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弥永昌吉「ラッセルと幾何学基礎論」

みすず書房版「ラッセル著作集・月報」より(第10配本付録)

*(故)弥永昌吉氏(いやなが・しょうきち:1906~2006年6月1日):1929年に東京帝國大学数学科卒。1942年-1967年まで東大理学部教授。専門は整数論。ベトナム反戦運動や核廃棄廃絶運動など平和運動にも関与、老衰のため2006年6月1日に100歳で死去。このエッセイ執筆当時、弥永氏は、東大教授。



 バートランド・ラッセルが、若いころ興味をもった分野の一つに幾何学基礎論があった。1897年(ラッセル25歳の時)に、かれは、リーマンの有名な論文「幾何学の基礎をなす仮説について」(1854)を批判する文章を著わし、1902年版のブリタニカの百科全書には、「幾何学」の補遺項目として、その文章の意味を含めた長文の寄稿を寄せている。このことは、あまり知られていないと思うので、ここに紹介するのも、一興かと思う。(ちなみに、新版(1957年版)のブリタニカの「幾何学」の項の末尾にも、ラッセルの書いたその文章の一部が残されているが、かれの名は執筆者リストからは消え去っている。また、そこにはリーマンを批判した部分などは除かれ、全体の長さも、もとの長さの五分の一以下になっている。もとの補遺項目は、相当に長いので、そのまま訳せば、何十枚かになるであろう。それはかなり専門的でもあるので、ここには、ごくかいつまんだ紹介をするにとどめる。)
 この補遺項目は非ユークリッド幾何学に関するものであるが、かれはまず、非ユークリッド幾何学を「狭義には、ユークリッドの仮定したことのいくつかを否定して得られる体系、広義には、そのいくつかが成り立っても、成り立たなくてもよいとして得られる体系」であるとし、その「いくつか」が特に平行線の公理であることを指定していない。しかし「それについて論ずるにはまず幾何学の歴史を見なおさなければならぬ」とし、結局本文で扱っているのは、平行線の公理の問題、すなわちいわゆる非ユークリッド幾何学の間題にほかならない
 歴史の記述は、1621年のサー・ヘンリー・サヴィル(ケンブリッジの教授で今日でも、かれの後に続く教授は Savilian professer と呼ばれている)の「幾何学の美しい体系に2つの汚点がある。…」
というラテン語の引用文ではじまっている。その2つの汚点とは、平行線の理論と比例論とである。「近世の学者は、これらの『汚点』について深く研究したが、その結果、ユークリッドは、はじめ信ぜられたほど批難さるべきではないことがわかった。その平行線の理論を改良しようとする努力から非ユークリッド幾何学が生まれた」とする。ついでサッケーリ、ガウス、ロバチェフスキー、ボリァイ、リーマン、と、非ユークリッド幾何学の歴史を追ってゆく。
 ガウスは、「平行線の公理が誤りではないかと考えた、恐らく史上最初の学者であった」とし、しかし「かれの業績は数学的というよりはむしろ哲学的であった」とする。リーマンの論文は、原文に従ってかなり詳しく紹介した後、次のような批判を加える。
「この深い論文は、少くとも次の1点において批判の余地があるようである。それは座標の導入についてである。座標が前からあるものとし、循環論法に陥らないで、距離を論ずることができるのならば、距離が前にあるものとして座標を導入すべきではないのはもちろんである。そうとすれば、座標をいかにして導入すべきかという問題が残る。この問題には、射影的見地をとれば容易に答えられるが、リーマンの見地からは答えられない。なお、座標が空間のなんらかの大きさを表わすとすれば、すべての場所における同じ量なるものがあることを仮定しなければならない。そのときは、空間の曲率は一定でなければならないこととなる。もしそうでないとすれば、幾何学は地理学と同様にそれぞれの場所の性質を論ずるだけで、一般的な定理はでき得ないこととなろう。・・・」
 かれの歴史的記述は、なおヘルムホルツ、ベルトラミ、ケーレー、クラインと続いて、結局は、射影幾何学の体系に、双曲線的、楕円的非ユークリッド幾何学ならびにユークリッド幾何学を従属させるケーレー・クラインの立場に到達して、それを最終的のものとする。
