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東宮隆「バートランド・ラッセルの史観」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第3号(1966年2月),p.12-13.
* 東宮隆(とうみや・たかし:1911~1985):執筆時,東京工業大学教授,ラッセル協会理事


ラッセル協会会報_第3号
 十年以上も前のことだが,わたくしはラッセルの『権力』(Power, 1938)を訳していて,その痛快さに,一定の分量を日ごとに積み重ねてゆく反訳の苦痛を少しも感じなかったばかりか,時にはおもしろ過ぎて訳筆の変にすべり出すことさえあった。その後,この書物にドイツ的重厚さのないのを物足りなく感ずることもあったが,今では,ラッセルの論旨のすすめかたに一種のあらっぽさこそあれ,この一見重厚さを持たぬところが,ドイツ風とイギリス風の考えかたの相違なのかと思うようになった。
 だが,『権力』の中に幾個所となく引用されている歴史上の挿話が,あまりおもしろく書け過ぎていて,軽い感じを与える点が,やはり気になった。わたくしは,いつか,それをラッセルの史観と結びつけて考えるようになった。
 『イタリア文芸復興文化』のブルクハルトも,『宗教と資本主義の勃興』のトー二ーも,それぞれの著作の扱う主題内容や書かれた背景は違うが,どちらも,歴史家あるいは経済史家として,シーリアスな感じを持っている。もちろん,決定論を持ちこむことだけがシーリアスな感じを与える唯一のものではないであろう。公式文書でなく物語や民謡によってまぼろしの歴史を書きたいと言ったホイジンガも,決定論は歴史を破壊すると述べているが,そのホイジンガの『中世の秋』から,わたくしが感ずるのは,歴史を見る著者のあたたかな眼であり,それでいてシーリアスなまなざしだからである。ラッセルは歴史家ではない。論理学者であり,知的ユーモアにあふれた常識家である。だから,歴史家としての情熱が見られないのは当然だと言えば,それはそうに違いない。しかし,ただそれだけであろうか。
 そんなことを漫然と考えていたとき,わたくしの眼に触れたのは,鶴見俊輔氏の次の言葉であった。
「ラッセルが専門の数理論理学から遠く離れたところにある歴史の問題,現代史の問題を考えるとき,彼を支えるものは,数理論理学によって養われたディダクティヴな方法でもなく,むしろアブダクティヴ(仮設形成的)な方法であり,このアブダクティヴな方法は根本においてひろい経験によって養われた常識と勘によって支えられている。ラッセルはマルクス主義のように歴史を科学として記述するという方法に大きな望みを持たなかった。しかし,数学におけるような分析的知性の拡大適用によって,社会問題,人生問題がすぐさま解けるとも思わなかった。学問の根本は分析的知性にあると考え,それをその適用できるかぎり適用すると共に,ひろく人生の事実と親しむことによって生じる市民的な常識と勘に主として頼りながら,人生の問題,社会の問題,歴史の問題を考えてゆく他ないと考え,この常識と勘の養成の場所として市民としての公的,私的活動があり,また歴史の学習があると考えた。人生,社会,歴史を科学的に扱うことについてのラッセルの控えめな態度が,結局において,これらの問題について,ラッセルを同時代の学者よりも少なく誤まつことを可能にさせたのである。
 氏は,「高度にアブダクティヴな方法」,つまり「ひろい経験によって養われた常識と勘」に支えられて,「歴史を科学的に扱うこと」に「控えめな態度」をとったことが,ラッセルを浅薄にしたどころか,かえって個々の歴史事象に対して「あやまつこと」の「より少ない」判断を下すことを「可能に」したと言っているのである。それはラッセルが学問と歴史をはっきり区別したことの指摘である。
 わたくしは今一度ラッセルから受ける自分の感じをふりかえってみた。そして鶴見氏の言葉と自分の感じをひきくらべた。氏の解釈はどちらかと言えばラッセルの現代史に対する態度について言われているようである。古い歴史についても同様であろうか。わたくしはそう考えて,『権力』以外のラッセルの著作を読みかえしてみた。
 『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)の中に,「宗教改革と反宗教改革」という一章がある。一つの相反する運動を一つにあつめたのは必ずしもスペースの関係だけとは思われない。わたくしはこの扱いかたに大胆な歴史把握の力が示されているようにあらためて思った。その叙述はすぐれて精繊な感じを与えるものとは言えないかも知れないが,ラッセル特有の的確さを具えている。また,この章に先んずる,エラスムス(Desiderius Erasmus:1467-1536)を論じた個所では,このヒューマニストに対して「北方の感傷性」を持った「恥も知らぬげに癒しがたいまでに文学的」な人間であったという評価を与えて,われわれの微笑をさそうと共に,「時代はもはや臆病な人々に適合しなくなっていた」(すべて市井三郎氏訳)という厳しい評価をくだして,われわれを驚かせる,これらの行文は,運動と人についての直接の理解にもとづく個性的な行文である。と同時に,何よりもそこにラッセルの決定的な眼が光っている。それはいささかもシーリアスな感じに欠けるなどと言えるものではない。
 それでもなおわたくしは,何かこの点で示唆を与えてくれるものはないかという気持を捨てることができなかった。そしてわたくしは,『人間の知識』(Human Knowledge, 1948)の中の「経験における時間」という一章に,わずかに解答らしいものを見出した。それは「なまの経験のうち時間の概念の原料を形成する部分を考察する」(次の引用と共に鎮目恭夫氏訳)ことを目的とする章となってはいるが,その章末に,次のような要約が付されている。
時問についてのわれわれの知識には二つの源がある。一つは,(1)見かけの現在の内部での継起の知覚であり,もう一つは(2)記憶である。思い出は,比較的昔か最近かという知覚されることのできる質を持っており,その程度によって私の現在のあらゆる記憶を時間的順序に並べることができる。しかしこの時間は主観的であり,歴史的時間とは区別されなければならない。歴史的時間は,現在に対して「さきだつ」という関係を持ち,その関係を私は見かけ上の現在の内部の変化の経験から知る。歴史的時間の中では,私の現在の記憶はすべて「今」あるが,それらが正しいかぎり,それらは歴史的過去における出来事を指している。どんな記憶も,それが正しくなければならないという論理的な理由はない。論理が示すことのできるかぎりでは,私の現在の記憶はすべて,たとえ歴史的な過去がまったく存在しなかったとしても現在とまったく同じでありうる。従って,過去についてのわれわれの知識は,われわれの現在の記憶の分析だけによっては発見されない或る要請に依存している。」
 これをもって直ちにラッセルの史観を示すものととることはできまい。しかしそこには,歴史の存立についての積極的肯定はない。「思い出」の「質」は認められているけれども,質を洪水のように溢れさせるものではない。在るのは知性による懐疑的な分析だけである。ラッセルに時としておもしろい歴史を書かせ,あたかもシーリアスでないかのごとき感じのものを書かせるのは,じつは歴史についてのこのような根本観念であり,さらには,へーゲリアニズムのような歴史の壮大な絶対化に対する嫌悪,歴史事象に向けられた知的常識家の眼であると,現在のわたくしは考えている。(終)