バートランド・ラッセルのポータルサイト


第131回「ラッセルを読む会」レジメ(2001.05.04,松下担当分)

(ラッセル著『人間の知識』)
第6部 科学的推理の要請 Postulates of scientific inference 

科学的方法を正当化するために必要な5つの要請(邦訳p.380)
(1)準永続性の要請 postulate of quasi-permanence
(2)(分離可能な)因果の線の要請 ← 第6部第5章 postulate of separable causal lines
(3)因果の線のなかでの時間空間的連続性の要請 postulate of spatio-temporal continuity in causal lines
(4)一つの中心のまわりに配列した相似構造の共通の因果的起源の要請(構造的要請) Postulate of the common causal origin of similar stuructures ranged about a centre, or simply, the stuructural postulate
(5)アナロジーの要請 postulate of analogy
 
 第5章 因果の線 causal lines
 
「原因(cause)」という概念は、進んだ科学では使われないが、近似的な一般化と前科学的な帰納の源として、また適切に制限された場合は、正当な概念として、いまだ重要性をもっている。
 
「帰納」は、因果関係が事前に確からしくない限り、因果関係を証明できない。ただし、帰納的一般化の基礎としては、因果関係causationというものはふつう考えられているよりずっと弱いものであってもよい。「緩和」できる。
   因果関係の中で承認しやすい唯一の種類の緩和は、(因果関係というものは不変ではないかもしれないという主張ではなく、)ある場合には因果関係がないかもしれなという主張である。例:原子のなかでの量子遷移と放射線崩壊が不変の先行事例をもたないということを承認せざるを得ないかもしれない。それらは他のことの原因にはなるが、他のことの結果ではなく、それらの原因とみなすことのできる直接の先行事象の集合は存在しない。
    ↓すなわち、
   因果関係の法則は、因果的継起が起こる場合にはそれは不変であることと、そういう継起はしばしば起こるが、必ずしもすべての事象がある不変の因果的継起のメンバーではないことを主張するものとみなす。(←「緩和」の結果)
 (それでは、)
  因果関係とは?集合Aのすべての事象は、それぞれ集合Bの一つの事象をひきおこす。
  (1)原因と結果(効果)という特殊な関係を仮定しているのか、それとも
  (2)(単に)不変の継起(や随伴)を仮定しているのだろうか
   ↑「不変の継起」だけでは十分だとは思わないが、さしあたり因果性の法則の解釈だけを行う。
 
不変の随伴または継起は、「われわれの言う因果関係」とはちがう。(例:一定の元素の白熱気体の塊が2つあるとすると、どちらも同じスペクトル線を発するが、どちらかが片方の原因というわけではない。
・常識は、法則の助けによって、知覚のように思われるものが普通外的原因を持ち、その原因はそれが知覚に及ぼす効果(結果)多かれ少なかれ似ているという信念を持っている。
    ↓
「Aは、もしBをさまたげることがなければ、Bをひこおこす。」というのは、つまらない法則であり、科学的知識の基礎としては役立たない。
  科学がこの困難を克服する方法には、(1)微分方程式の使用、(2)準永続性,(3)統計的規則性、の3つがある。
 
(1)微分方程式の使用
  ある変化がその変化傾向を変化させる場合には常に必要(例:万有引力の法則)

(2)準永続性 ある意味で「運動の第一法則」の拡張)
  運動の第一法則より一般的なものであり、「物」という常識的概念と、「物質」という物理的概念(=古典物理学的)との継続性を説明するためのもの。
  一つの「物」または一片の物質は、一個の持続的な実体的存在ではなく、ある種の因果的なつながりを相互に持つ諸事象の糸と見なされるべきものであり、「準永続性」(ラッセルが)呼ぶものはこういう種類のものである。
↓すなわち、
  「ある時刻におけるある事象が与えられれば、それより少し以前または少し後の任意の時刻に、ある近所の場所(近傍)にそれと密接に似た事象が(必ずとはいえないが非常にしばしば)存在する」と主張   「実体」という概念が捨てられるとき、(常識にとって)一つの物または一人の人が、異なる時刻に同一(人物・物)とみなされることは、「因果の線」と呼ばれるものからなるとして説明されねばならない。」

 ・個人の同一性は、その人自身にとっては、記憶によって保証され、記憶はある種の「因果の線」を引き起こす。
  ある一定の瞬間のある一定の物質片は、二つ以上の因果の線に属することができる。たとえば、私の腕は常に同一の腕だが、それを構成する分子はいれかわる。前者の場合は我々は解剖学的および生理学的因果の線を問題にしているのであり、後者の場合は物理学のそれを問題にしている
。)
  ・「因果の線」という概念は物や人の準永続性に含まれているだけでなく、「知覚」の定義にも含まれている多数の星が自分に見えるとき、それぞれの星は、私の網膜に別々の効果をひきおこすが、それは中間の空間にのびている因果の線によってはじめて可能である。

