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バートランド・ラッセル生誕93年記念講演会 会長挨拶_

笠信太郎「現代の思想の型」

『日本バートランド・ラッセル協会会報』第2号(1965年9月)p.2-3.

* 以下は、1965年5月18日に開催された、ラッセル生誕93周年記念講演会におけるバートランド・ラッセル協会の会長挨拶の一部<

 現代は一体、どういう思想の時代であろうか。このことを一つ、考えてみたい。

 なるほど現代は、いろいろの思想が雑居していて、入り乱れているとも言えます。思想はすこぶる豊富だとも言えましょう。特にこの日本では、東西古今のありとあらゆる思想が、まるでデパートにでも行ったみたいであります。
 それにしても、売れ残りの思想では少々物の役には立ちますまい。何と言っても、現代の思想、または将来に生きて行く思想でなくてはならんのですが、まず話しを簡単にしますと、それは科学をもとにした思想・考え、と言って差し支えないのではありますまいか。若い方々は学校で科学を勉強される、あるいは科学に基づいた知識を習得される。その中には自然科学もあり、社会科学もある。従って、こうした科学に基づいた考えが、現代の考えだと、あっさり言ってみても、そう反対は出ないだろうと私は思うのです。

ラッセル協会会報_第2号
 そうすると、私たち現代人は、もう十九世紀に出来上がったいわゆる大思想 -それはほとんどすべてがイデオロギー的な思想と言ってよいのですが- そうしたイデオロギー的な思想からは、もうずいぶんと遠ざかって来つつある、と言ってもよさそうに思われます。
 それならば、その科学に基づく思想というのは、一体どういうものかと言うと、それは実は何でもないことで、私たちが平生物事を判断するときのことを考えてみると、そこにその初歩的な段階が出ていることがわかります。私たちがある事件についての考えを纏め上げる場合には、いろいろの科学的知識をそこに適用します。社会学や経済学はもとより、法律でも国際法の知識まで用いねばならんことがあるし、物理学から来た簡単な知識も持って来ないと説明が出来ないことがあります。判断を迫られる事柄自身によって、そこに持ち込まねばならぬ道具も違ってきます。しかし、この段階でも、一つハッキリしていることは、私たちは、道具としていろいろの科学的知識を用いるけれども、それを用いて考えを纏め上げるものは私たち自身であるということであります。無論その際、他人が纏め上げた考えも、大いに参考には致します。しかし、窮極のところは、私という主体(サブゼクト)が、この主体の責任において、考えを纏め上げるのです。
 これは、何かの事柄とか事件とかに私たちがぶち当たったときに、どういうふうにして私たちは、これを切り抜けて行くために判断して行くかという、いわば、すこぶる実践的な局面についての考えということでありますが、いわゆる思想とか、思想体系とかいう場合も、簡単に言うと、こういった判断や思考の集積だと言うことができましょう
考えの型
としては一向に変わらないということになります。従ってその内容は、本人の勉強次第で高まって行くし、お互いが勉強して行けば、その内容はだんだん近寄ったものにもなりましょう。しかし、この思想を支えているサブゼクト(私という主体)は不合理な要素を持っているものでありますから、各人の考えはギリギリまで同じものにはなりますまい。しかし、それはそれでよろしいのであって、もしみんながすっかり同じ考えでは、実はむしろ困りましょう。ご無理ごもっともで、みんなが政府と同じ考えでも困るし、みんながお釈迦様と同一の考えでも社会は進みますまい。それでは自由というものは考えられないことになるし、極端に言うと、貨物列車で運ばれて行く牛や豚の群と同じようなことになりかねません。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)
 いや、私たちの考えが少しずつ違うということがあればこそ、デモクラシーが必要になると考えてよかろうと思うのです。
 ところで、こういう思想の型は、ラッセルの考え方と通ずるものがあります。たとえばラッセルは、最近の自分の哲学についての考えが、物理学、生理学、心理学および数学的論理学を自分で綜合したものだと言っております。また哲学を作る場合ではなく、普通の事実を判断する場合にも、ラッセルはいろいろの科学的知識や歴史的事実、または経験を引き合いに出します。こうした考えの型を、私は現代の思想の型と申してよいと思います。ラッセルは、こういう型の、いわば最も高く聳え立ったものだと言って差し支えがなさそうであります。
 従って私たちがラッセルを研究すると言っても、ラッセルの今の考えを、そっくりそのまま失敬して来ることではありますまい。私たちは私たちらしく、自分の持っている科学的知識、歴史的知識、それに自分の経験的内容を綜合することによって、自分の考えを持つことになります。そこで、こういった現代的な行き方をするかぎり、私たちはイデオロギーを信奉する人たちのように、すでに出来上がっている思想の金殿玉楼に招じ入れられるということにはならない。もし私たちが、自分を高めようと求めるならば、自分の足で山を登るよりほかはない。言いかえると、不断の勉強によって始めて少しずつ山道を登ってゆけるのですから、常に無限の勉強が要求されることになります。
 私は、ラッセルから、こういうヒントを与えられるのです。

ラッセルの言葉366
 第二には、以上申しますように、こうした考え方は、他人の解釈によろうとはしないのですから、また他人の作った世界それが宗教的な世界であろうと、大きなイデオロギーの世界であろうと、そういう世界を頭から引っかぶろうとするわけには行きません。羊が虎の皮をかぶったような真似は出来ません。そこで、見方は、すこぶる率直で、正直なものにならざるを得ません、たとえ、偉そうな思想に対しても、それがどこか少しでも変だと思ったら、それをそのままおかしいと疑ってみる。それには勇気をも必要としましょうが、逆にこの正直な見方が、私たちに勇気を与えてくれることになるのです。
 たとえば「神」とか、古典哲学のいわゆる「精神」とかいったものに対しても、こういった態度で立ち向かわざるを得ません。たとえば、ご存じの通りへーゲルは、世界史の発展をいわゆる世界精神の自己展開だと説きます。その点について、ラッセルは、
「宇宙的と言っている過程のすべてが、この地球という小さな惑星の上で、しかもその過程の大部分が、地中海近辺で起こった、ということは奇妙な話しではあるまいか。」
と率直、大胆に批評し、これを否定します。これは、今の私たちの科学的意識から正直に見る限り、そう考えないわけには行きますまい。へーゲルの考えは、奇妙な妄想を含んでいるということになります。
 また、こうした考え方は、既成の宗教的な色彩の世界をだんだん脱却して参ります。ラッセルがキリスト教の信仰の濃厚な雰囲気の中に育ち、そしてその中にありながら、「神は有りますか」という問いに答えて、「神というものは、それが無いという証明は出来ない、従って、一つの可能性ではあるだろう。言ってみれば、神は有りそうもないと私は思う。」と言いながら、しかも一方、「自分は死を恐れない」と言っております。
 これは一つの安心立命であり、新しい確乎とした世界であります。私たちも、時代的には、どうしてもそこに立ってみなければならぬ境地ではあるまいかと思う。ラッセルの興味は、ここにも尽きないものがあります。