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「バートランド・ラッセルの招聘」

* 出典:関忠果・他編著『雑誌『改造』の四十年』(光和堂 1977年5月 661pp)pp.70-77 所収


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ラッセルの招聘

 ラッセルは、大正十年一月号の「改造」に特別寄稿として「愛国心の功過」を寄せた。この稿が「改造」に掲載される経緯は、同号の「本誌に寄せたる〃愛国心の功過〃の原稿と最近のラッセル氏」にくわしい。
 イギリスの哲学者また社会改良主義者として特異な存在であったバートランド・ラッセルは、第一次世界大戦に反対して投獄され、ケンブリッヂ大学教授の地位を追われて、国外追放処分にあい、ソ連から中国へ向った(松下注:一度英国にもどってから、中国に旅立っている)。北京大学の招特による。改造社は、北京滞在中の彼を日本に招待したのであった。この交渉のために北京に赴いた横関愛造は、次のように述べている。
「私が、改造社同人を代表して、博士招聘のため北京に着いたのは、一九二〇(大正九)年初秋、楊柳(注:かわやなぎ: 水辺に多く自生する、やなぎ科の落葉高木)の黄ばんだ北京の街々が古都の静寂さ身にしみるような朝であった。前門駅に着くと、その足ですぐ公使館に、小幡酉吉公使を訪ねた。公使は、私の来意をジッと聞いていたが、やおら身をおこして、"君、軍部で上陸を拒否するかもしれないぞ、どうもその不安がある・・・"と顔色をくもらせた」(「思い出の作家たち」・横関 232頁)。検閲は、当時中国改造社の主幹蒋万里晨報主筆陳博生の斡旋で、ラッセルをその宿舎大陸飯店に訪い、日本招待の意向を伝えた。その時、ラッセルは「私の日本行きに政府が同意するか、日本では、政府が思想的にいろいろ圧迫を加えていると聞いているが・・・」と言ったという。彼は当時の日本の状況に就いて、かなり正確な認識を持ち、また来日を約束してからは、毎号の「改造」を北京大学生に翻訳させて、すべてを読んでいて「一般的雑誌でこれほど高級なものは、世界中に二つとない」と評価していたという。
 ラッセルは、大正十年七月十七日、神戸港に着いた。その日の模様を山本(注:改造社社長)は「三人の賓客」のなかで、次のように書いている。
「その日、神戸埠頭には、労働組合旗が幾十となく、ひるがえっておった。何でも、神戸、大阪付近一帯の労働組合員五万は、諏訪山かどこかに集合して、一斉に氏を迎えるつもりで、それぞれ手筈をきめたのであったが、それは当局の許すところとならなかった
 ラッセルは、はじめ我国各地で講演をおこなう予定であったが、北京滞在中に病気になり、なお衰弱が甚だしかったため、京都及び東京で、学者、思想家と懇談会に出席、かたわら、「改造」への寄稿執筆に専念したが、七月の末になって、「ゼヒ一度、講演をやって、改造社の貴意に副いたい」との意向を洩らし、七月二十九日、慶応義塾大ホール(注:慶応三田大講堂)で約三千の聴衆を前に「文明の再建」と題する講演をおこなった。
 ラッセル来朝以来の当局の警戒は厳重で、いわゆる尾行つきであったので、この講演が、途中で「中止命令」を受けはしないかと憂えられた。しかし、横関の述べるところによれば、この講演を直接聞いていた当時の内務省検閲官(の)宇野慎二は「ラッセル博士の数理哲学とか新実在論哲学という理論は相当に予備知識がなくては容易に理解しにくい。だから急ごしらえの検閲官の聞いたところ、正直なところ、どこまで日本流のいわゆる危険思想なのか、わかるものではない。それほど難解のものであるから、実害が伴わないと見たので、中止命令は出なかったのだろう」とある。その日の演説に就いて、また山本実彦は、次のように述べている。「それは彼の生涯中でも一、二に伍する上出来のもので、彼に同感を持たないものまで賞讃していた。それは千九百十四年の大戦で文明の相互的自殺をやった。そののちに新しい経済組織のもとに、新しい生き方をするについて、工業主義はどういう地位におるか。そうしたことを経済的に、倫理的に説いたものであった。彼は、経済的・政治的観察も鋭いのであるが、その底に、哲学的・基礎的の深い見方が伴うので、走馬燈のごとくかわって行く我が思想界に一ばん長い生命があったわけだ」と
。  ラッセルは、(大正)十年1月号以後、十二年九月までに京十三回(十五回の誤記執筆しているが、このバートランド・ラッセルは、アインシュタイン招聘のキッカケとなったという点からも、大きな意味がある。

