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柴谷久雄「バートランド・ラッセルとの出会い」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第8号(1967年7月)p.6-7.
* (故)柴谷久雄氏(1910~1996)は当時、大阪教育大学教授<

 ラッセルとの出会いといっても、満90才をこえてなお矍鑠(かくしゃく)としているラッセルその人とお会いした、ということではない。長い間、その日の実現を念じてはきたが、残念ながら、(1967年現在)私にはまだその機会がめぐまれない。だから、私の場合は、ラッセルの精神、とくに、彼の教育精神との出会いということになる。
 満三カ年に近いシベリアの抑留生活からやっとのことで解放され、あしかけ六カ年ぶりに故国の土をふんだのは、昭和23年7月初旬のことであった。軍隊ボケにシベリアボケが重なっている上に、戦後社会の激しい動きがさらに作用して、しばらくの間は、自分の頭も自分のものではないような気がした。ただ呆然と、めまぐるしい世の移り変りを眺めているだけだった。


 そんな生活を半年ほどすごした後、私は、郷里の和歌山県に帰り、教育委員会で働くことになった。教育になじみのある方なら、すぐ判っていただけると思うが、当時の日本教育は、アメリカ教育一辺倒であった。私の頭の中にいくらか残っていたドイツ教育思想など、誰一人として顧みる者はいなかったのである。
 私の学んだ大学の教育学教室は特にそういう傾向が強かったと、今にして思うのだが、どういうわけか、英米の教育学は全く問題にされなかった。教育学といえばドイツ教育学に限られていた。卒論にしても、デューイなど許されるわけのものではなかった。今から考えると、じつに、不思議なくらいである。このような学的雰囲気の中で育てられた私にとって、終戦直後の教育が親しみにくかったのも当然であろう。仕事の性質上、アメリカの教育書に目をさらす時間は多かったが、どうしても心からなじめないものを感じた。余りにも技術主義的だという気がしてならなかった。
 こんな生活を一年半ほどすごした昭和25年の秋だったと記憶する。和歌山県の幼児教育関係者が、温泉で有名な白浜で研究集会をすることになり、その講師を県の教育委員会に求めてきたことがあった。当時、和歌山県教委の指導主事はわずか6人しかいなかった。そして、筆者以外の5人はすべて、社会科とか数字とかの教科指導の専門家ばかりだった。こんな事情から、白浜での講習会には、どうしても筆者が行かねばならない羽目になってしまった。
 満洲での軍隊生活、それに、シベリアでのドン底生活にきたえられて、少々のことには驚かなくなっていた私も、しかし、これには参った。大学で教育学というものをいちおうは専攻した。けれども、こと幼児教育に関しては、フレーベル恩物と、そのふたつ位しかわかってはいないのだ。ながい間、教育の現場で幼児教育と取っくんできた何百人のベテランの前に立って、はたしてものを申し上げる資格があるだろうか? 困惑の感と羞恥心とがいりまじって、全くもってこまりぬいたことを、20年も経過した今でもはっきりと思い出すことができる。
 再度にわたって固辞しても許してくれないものだから、私は教育長にひとつだげ注文を聞いてもらうことにした。たしかに、指導主事の顔ぶれからすれば、幼児教育の専門ではないが、他の5人よりは私の方が比較的適任であろう。しかしこれは、あくまでも比較の上のことであって、私が幼児教育の専門家でないことは、動かしがたい事実である。その私が再度にわたってお断りしても許されない、であれば、ひとつ私の注文も聞いてほしい。幼児教育の名著を、それも原書で、至急一冊用意していただきたい。どろなわでもやむを得ない。急いでその本をよんで、とにもかくにも、和歌山県教育委員会の名誉を汚さない程度の話はしてきたい。 -ざっとまあ、こんなお願いをしてみた。
 原書というワクをはめたのは、講演のタネ本はそう簡単に知られたくないという、およそ講演会の溝師というものを一度でも引きうけたことのある人なら、誰しもが考えてみることの一つである、私の場合は、もう一つのことをねらっていた。昭和25年当時のことだ。洋書の輸入など思うに任せない。その上、戦前の蔵書はみんな焼いてしまっている。幼児教育の原書など、そうそうたやすく見つかるはずもあるまい。そうなると、「やむを得まい、講師は別に考えてみよう。」というようなことになるかも知れない。 -こんな無責任な計算も入っていたのだ。
