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バートランド・ラッセルを読む会_(第119回)読書会メモ n.119(平成10年10月24日開催)

ラッセル『人間の知識』

[テキスト]『人間の知識』(みすず書房版・バートランド・ラッセル著作集 第9巻/On Power, 1938)

第4部 科学的概念

第5章 時空(Space-time)

 アインシュタインが相対性理論によって、時間と空間を「時空(time-space)」で置き換えたことの意味合いを理解している人は少ない。だが、その置き換え(変化)は、世界の構造を理解する上で重要なことがらであるので、本章では、その変化のうち、哲学的に重要な部分について考えてみる。

●「同時性(simultaneity)」は異なる場所の事象に対しては一意的でない、という発見

 光の進む速度は、観測者がどんなに速く動いてもあらゆる観測者に対して同じであるということの発見(マイケルソン=モーリの実験等によって確認)
      ↑
  これは事実ではあるが、常識的には、論理的には不可能なようにみえる。
      ↓
  この(見た目の)パラドックスは、完全な時計を持つ様々な観測者は2つの事象の間の時間の長さと2つの場所の同時性について異なる判断をする、という事実によって説明可能となる。(2つの物体が相対的に動いている場合)

同時性が一意的でないことから「距離の概念」も一意的でないことがでてくる。

 2つの物体に対する同一時刻というものが一意的でないなら、「一定の時刻における距離」というものも一意的でないことになる。
      ↓
 事実、時間間隔も空間距離も観測者の体の運動から独立な事実ではない

 時間と空間の個々の測定にはある意味での主観性がある。ただし、それは心理的なものではなく、「物理的な主観性」である。
 なぜならそれは観測者の心に対してでなく、観測装置に影響を及ぼすからである。
 (この主観性は、いろいろなアングルから写真をとるカメラの主観性に似ている。それらの写真のどれが客観的でどれが主観的だ、というようなことは言えない。)

●(以前には空間距離と時間間隔の2つがあったが、現在では)2つの事象の間には、あらゆる観測者に対して同一な、「間隔」(interval,四次元距離)と呼ばれる関係がある。

 「時間」+「空間」 ではなく → 「時空」
  ただし、時間と空間とは切り離せないとはいえ、「空間性の感覚」と「時間性の感覚」という2種類の感覚は存在する。
  もし一つの光信号が一つの事象が起こる物体から送りだされ、もう一つの事象が起こる物体へ、それがおこった以後に到着するなら、この二つの事象の間の間隔は「空間性」である。逆に、もし一つの事象から送り出された光信号が、もう一つの事象が起こる物体へそれが起こる以前に到着するなら、その2つの事象の間隔は「時間性」である。


a. 特殊相対性理論における「間隔」の定義

 特殊相対性理論では、観測者は自分が静止していると仮定する。

 2つの事象間の空間距離をr、経過時間をtと判断したとして、光速をcとすると、その2つの事象の間隔が時間性である場合はその間隔の二乗は

   c2-r

であり、空間性である場合には

   r-c

である。
 重力も電磁力も含まれていない場合には、このように定義された間隔はあらゆる観測者にとって同じであり、従ってその二つの事象の間の純然たる物理関係とみなせる。

b. 一般相対性理論における「間隔」の定義

 一般相対性理論は、「間隔」の定義を修正することによって上記の制限をとりのぞく。
 一般相対性理論においては、互いに遠く離れた事象の間にはもはや一定の間隔」はなく、互いに非常に近い事象の間にのみ一定の「間隔」がある

 ・間隔とは独立に、時空点はどんな経路にそっても一点がその近所の他の2つの点の間にくるような順序をもつと仮定される。たとえば、一つの光線上の2つの異なる点の間の間隔はゼロであるが、その2点はやはり時間的順序を持っている。

 ●運動とは?