アインシュタインの招聘

 山本実彦は、「改造社小史」 (昭和九年「改造」四月号) のなかで、ラッセルに対し「現存する世界の偉人は誰と思うか、その三人ばかりを挙げてみてくれ」と、如何にも山本らしい独特の質問をぶつけたとき、「彼は第一にアルベルト・アインシュタインを挙げ、第二にある人を、そして三人目には答えなかった。その時私は"相対性原理"なるものが学界で如何なる地位にあるかを知らなかった。したがってアインシュタインなる人がどんな人かをも知るところがなかった。彼は余の通訳子をして、ニュートンに相対立する偉人であることをつぶさに物語ってくれた」
 この話を聞くと、山本は直ちに行動を開始した。「その翌日であったか、その日は確かにおぼえぬが、私は西田幾多郎さんに相対性原理がいかなるものであるかをきき、さらに石原純さんにもそのことをきいて、今度はわが学界のために四、五万円を投じて、アインシュタインを招聘するときめた
 アインシュタイン招聘のためにドイツに派遣されたのは秋田忠義だった。折柄、改造社特派員としてロンドンにいた室伏高信もドイツに向い、これを側面から助けた。はじめ容易に承諾を得られなかったが、ドイツ留学中の京都大学教授田辺元の助力もあって、アインシュタインの来朝はきまった
 アインシュタインの来日は、大正十一年十一月十八日。その夜の東京駅の光景は「まるで凱旋将軍を迎える如く、プラットホーム及び停車場の広場は数万の人の山で、教授夫妻は三十分近くもプラットホームに立往生したのであった」と、山本は述べている。
 アインシュタインは、改造社の寄付による束京帝大における三十時間の特別講義のほか、仙台、京都、福岡はじめ日本の主要都市で講演をおこなったが、各地とも立錐の余地のない盛況であった。当時、日本の知識人が、相対性原理に就いて充分な理解を持っていたとは考えられない。否、現在においても、相対性原理に就いて述べよといわれて、満足な答えの出来る人はすくないとおもう。それにもかかわらず、講演会場が常に満員になるのは、アインシュタイン自身にとっても理解できないことであったらしい。「二円、三円の入場料をはらって、私の顔を見にくるのだ。とても相対性の理論など、むずかしくてわかるものではない」と洩らしていたという。 それは、やがて、アインシュタイン全集が刊行された時にも言えることだった。日本の物理学者の多くは「五十部も売れるか」と言っていたのが、二千、三千と売れて、改造社自体をおどろかせた。(この全集は、関東大震災で紙型を焼かれた)このことば現在も変らない日本人の民族性の一端を現わしている。それは稀にくる人としての客人(まれびと)に対する期待憧憬の発露であり、その思想が不可解であれば、かえってその人格を神格化する日本的心情の表現と言えるだろう。
 とまれ、アインシュタインの来朝が日本物理学界に与えた影響は大きなものであった。当時まだ京都一中の中学生であった湯川秀樹もその講演を聞いたことが、物理学へ進む動機になったといわれ、日本の理論物理学が国際的にも高い水準を占めるにいたった源流はアインシュタインの来朝にあるといっても過言ではないだろう

サンガー夫人の場合

 ラッセル、アインシュタインの来朝のはなやかさにくらべ、(大正)十一年三月に改造社の斡旋で来朝した産児制限運動の推進者マーガレット・サンガ一夫人の場合は、みじめな結果に終った。横浜まできた女史に対し、当局ははじめ上陸を許さず、わずかに山本実彦は内務省に対し、神田青年会館で一回だけ講演をおこなうことを誓約して、ようやく上陸が許された。

「改造」の啓蒙的役割

 ラッセル、アインシュタインという当代世界一級の人物の招聘が、創刊間もない改造社によっておこなわれたということは、基本的には、雑誌「改造」の知名度を高めたいとの山本の事業家的感覚によるものであったとしても、これが、わが学界・思想界に及ぼした影響は測り知れぬものがあったという点において、ジャーナリズムの持つ啓蒙的役割をよく認識した行動でもあった。
 山川均は「"改造"十年の回想」のなかで「大正十年一月号のラッセルの論文「愛国心の功過」をはじめとして、"改造"の誌上には、世界的に著名な外国人の論文が掲載された。これらの執筆者にはジョン・デュウイ、リッケルト、パルビュース、コール、ウエップ、ベルンシュタイン、バンカースト、ヘイウッド、サンガ一夫人、ハヴロク・エリスなどがあった。世界的に寄稿者を持ったことも"改造"の新しい試みの一つであった」と書いているが、これら外国知識人の直接寄稿は当時他の雑誌ではほとんど手をつけない分野であった。これらの論文の主なものには原文を併せ載せたのも珍らしかった
 ちなみに、山本の述懐によれば、ラッセルの原稿料は一回三百三十年、アインシュタインは一回千円であったという。
 なお、【大正)十一年十二月は、「アインシュタイン号」として特集された。その学説の紹介・解説に努力を払われたことは、この号をみればわかる。この特集の続きは、さらに十二年一月号にもびき続いておこなわれている。