ラッセルは28歳の時に『ライプニッツの哲学』(A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz, 1900)を書き、31歳の時に『数学の原理』(The Principles of Mathematics)を書き、38歳から41歳にかけて『プリンシピア・マセマティカ』(Principia Mathematica:プリンキピア・マテマティカ)全3巻を完成した。学問を技術としてとらえるならば、ラッセルの仕事は、この時までのものがもっとも重要なものだ。しかし、ラッセルは、それからさらに60年ちかく生きた。
ラッセル自身は、学問を主として技術として考える見方を、終わりまで保っていた。この見方からすれば、1910年代以降の自分の学問的著作は、いくらか低いものと考えられただろう。しかし、彼は、中年にはいってからも、自分よりも先に進んでいる若い人たちの技術から学ぶことをやめなかった。自分の講義をきいていたウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を書いて論理学的懐疑主義をおこした時に大いにこれからまなび、さらにウィトゲンシュタインの影響下にカルナップらの分析哲学がおこった時も大いにそれから学んだ。ラッセルの初期の哲学上の立場を示す『哲学の問題』(The Problems of Philosophy, 1912)では、言葉のそれぞれの部分に対応する現実の一部があることを前提とする実念論をとられていたが、カルナップらの分析哲学からまなぶことをとおして、彼は初期の立場をすてた。
晩年になって彼は、『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)を書いたが、その序文にも、この本の中で自分が原資料にあたって専門家として発言のできるのはライプニッツだけだと、正直にことわっている。その他のことについては、同時代のより若い人々の仕事からまなぶという謙虚な姿勢をとり続けた。
市民に開かれた講義
私は、16,17歳のころ、ラッセルの講義をきいたことがある。一度は、ハーバード哲学会という少人数の集会で彼はピタゴラス主義について話した。その話は『西洋哲学史』のはじめに収められたものと同じだったようにおぼえているが、その時に彼は、話が記号論理学の技術的な問題に近づくごとに、その当時の若い教師だったクワインの仕事にふれた。ラッセルのような老大家でも、学問の技術ということでは、若い人の仕事を学習してゆくほかないのだなという印象が、いまものこっている。
同じ時に、もっと大人数にたいして、ハーバード大学の「ウィリアム・ジェイムズ講座」がひらかれ、ここでラッセルは、後に『言語と真理に関する研究』(An Inquiry into Meaning and Truth, 1940)にもおさめられた10回つづきの講演をした。ちょうどその直前に、ラッセルは、その離婚についての意見のために、一度はきまっていたニューヨーク市立大学教授の職を市民の反対でうばわれた。そんなこともあって、この公開講座には、開講の時には、300人あまりの市民と学生がききに来ていた。年をとった夫人が聴衆の中に何人もいた。講演が2,3回つづくうちに、聴衆はすくなくなり、最後にはがらがらだったように覚えている。しかし、そういうなかでラッセルは「自己修飾的」と「他者修飾的」とはどういう意味か、とかそんな話しをゆうゆうとつづけてゆき、演壇の下には、若い美しい夫人が腰かけて、きいていた。人があつまっても、あつまらなくても、市民にひらかれた場所で、学問の話をするという空気は、やはりいいものだった。