 ★多かれ少なかれ自立的な因果的過程が存在するということけっして論理的必然ではなく私の考えでは、科学の根本的要請の一つである。・・・。もしこの要請が真であるのならば、我々は莫大な無知にもかかわらず、部分的な知識を獲得することができる。→ 宇宙が相互に結びついた諸部分の体系であることは真であるもしれないが、それは、ある部分がある程度まで他の部分と独立に知られることが可能であってはじめて発見されうるものである。

 (3)統計的規則性
   これは推論であり、要請ではない、と思われる。


 ★ここでの問題は、帰納的推理に必要な基礎を与える要請を見いだすことである。・・・。必要なのは、ある特徴が事象のある集合のなかで通常起こることの確からしさだけである。そしてこのことは量子力学でも古典物理学におけると同様に真である。


読書会レジメ(2001.05.04)


三浦俊彦(著)『論理学入門』(NHKブックス)
 第I部 記号論理学の基礎
 第12節 前提明示化のテクニック−意味論的前提と語用論的前提−
  この節では、意味論的前提と語用論的前提との違いを整理

「真」、「偽」有意味、無意味

命題が真であるため
 の前提

意味論的前提
 

語用論的前提
 

例1:
「全ての薔薇が赤いならば、赤い薔薇がある」


 

・「薔薇がある」ということ



・「この世界には何かが存在している」ということ
・「各単語は日本語として理解される」ということ
+ その他・・・

例2:
「西暦2000年現在、日本の首都は東京である」

「日本というものが存在する」
 
 

同上
日本語が存在、・・・

例3:
「わがクラスの委員長は学年トップの成績である」




「わがクラスというものがある」
・「わがクラスに委員長がいる」
これらの前提は、それが満たされなくても左記の文章は無意味にならないため、語用論的前提とは異なる

同上






xFx (xはHに限定)
  ↓
x(HxFx)

・固有名詞(例:東京)や記述(日本の首都、我がクラスの委員長)や従属文の中の述語(トップの成績である)には、」その指示対象が存在するという含みがあり、その含みが「意味論的前提」である。
意味論的前提は、常に明示化できる。→暗黙の前提としてではなく、表記に取り込んでしまった方が都合が良い場合が多い。(すなわち、意味論的前提をメタ言語レベルから言語レベルへ前景化させ命題に組み込む

・空気のように、当然のこととして依拠黙認してよい類 の前提(前提の明示化は的はずれ)
語用論的な前提が満たされていない場合には、当の命 題を表記する言語実践その ものが意味を失う



□ 確定記述の表示
  主語が指し示す個体が存在するという意味論的前提の明示化
  例: 「印南哲治は自殺した」      ↓メタ言語での暗黙の了解(意味論的前提)
     @Sa   (aなるものは当然存在するが・・・)
     A∃x(a=xSx)
         ↑印南哲治なるものがおり・・・(←意味論的前提の「明示化」)
 
確定記述: たまたま唯一の対象を選び出す命題関数
   (論理的には、ただ一つのものに当てはまるものとは限らないが、たまたま事実としては、たったひとつのものに当てはまるもの)
  B.ラッセルの記述の理論

  □ 語用論的前提を明示すると・・・
  語用論的前提の場合は、意味論的前提のように、「前提明示化」することは的はずれ(不用、ばかげている)となる。

  固有名詞や確定記述を主語とした日常の文について、その指示対象が存在するということは、意味論的な前提でなく、語用論的前提であると主張する哲学者(P.ストローソン)もいる。   例: 「1920年代にノーベル文学賞を受けたあの日本人小説家は自殺した。」
     B∃x(Fx∧∀y(Fy⊃(x=y))∧Sx)
      ↑「次のようなxがある。すなわち、xはF(1060年代にノーベル文学賞を受賞した日本人小説家)であり、いかなるyもFであればxと同一であり、しかもそのxはSである(=自殺した)」

  P.ストローソンは、確定記述の該当する人物がいないので、真でも偽でもないと考える。これに対し、B.ラッセルは、この文は「無意味」とは考えられず、無意味でないなら真か偽のどちらかであると考える。

 ★多くの場合、何を語用論的前提と見なすか、意味論的な前提と見なすかは、文脈に相対的な問題である。