやるので,氏は例の口の両角の上に濃いクマを見せて「たまりませんな」というような意味のことを,ポンポンのたびに目をつぶって言っていました。そして「いくら吾々がアナキストだって,こんな爆弾のお見舞を受けちゃアね・・・」などとふざけながらニガ笑ひしていました。あの人は笑ふときっとそれがニガ笑いになってしまうのですね。・・・」
「さしもの広き大講堂も定刻前から満員となった。かくの如きことは尾崎,犬養の憲政擁護大講演会にも,ほとんど比較にならぬことで,聴衆もまた比較にならぬ粒選りで…・・・」などしるされている。
「慶応義塾の講演会はいつもより取り締まり方針が寛大だったのではないか。」と聞くと,宇野は妙に含みのある笑みを浮かべて,
「臨席の検閲官にはラッセルの学説が余りに深遠で,わからなかったんじゃないかなあ。取り締まり官に十分理解出来ないような学説は,一般の人たちにはなおわかるまいから,実害は伴わないと考えていいと思うね。一般社会に実害を及ぼさないものまで取り締まるほど我々も野暮天じゃないよ。」宇野の言葉には含蓄があった。私もなるほどねと相槌を打ったものであった,
「・・・彼が横浜埠頭に上った時,新聞記者連中が一斉にレンズを向けてマグネシュムをたいた。由来マグネシユムのきらいな彼は,これを止めようと試みた。しかし記者連は一切関係なくドシドシたいた。ためにラッセルとその一行ブラック嬢とパワー嬢は白煙のために苦しいように見えた。ここにおいて彼は性来の短気が爆発して,彼の所持するステッキで写真球を散乱せしめんとした・・・人がいやがるものを無理やりにレンズに入れることはあまりいいことではない・・・・・・ラッセルは横浜ホテル(注:横浜グランド・ホテル)に入り,かくのごとき無礼の新聞記者の存在するからは,東京へは行かない。横浜からすぐ帰国すると頑張ったという・・・さすが英国の由緒正しい貴族の仲間に発育していただけに,ずいぶん思いきりよりよいことではあるまいか・・・」(注:この時ドラ・ブラックは妊娠しており,ラッセルの怒りは彼女を気遣ってのこと)こんな次第だったので,私たちは教授をなだめるのに大変な苦労をした。ところで,ラッセル教授が日本の新聞記者に余り好い惑じを持っていなかったことには,また別に理由もあったことだ。と言うのは,日本の新聞は一九二一年まだ教授が北京大学の講壇に立っていた二月頃でもあったろうか,大阪毎日新聞上海特電としてラッセル病気のため北京において客死す」という報道が大々的に報ぜられて,関係者をして愕然たらしめた。 私は直ちに大阪毎日新聞北京支局長の友人,波多野乾一に打電して事の真相を確かめようとした。折り返しての返電は![]()
「自分は知らぬ。ラッセルは健在で大学の講壇で講義をしている。現に今自分はこの目で見て来た。」
・愛国心の功過 | 1921年1月号 |
・ロシア過激派の前途 | 2月号 |
・現下混沌状態の諸原因 | 3月号 |
・社会組織良否の分岐点 | 4月号 |
・工業主義の内面的*傾向 *正しくは「内在的」 | 8月号 |
・工業主義と私有財産 | 9月号 |
・工業主義と国家主義の相互作用 | 10月号 |
・ワシントン会議と極東の将来 | 1922年3月号 |
・支那の国際的地位を論ず | 4月号 |
・未開国における社会主義 | 5月号 |
・先進国における社会主義 | 7月号 |
・支那の文明と西洋 | 8月号 |
・相対性理論 | 10月号 |
・機械主義に対する抗議 | 1923年2月号 |
・道徳的標準と社会的幸福 | 9月号 |