 最後に「非ユークリッド幾何学の哲学的価値」として、つぎの2点を挙げている。
「その1は、異なる公理体系を明確にわけ、それによって、幾何学の結果を論理的に分析したことである。われわれは、幾何学のある仮定から導かれる部分と、それとは独立な部分とをはっきりと区別し、射影幾何学からだんだんと特殊化してユークリッド幾何学に達する一連のヒエラルキーが作られることを見た。かくして、古代よりルジャンドルにいたる大数学者たちの、ユークリッドの他の公理から平行線の公理を導こうとした試みは、全く無益であったことが示された。・・・。
 非ユークリッド幾何学が明らかにした第2の点は、もっと哲学的なものである。すなわちわれわれは種々の幾何学がいずれも現象空間の主観にたよらず、論理のみによって構成されることを見た。これらの幾何学は、どれもそれ自身、われわれの現象空間の性質を明らかにするものではないのである。従って幾何学は純粋数学となり、他方現象空間の研究は、実在する物に関する他の実験科学と同様の学問となる。幾何学と現象空間の研究は全く分離され、幾何学は現象空間についてのなんらの知識をも与えないことになる。それはたとえば、算術によってイギリスの人口が知られないのと同様である。かくて純粋に論理的あるいは先験的な推論によって、実在する物に関する結論を得ようと試みる人たちの最後の牙城は、非ユークリッド幾何学の示唆する攻撃によって打破されることとなる。その示唆する結論は、実在しない物に関する命題から、実在する物に関する命題は導かれないということである。ただし、この結論を証明するためには、哲学のすべての部門についての考察を必要とするであろう。」
 以上、引用符をつけて引用した部分は、いずれも、新版のブリタニカには削られている部分であるが、これらの記述はいかにもラッセルらしくておもしろい。もっとも、その後の幾何学の進歩も考えれば、これらのうちのある部分が削られたのは当然とも考えられる。たとえば、リーマンの批判の部分は、今日から見れば、ラッセルの方の見透しがよくなかったといわねばなるまい。アインシュタインの相対性理論と関連して、リーマン幾何学の研究が急速に進んだのは、1920年代であった。20世紀の初めごろには「幾何学が純粋数学になった」とはいっても、「空間」は現象空間のある属性を具えていなければならないという固定観念を、ラッセル(当時25歳)のような哲学者すらまだ持っていたのである。このような点では、リーマンのほうが、もっと考えが深く、もっと見透しがよかったといわなければならない。
 なお項目の最初に非ユークリッド幾何学の定義として、ユークリッドの仮定の「いくつか」(one or more)を問題とし、平行線の公理に問題を限定していないのは、論理学者ラッセルにとっては当然のことながら、よい着想である。しかし、結局本文で問題としているのは、平行線の公理だけであるのは、この項目の性質上しかたないことかもしれないが、ラッセルが歴史や伝統に圧されてしまって、せっかくの論理的な着想を発展させなかったのは、遺憾であったとも思われる。これと同様の論理的な着想を徹底的に追及して完成したのは、ヒルベルトであった。ヒルベルトの幾何学基礎論は1899年(ラッセル27歳)に初版が出ているが、ラッセルは見ていなかったらしく、この項目には全くそれに触れていない。(新版のブリタニカの「幾何学」の項目の文献にもこれを挙げていないのは、ブリタニ力の欠点と思われる。)
 しかし、最後の「哲学的価値」に関するラッセルの結論は、(これも新版では削られているが)今日読んでも(かれの哲学的立場を認めれば)大体において正鵠を得たもので、かれ一流のユーモアを交え、よく書かれていると思う。ラッセルはガウスの非ユークリッド幾何学についての業績を「数学的というよりはむしろ哲学的」と評したが、かれ自身「数学者というよりむしろ哲学者」であることを本領とすることを認めねばならない。もちろん哲学者としては、考え方がひじょうに「数学者的」な哲学者ではあるが。(上の引用文の翻訳は、抄訳かつ意訳であることをお断りする。)(東京大学教授) の画像