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(随想) 白石英男「バートランド・ラッセル卿を悼む」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第15号(1970年5月)pp.8-9.
* (故)白石英男 氏は、当時、ラッセル協会会員

 かけ替えのない巨大な世紀の大天才を世界の人々は失った。誠に痛恨の至りである。と同時に又、この不世出の巨人と世紀を同じうしたという淡い喜びも、他の事と替え難いものであろう。
 谷川徹三先生(ラッセル協会会長)の巻頭言・ラッセル追悼文を載せた協会の会報と同時に、奇しくもロンドンの親友から、一袋の郵便物が届いたが、これには『タイムズ』紙(1970年)二月三日号と四日号、それに十四日号と、『ガーディアン』紙二月三日号とに、それぞれ卿に関する記事が大きく切り抜かれていたのである。

バートランド・ラッセルが晩年すんでいた自宅からポートマドック方面を望む  そのなかで『タイムズ』二月三日号には、「アール・ラッセル、時代と取っ組む哲学者」という見出しで、四欄に跨って、その死を報じながら、彼の数学的記号論理と哲学はその影響するところは深く且つ、浸透するところが多く、二十世紀のこの領域に大きな啓蒙をもたらしたとして、ムーアやヴィトゲンシュタインとの関係等に言及し、又、彼一流の気まぐれな物の見方を叙べ、核武装反対運動に及んで詳述している。又同紙二月四日号には「世界はバートランド・ラッセルを悼む」と題して、英首相は「英国のボルテール」だといって、彼の作品もさることながら、更にその対談がすばらしいといっている。そして一頁全面に例の百人委員会の坐り込みや、四人の夫人達の写真その他を掲げている。その上、エディス夫人に送った彼の自作の詩がでている。そして彼は淋しい山と海との間にある彼の最も好んでいた一室で、本と未完の仕事に囲まれてこの世を去った。夕方までトレマドック湾(松下注:ポートマドック湾)の夕陽を眺めておったのだが、と報じている。又二月十四日号の広告文一頁には、アラブ連合の名入りで「平和のために真理探求に献身したラッセル」と題して、ラッセルの寄稿文を載せてラッセルを讃えている。

★反核の論理学者

 以上のようにこの世紀の大天才は最大級の賛辞を以って紙上に飾られた。

 さて私がラッセルに近づいたのは大正七年頃だったか、当時の評論雑誌『改造』に、福田博士(松下注:福田徳三)のラッセル紹介が出て、そのなかに、ラッセル著『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)の主旨が掲載された時である。直ちに原書を求めて(自分なりに)読み出したのが始まりで、以来今日まで深く親しんできたものである。この「改造の原理」では、人間には '二つの衝動' があって、その一つは所有のそれであり、もう一つは創造のそれである。戦後の社会改造には、特に創造の衝動に重きをおかねばならぬというのであって、当時の二十才を出たばかりの私には、ひどくこの魅力的な言葉に感銘して、私なりに自分のイメージを社会に対して持ち始めたものである。それ以来、機会のあるたびにラッセルの著書を漁っておったところ、大正十年頃か、ラッセルが北京大学で開講の後、帰りに日本に立ちよって、慶応大学の講堂で講演されたことがあった。初めて見る黄色の洋服に長身痩躯(松下注:当時の日本人から見れば「長身」とうつるのだろうが、イギリス人あるいはイングランド人から見ればラッセルは小柄といった方がよいだろう)のこの哲人の姿に、いたく感激したものである。

ラッセル著書解題

 第二次大戦後は『哲学の改造』(?)『西洋哲学史』(原文)を読み、なお『西洋と知恵』(原文)を手に入れて楽しんでいる。そして、一面平和運動の如き極めて行動的な又その意気の旺盛なのには平素から深く感動しつづけている。英国民の極めて思索(的?)であるのと同時に実践的な経験主義には敬服するが、ラッセルはその典型であると思う。『ガーディアン』誌の報ずるように、英国経験主義の正典に、ロック、バークレー、ヒューム、ミル、それから我がラッセルと並び称せられるのである。
 然るに、われわれの期待した百才の寿に達せずして他界されたことは、全く痛嘆の極みである。又『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』共著者ホワイトヘッドをラッセルによって知ることのできたのも一つの感謝である。然るに今やホワイトヘッド去り、ハーバート・リード去り、ヤスパース去り、デューイ去り、更に最後に唯一人のラッセルを失い、万感交々である。太陽を失ったようである。(ラッセル協会会員)