の画像  ところが、これは後になってはっきりしたことだったが、教育長は無類の読書人であった。私のこの注文をいともあっさりと、「何かいい本を探してみよう」と受けとめてしまった。そして、その翌朝、私の出勤するのを待ち受けるかのように、机上におかれていたのがラッセルの On Education, 1926 だったのである。
 白浜での講演は、講師の私が心からびっくりしたほどの好評であった。同僚の指導主事たちが、「いったい、どんな話をしたのだ。いちど、僕たちにも聞かせろよ」と、ひやかし半分にくり返し話題にするくらいだった。しかし、この好評は、考えてみればおかしなことである。私の講演のaからzまで、すっかりラッセルにおんぶしているのだから。ほめるならラッセルをほめなくてはならないのだ。話の最後に、「本日の講演はイギリスの大哲学者バートランド・ラッセルの著書『教育について』に負う所が多い。どうか皆さん方も、折をみてあの本を繙いていただきたい。」と、私は挨拶したはずである。しかし、聴衆という者は、もうこんな時にはよく話を聞いてはいないものらしい。おかげで、その後、私は「和歌山県における幼児教育学の大家」にまつりあげられてしまった。
 これで喜んでしまっていたとしたら、私はやはり、典型的な軍隊呆け・シベリア呆けの一人だったことになる。幸いにして、人間の正気というもののひとかけらでも、魂のどこかに残っていたのであろう。こう考えてみた。「いったい、和歌山県の先生たちがどうしてこれほどまで、あの話に強い関心をもったのか。その理由は、せんじつめれば何にあるのか」と。
 あの時以来、今日にいたるまで、20年にもわたって、折にふれ、私はこの問いをくり返してきた。しかし、なかなか簡単には答えられそうもない。ただ、一つだけはっきりと指摘できることがある。それは、教育というものをラッセルほど正しいパースペクティブで把えている人は少ない、ということだ。もっと具体的にいえば、教育を人の子の親の角度から観ているということになる。しかも、いわゆる「教育パパ・教育ママ」の視点からではなくて、愛情と知性とをかね備えた、真の親心をふまえて。
の画像  いまさら言うまでもないことだが、教育が政治の次元でとり上げられることほど、教育を毒するものはない。これは、保守と革新とを問わず同断である。また、教育は教師の独占物であってはならない。最後にまた、教育は教育学者の知的なオモチャであってもならないのである。平易なコトバで、明暢の文章で、しかも明快な論理で、以上のことを教えてくれるものが、ラッセルの「教育について」ではあるまいか。
 教育の真実。-もし、こんな云い方が許されるとすれば、ラッセルのこの書には、その真実心がどの頁にもよみとれる。教育について、誰よりもまず発言権をもっている者は子供たちなのだ。しかし、彼等の思いはコトバになりにくいから、彼等をもっともよく知り、もっとも愛している親こそが、彼等に代って発言すべきなのである。この教育の真実心でもってその第一頁から最終頁までつらぬき通されている本が「教育について」である。そして、副題として「特に幼児期における」と添え書きされているのも、右のすじ道からしてよくわかる気がする。
 白浜での私の話に聴衆が心を打たれたというのは、私の話術や私の論理にではなくて、じつは、ラッセルその人の教育の真実心に感銘したのである。いや、聴衆より前に、私自身が「教育について」のトリコになってしまっていた。けっして大著とはいえない、一見何の変哲もないあの書物のどこに、それほど大きな魅力がひめられているのだろうか。眼を閉じれば、あの名著のあちらこちらにちりばめられている珠玉のようなコトバのいくつかが、すぐ私の頭に浮かび上つてくる。
「わが子に対する愛情からスタートして、われわれは、一歩一歩と、政治や哲学という広い世界につれ出されることになろう。」
「愛情だけあって、知性の伴わない教育は無力であり、知性のみあって愛情の裏づけのない教育は破壊的である。」
「教育は新しい世界をひらく鍵である。」
 もうこれ位でよそう。どの一つを読み返してみても、みなギクリと胸にこたえるコトバばかりだ。日本教育の現実を思うとき、その無気力さとその醜悪さとを想うとき、特に最後のコトバが私の胸に突き刺さる。
 20年前に出会ったこれらのコトバに、いま再び直面してみて、教育界の激しい移り変りに、いまさらのように驚かされる。日本の教育は、果たして、「新世界への鍵」たり得るのであろうか。それとも、いちどは固く閉ざされたはずの「旧世界への鍵」に転落しつつあるのではなかろうか。私は協会員の皆さんと共に問うてみたいと考える。(終)