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鈴木悌二「(B. Russell's) The Good Citizen's Alphabet」
『ラッセル協会会報』n.3(1966年2月),p.9-11.


 A Fishing Man in the Air (空中で釣糸を垂れている人)-筆者は、ラッセルを時々そんなイメージで思い泛(うか)べることがある。その不合理なイメージに実は象徴だからということ以上に、ユーモアをさえ感ずる。今、ラッセルの一寸珍らしい書物をここに紹介するのに当って、はからずも、これを思い泛べた。その理由と含意はあとで自然にわかると思う。

 紹介する書は、B. Russell: The Good Citizen's Alphabet, with drawings by Franciszka Themerson(Gaberbocchus Press Ltd.)で日本バートランド・ラッセル協会が誕生する以前の出版で、現在は絶版になっている。Copyright by Gaberbocchus Press Ltd., 31, King's Road, London, S.W.3.,First published in 1953. である。戦後、丸善で売場から直接さがし出した時も確か一冊しかなかったようだから、余り知っている人も多くはないのだろうと思う。
 本誌創刊号を飾った水口志計夫さんの「ラッセル書目」にも載っていないし、ラッセル研究の先達、牧野力氏も珍らしいと驚かれたところからみても、確かに一寸した好奇心の対象になる書物であると思う。
 こんなことをいうのは、本書が、独特の飛び切りに楽しい価値をもつと思われることを、実は、三段論法的に、一寸、証明したいからである。水口さんも牧野氏も知らない本で、しかも本としてはごく薄い(30ページそこそこである)この本を、ラッセルには素人の筆者が唯一眼で見出したのは、何故かということである、結論はいう必要はないが、本書の意味と魅力とがいかに素晴らしいかが、ここに証明されているということが、それである。
 編集子から紹介せよといわれた時、実は最初は弱ったが、ラッセル噛じりの筆者が本書を紹介するのも寧ろ面白いと思われる理由も矢張りそこにあったので、その理由によりかかって実は筆をとった迄である。つむじまがりのラッセルの高い精神が本書をここまで高めたと時折思えるものがちらついてくる。
 どんな本かは一口では言えないが、まあいわば、現代における人間と社会と文明に関するラッセルの思考遍歴の果てを、アルファベット風に問題にとらえて放出したとでも言えようか。大人向きの現代文明の「いろはカルタ」とでもいうべきか。しかし一口に言えないのが実は本書の無類の存在意味であり、その魅力の其の秘密のかぎりであり、本書に対する各人各説の異った見解を、当のラッセル自身も恐らく許すであろう。厳密には、だから、この紹介も、実は筆者一人の見解であることをお許し願いたい。
 僅々30ページそこそこのささやかな書物だが、画家 F. Themerson(この画家については筆者は全く無知だが、大変な風刺画技術をもっている……)の色刷漫画の素晴らしさが、ラッセルの思考のひだに妖しく奉仕していること、誠に見事である。そして、数理哲学から出発し、遂に原水爆禁止運動に立つ迄の思索と理論と実践のこの巨人の何処にこんな遊戯精神のユトリがあるかと疑わせるほどのものである。しかしページをくってゆくうちに、この高い精神に支えられてこそ、ラッセルのあの偉大な遍歴も実はあったのだとわからせられる。風刺、攻撃、嘲笑、皮肉、闘争、思索を包むラッセルのあのはげしい自由精神の真の居所をわからせる。しかも、本書はまだまだその小出しの小出しだとわからせるのである。そんな気がする。つきぬ興趣を覚えさせる。

 アルファベット26項目は、Asinine Bolshevik, Christian, Diabolic, Erroneous, Foolish, Greedy, Holy, Ignorant, Jolly, Knowledge, Liberty, Mystery, Nincompoop, Objective, Pedant, Queer, Rational, Sacrifice, True, Unfair, Virtue, Wisdom, Xenophobia, Youth, Zeal となっている。
 そして、この各項目に適切な寸言を加え、一ページ一項目主義で、現代市民のこの文明カルタを完成させるのである。問題の取り上げ方もラッセルらしく、いかにも自由であり、その寸言がまたまことに厳しく、含蓄に富んでいる。素晴らしい色刷画をお見せできないのは残念である。
 項目についで1,2の例を説明しよう。
 では、二人の紳士が言い争っている見事な色刷風刺画があり、Asinine-What you think.(馬鹿! そは他者の別名・・とでも意訳すべきか)という寸言が加えられている(右の図版参照)。またでは、胸を張った国会議員らしい者の色刷漫画の下に、Bolshevik- Any one whose opinions I disagree with (ありゃ赤じゃ-わしに同意せんとは…とでもなるべきか)といった具合の寸言が加えられている。少し飛んでになると、Pedant- A man who likes his statement to be true.(「学者ぶる- ウソはいいたくないのだが、つい、そのために、…」とでもいった意味か)といった具合で、ラッセル自身らしい人物がページ一面に描かれている。(右の図版参照)(はじめに述べたような空中の釣り人のイメージを、筆者は,実はこのPの漫画に感じてハッとしたのだ)。
 アルファベットについての正しい知識こそ幼児を導く教育の最初の鍵だと本書の序言で、ラッセルは皮肉る。その心は恐らく幼児の教育についてではなく、恐らく二十世紀の人間の教育を目指してそういっているようにしか感ぜられない。そして、'Good Citizen' の意味がここでずしりと重く感ぜられ、アルファベット26項日についての、その基本命題の解説が、現代への酌めどもつきせぬ思考の源泉になる感が起こってくる。アルファベットとは恐らく来るべきこれからの時代へのアルファベット(ABC)のことなのであろう。
 本書が絶版であることは誠に惜しいアイロニイである。ラッセル自身のためにも、一般研究者のためにも、是非ひろく再版してもらいたい書物ではある。(1966年1月17日筆)