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D.K.ローイ「バートランド・ラッセルとの対話」(1922年8月)

* 出典:みすず書房版「ラッセル著作集・月報」より(第5回配本付録)

ラッセルの言葉366
 「次の大戦は、ソヴェトを戦士とする東洋と、アメリカを戦士とする西洋との間で戦われるだろう、という『産業文明の展望』(1922年刊)に言われたあなた(=ラッセル)の予言は、やはり起りうるかも知れません。ソヴェト(ソビエト)が現在いかに中国を援助しているかを考えて下さい--」(と私が言った。)
 「その通りです。私はまた、ソヴェトはインドにも援助したがっていると考えます。少くともソヴェトは、援助をして何らかの利益をうる唯一の大国だからです。」
 「それはどういう動機からでしょうか?」
 「そりゃ勿論、われわれを衰弱させるためです。たしかに、今日のボルシェビキ帝国主義とイギリス帝国主義とは憎み合っていますからね。」
 「ところであなたは、共産主義者たちがほんとに帝国主義的だと言われるのですか? たとえ彼らが戦いに追いやられたとしても、少くとも、彼らの喧嘩好きはある特定の理想をもっているとは思いませんか?」
 「そういうことなら、すべての帝国主義は特定の理想を吹き込まれています」と彼はしんらつに言った-「イギリス帝国主義がわれわれにあなたの国(=インド)で最悪の残虐行為を犯させたときでさえ、私たちイギリス人はそのような理想を主張しなかったでしょうか?」
 「いいや、けれどもラッセルさん、あなたはあなたの国の帝国主義をソヴェトの帝国主義と同じ範疇の下におくことはできません。なぜなら、たしかにソヴェトは理想主義的であり、きっとイギリス帝国主義のいわゆる理想なるものより、もっと多くの影響を未来の世界に及ぼすからです。コミュニズムは今日、真の使命をもってはいないでしょうか?」
 「なるほど、ソヴェトが近い将来に世界に影響力をもつことは、私も認めます。彼らが宗教を摘発したこと、たとえば教会をきぴしく非難したことや-その他多くのことで、今日彼らは西洋の進歩の前衛です。しかし真のコミュニズムはあそこでは失敗したのです-ともかくも、ここ当分は。

 昼食のベルが鳴った。食事の後で私たち(ラッセル夫妻と二人の子供と私)は海岸に出掛けた。
 「昨日私はウェルズの『ウィリアム・クリソルドの世界』を読みましたが」と崖をよじのぼりながら私は言った-「彼はマルキシズムは論破されてしまったと考えていますが、あなたはそう考えますか?」
 「いいや、私はそうは考えません-少くとも完全には」とラッセルが言った-「私は、マルクスの言ったことには多くの真理があると思うのです。」
 「たとえば?」
 「近代資本主義の傾向は、大いに彼が断言した線に沿っているようです、すなわち現状では、産業の経営と管理はますます少数者の手中に集められてゆく傾向にあります。それからまた、たとえば、彼の歴史の経済的解釈にも、多くの真理が含まれています。」
 「それではあなたは、マルキシズムは論破されていないと信じていられるようですが、今後もそうでしょうか?」
 「君はどう思う、ドラ?」とラッセル氏が尋ねた。
 「そうですねえ、わたしは、それは実際はそれだけで片附くような問題ではないと思いますわ」と彼女が言った。「たとえマルキシズムが完全にくつがえされたとしても、今後も永く続くでしょうから。
 「それは、どういうことでしょうか?」と私が尋ねた。ラッセル氏が言葉をうけた。
 「それはこういうことです」と彼は説明した-「キリスト教は、ずっと以前に、あるところでは三世紀頃に、少数の知的な人々が現われてその真実性や確実性を穿鑿するや、論破されてしまったのです。しかしキリスト教は依然として続いています。
 私たちは笑った。
 「ところで、もしわれわれがもっと合理的な社会主義形態を、すなわち物の真相をもっと深く見きわめるような体系を発展させたら-たとえばマルキシズムなどよりもっと大衆に理解されるのではないでしょうか?」
 「それは始ど不可能なことです。」
 「なぜでしょうか?」
 「ある体系に真理が多く含まれれば含まれるほど、一層複雑になり、必然的に、ますます説明や理解が困難になるからです。虚偽だけが平易になることができ、大衆につけ入るのです。」
 「それでは、あなたは貴族主義的な人生観を支持なさっているようです。」
 「それはどういう意味ですか?」
 「真理はほんのわずかな人々のためにある、という考えをあなたは支持していられるように思えるのです。」
 「それは、私が何らかの見解を支持していることにはなりません」と彼はいく分活溌に言った-「ただ私は人生を、その真相に照らしてあるがままに卒直に見ているのです。それだけのことです。
 「もう少しわかりやすく説明していただけませんか?」
 「どうしてあなた方はこのような簡単な事実を、自分の道徳的な人生解釈のために、偏見なしに見ることができないのですか?」と彼はもっときぴしく言った-「どうして人々は頑固にも、物事を特定の方向に向けようとして、どうにもならない混乱に陥らねばならないのでしょうか?
 どうして人々は、気持をかえて、冷静に物事を見、真理はわれわれの好き嫌いとは全く無関係であるという、簡単な事実を直視しようとしないのでしょうか? 一例を挙げると-通貨は非常に複雑な方法で日常生活に作用し影響していますね? さてもし私が、物事を考える習練をされていない人はその問題の複雑さと取り組む能力をもたないために、それがどのように作用しているか理解することができない、と言ったとします、しかしその場合、私は、その人がそれを理解しなければならないとか、それをやめなけれぱならないとか言っているのではありません。それは事実を述べたに過ぎないのです。また私が、キリンだけが木のてっぺんの枝のやわらかい葉を食べられるが、馬にはできない、と言ったとします、しかしそれは同様に、事実を述べただけであって、馬にもっと長い頸があったらなあ、という願いごとではありません。われわれが人生を見つめ、生に関する一般的原則を導き出そうとするときには、これと同じように、何の偏見ももたず、事実を直視しなければなりません。おわかりになりましたか?」
 私はうなずいた。
 しばらくして、海を見渡す丘の上に私たちが並んで坐ったとき、「もし私が興奮していたようでしたらお許し下さい」とラッセル氏が言った。…「しかし私の目的の一つは、常に物事をみるときに、一切の誤った道徳的偏見を周到に避け、できるだけ冷静に生を見つめることだったのです。なぜなら、これこそが科学精神の本質だからです。

 * ディリップ・クマール・ローイはインドのすぐれた音楽家・劇作家。彼は「神性を信じ、知り、それに近づきうる人間の可能性を信じるような人々」を師と仰ぎ、ロラン、タゴール、オーロビンド、ガンディ-、ラッセルらを訪ね、これらの人々との貴重な対話と文通を一冊の本に集めた。本文は一九二二年八月にラッセルとなされた会話の一部分である。(森本達雄訳)