 もし物理的世界が永続的な運動物体の多様体でなく、事象の四次元多様体からなって いると考えられるならば、我々は2つの事象が同一物質片の歴史に属するという際に、 なにを意味するか定義する道を見いだす必要がある。なぜなら、運動とは一つのものが 異なる時刻に異なる場所に存在することからなることだからである。

  ●基本的なものは、さまざまな種類の因果関係を持つ諸事象の四次元多様体である。

 ★相対性理論は、知覚の時間と空間には影響を及ぼさない。知覚のなかで知られる私の時 間と空間は、物理的には私の体と一緒に動く座標軸に対応した時間と空間に結びついた ものである。与えられた物質片に結びついた座標軸に、相対的には昔のように時間と空 間を切り離すことは依然として可能である。相対性理論でなければ解けない問題が起こるのは、相対的に高い速度で運動する二組の座標軸を比較するだけである。・・・。従って、時間と空間の心理学的研究においては相対性理論は無視できる


時間とは?
(『岩波哲学思想辞典』より)

[ギ]chronos [ラ]tempus [英]time [独]Zeit
[仏]temps [サ]kala

1.西洋
  古代・中世

 プラトン

 時間は、「イデア的永遠性を写す動く模像」である、とする。
 近代的な時間論と違う点は、プラトンにおいては、時間は天体が規則的な運動をすることによってはじめて成立するとされ、日・月・年などど同一視されている。

 アリストテレス

 「前後に関して数えられた運動の数」と定義。(時間は、運動を前後方向に計って得られる数量、即ち、運動の期間を数で表したもの
 プラトン同様、運動と測定は時間にとって本質的なものと考えられている。
 また、アリストテレスは、「人間の心が存在しなくても時間は存在するか」という問いをたて、心が存在しない場合は、(天体の規則的な運動や時計があっても、それを数量化する人間がいないのであるから)運動は成り立つが時間は存在しないと主張。

 アウグスティヌス

 キリスト教の「神による無からの創造」という考え方に含まれる時間論上の問題に関連して、心理的時間論を提唱。アウグスティヌスは、過去・現在・未来を、それぞれ記憶・注目・予期として考え、時間は人間の心の中に存在している、という解釈を示し、時間に関する諸種の問題も心理的時間論によって解釈している。

近現代

 カント

 西洋において、アリストテレス以降、時間について最も根元的な思索を展開。
 時間とは、空間と同様、物に帰属する形式ではなく、現象の捉え方の形式、即ち「直観の形式」であり、それゆえ絶対的実在性ではなく、現象一般を可能にする「経験的実在性」を持つに留まり、「超越的観念性」持つにすぎない、とカントは考える。
 ただし、時間は自己直観を与える形式すなわち「内官の形式」でもあり、「外官の形式」である空間とは区別される。
 さらに、時間はカテゴリーを離合し、図式即ち「超越論的時間規定」として、現象にその最も基本的な存在性格を付与する。また、世界の開始や自由との関連で時間への問いはアンチノミーに陥り、ここに時間の「超越論的観念性」が積極的に意味づけられる。

 カント以後

 ・ベルグソン

 時間の本来形態は、空間とは共通点のない「純粋持続」であり、物理学的時間とは空間化された時間にすぎない。

 ・ハイデガー

 『存在と時間』における主張:
 時間を人間存在(=現存在)が自らの存在に関心を抱くあり方から了解すべき。そのあり方の全体は憂慮(Sorge)と呼ばれ、「死への存在」という本来的なあり方を先駆的に決意しない非本来的なあり方であるとしている。そして、アリストテレスからヘーゲルまでの時間論を本来的なものでなく、「通俗的時間理解」と一括している。

 ・ハイデガー以後

 ・アインシュタインの相対性理論
 ・ゲーデル 時間に多次元性を認めることにより、タイムトラベルの可能性を肯定
     ↑
 (中島義道のコメント)これらはあくまでも物理学的時間論の枠内の議論に留まっている。