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(巻頭言) 東宮隆「ラッセルの死亡公示」
『ラッセル協会会報』n.15(1970年5月),p.19.

* 東宮隆氏は当時、東京工業大学教授


 ラッセルは今(1970年)から三十余年前、六十五才のとき、自分の手で「死亡公示 Obituary」を書いている。それは『はやらない試論集』(Unpopular Essays, 1950)(松下注:市井三郎氏は、『人類の将来−「反俗」評論集』と訳されている。)の巻末に載っているものである。「死亡公示」というのは、説明するまでもないが、新聞紙上などに載る逝去者の略伝のことである。それを自分から認めたところに、いかにもラッセルらしい個性があらわれている。
 その中で、ラッセルは、自分は九十才で死ぬと予言し、註を付けて、この「公示」は、一九六二年六月一日、『タイムズ』紙上に発表されるかも知れない、とふざけた。
「第三代ラッセル伯爵(かれの好んで用いた呼びかたに従えば、(単に)「バートランド・ラッセル」)は、九十才で逝去した。伯爵の逝去によって、非常に遠い過去とのきずなが一つ絶たれた」
という書き出しは、私たちに、六十五才のラッセルが、自分の長寿を、かなり確実に、しかしどこまでも酒脱に、予想していたことをうかがわせる。この予想よりさらに七才も長寿に恵まれたラッセル卿という人は、いろいろな意味で、まことに稀有なひとであった。
 この「公示」で、ラッセルが、アイロニーをこめて振りかえっている「伯爵の生涯」は、つぎのようなものである。
「第一次大戦中にかれのとった常規を逸した態度は、釣合いのある判断の欠如を示すものであり、この欠陥は、その後ますますかれの著述に染みこんでいった。」
 『数学原理』が重要な業績となったのも、
「その大半は、ホワイトヘッド博士という、ラッセルに明らかに欠けている例の見識と精神的な深みの持主のおかげであった。何と言っても、ラッセルの立論は、巧妙で鮮やかではあるが、単なる論理を超えた広やかな考察をめぐらしているところがないからである。」
 かれの歴史関係の著述にしても、
「その文体と機智のおかげで、不注意な読者の眼から、かれが最後まで捨てないと公言していた古風な合理主義の浅薄さを包みかくしていた。」
 けっきょく、かれの生涯は、
「わがままなものでこそあったけれども、十九世紀初期の貴族的反叛者を想わせる時代錯誤の一貫性を持っていた。かれの原理も風がわりなものであったが、しかし、とにかく、それはかれの行動をも支配するものであった。私生活では、かれは、その著述のきずとも言うべき辛らつなところをいささかも見せず、愛想のいい話好きであり、あたたかな同情心にも欠けてはいなかった。」
 この痛快な「死亡公示」にあらわれたラッセル卿の態度は、現実の卿の逝去を見たこんにちでも、私たちを悲歎のおもいから救ってくれているようである。何年か前のことだが、H.ラスキが亡くなったとき、私は、誇張でなく、この厳粛な巨人を失なった世界は明日からいったいどうなってゆくのであろうかというような悲痛なおもいに捉えられた。書物の上でしか知らない外国の思想家の死に際して、私は何べんとなくこれにちかい気持を覚えたことを想い出す。今ふりかえってみると、ラスキの場合には、かれがつねに高く張りつめた調子でものを書いているため、その著者が急に亡くなったと知ったとき、ほかの何ものをもってしても償いがたい損失だというふうに感ぜられたのであろう。
 このたびのバートランド・ラッセルの死に対して、私はそのような悲壮な痛惜の情を覚えなかった。かれの逝去が、ほかの何ものをもってしても償いがたい損失であることは、いまさら論をまたないが、それが私に右のように感ぜられたのは、一つにはラッセルが、天寿をまっとうしたと言っていいほどの高齢であったためであろう。そしてそれ以上にラッセルのヒューマニズムが使徒的と呼ぶにふさわしいほどの高揚を示している場合にも、なおそこに明るいオプティミズムの基調が存在していたからであろう。世界の変化を時々刻々に憂える精神は、ラスキのように、ラッセルの死の床でもなお衰えを知らなかったであろうが、かれが、その言いたいことを殆んど言い尽くし、その仕事の上でも、ついに「風変りな原理」を守り通すことができたからではないか、と私は思うのである。