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バートランド・ラッセルを読む会_読書会レジメ 011

(第6回)読書会メモ「ラッセル権力論」(1980.07.20)

[テキスト]東宮隆(訳)『権力』(みすず書房版・ラッセル著作集第5巻/On Power, 1938)

ラッセル『権力論』

第14章 競争

2つの問題
  1. 競争が技術的にみて浪費が多いのはどんな場合か
  2. 競争が非技術的理由から望ましいのはどんな場合か。

宣伝における競争、宣伝の自由
  1. 政府の立場から
     政府というものは、・・・二つの危険に脅かされている。一つは革命で、いま一つは敗戦である。・・・(従って)問題は、どの程度の宣伝の自由があれば、対内的な危険に備える上からも、対外的な危険に備える上からも、最大の安定をもたらすことができるか、ということに帰する。

  2. 一般市民の立場から
    の画像  宣伝の自由が一般市民の関心の的となる場合は、そこに激しい革命か,あるいは、今まで以上の大きな自由の承認、即ち,>政府を選択することの承認を含んでいる。・・・。一言でいうならば、革命によるほか成就しようのないものを平和裡に成就する権利と(宣伝の自由は)深い関係をもっている。

  3. 熱心な革新家の立場から
     (例:コンスタンティヌス帝以前のキリスト教徒,今日の共産主義者)・・・このような人々は、言論の自由ということを信じたことのない人々であった。彼らは自ら殉教の苦杯をなめる覚悟をもっているが、しかし同時にこの殉教の苦杯を他の人々にもなめさせる覚悟を固めている。・・・。熱烈な革新家は、概して、至福千年を信ずる人々だ。・・・。現在のところでは彼は革命的であるが、(権力を握ってしまった)将来は保守派だ。・・・。野にあるときは彼はテロリストであり、ひとたび朝(ちょう)にたては迫害者となる。

  4. 哲学者の立場から
     宣伝は、判断や'合理的な懐疑'を助長し、かつ、相反する考察 considerations を秤量する力を助長するものでなければならない。
 安定した政治体制は'知的自由'にはなくてはならないものであるが、だが不幸にして、このような安定した政治体制は、同時に、暴政の重要な道具ともなりうるものである。

第15章 道徳のおきてと権力

道徳の二面性


 A.一個の社会制度としての面: 法にも等しいもので、権力構造の一部をなす。
   いわゆる、「既成道徳
 B.個人の良心の問題としての面: 革命的なものとなりやすい。
   「個人道徳」(Persona1 morality)とでもよんでよいだろう。

 本章では、これら二種の道徳相互の関係およぴ、これらの道徳と権力との関係を考察する。

A.既成道徳
  (一般に容認されている倫理的な面で、特に、権力と関係の深い面を考察する。)
 伝統的道徳の目的の一つは、既存の社会制度をうまく動かすというところにある。うまくいけば、'警察力'を行使するよりも、ずっと安価かつ効果的にその目的を達成してくれる。だが、伝統的道徳は、ともすれば、権力のあり方を配分しなおそうとする希望に動かされた革命的道徳と対峙しがちである。

従順であれという教え
  1. 孝行(父母を尊敬して大切にあつかえという教え)
     こうしたことは、本能的・無意識的であろうとも、全て、子供たちの幼いころだけでなく、さらにその先まで親の権力を引き伸ばそうとするカラクリに他ならない。

  2. 女性の服従
     男の道徳と女の道徳とが違うものになっていった根底が男の(肉体的な)力の優越ということにあったということは明らかである。

  3. 君主への服従
     「'君主政治'が一つの政治形態として強力なのはなぜか、という最上の理由は、つまり、君主政治が政治としてみて解りやすいというところにある。(バジョット)」
     即ち、1.抽象的なものに忠誠を感じるよりも、人の個人に忠誠を感ずるほうがたやすいし、又、2.'王権'は、その長い歴史のあいだに、歴史の浅い制度ではとうていふきこむことの出きないような崇拝感を徐々に積み重ねてきたからである。
     伝統的な君主政体のあるところでは、政府に対する反逆はとりもなおさず王に対する'科'であり、伝統的な人々はこれを一つの罪悪とみなし、また、不敬ともみなすのである。・・・。王権というものは、旧来の弊害を永続化し、望ましい変革に逆行する力を増大させるという短所がある。

  4. 神への服従 → 教会への服従
     革命のきざしの全然ない時期、たとえば、伝統的な既存の教会が厳として存在している場合には、(我々は、人よりも神に従うべきである)といった戒律は、神と個人の良心をつなぐ媒介として既成道徳の受け入れるところとなる。(ただし、神は各個人に向かって直接語りかける、と主張される場合は、その戒律は革命的なものとなる。)
     教会が権力を失ってしまった場合、道徳活動は全く個人的なものになってしまったかというと,少数の例外的な人々を除いて、そうはならなかった。大多数の人々にとっては道徳活動を代表しているものは世論である。
 すでに見てきたように、(道徳のおきて則ち権力の表現なり)とする主題は、決して、全てが正しいわけではない。未開人の異族結婚のルールに始まって、文明の全段階において、権力と何の関係ももたない倫理原則がいくつかある。(例:近親結婚への非難)

 (以上みてきたように)広い意味でいって、既成道徳は当局者に味方するものであり、革命を許さぬものであり、争いのはげしさを和らげる力はなく、何らかの新しい道徳的洞察を主張する予言者をうけいれないものである。・・・。
 我々は、人類が革命を必要とし個人道徳を必要とする、ということを認めなければならないが、それでもなお、世界を無政府状態におとしいれずにそういったもののための場所を見出すにはどうしたらよいか、という問題が残っている。そのように考えると、二つ考えるべき問題が出てくる。一つは※既成道徳が既成道徳自らの立場から、個人道徳に対して採るべき最も懸命な態度は何か、とういことであり、もう一つは、個人道徳が既成道徳に対してどの程度の敬意を表さなければならないか、ということである。

B.個人道徳
  1. 歴史的現象としてみた「個人道徳」
     かつて、あるすぐれた個人の個人道徳(生き方、考え方、感じ方)であったものが、人々に受けいれられることによって、既成道徳に属するものとなる(予言者マホメットの個人道徳:回教徒は、動物や人間の像をつくってはならない→民衆に受容され・・・)
     ・・・老子、荘子、ヘブライの預言者、ソクラテス・・・、これらの人々は、その当時における反逆者であったが、今日では尊崇のまととなっている。これらの人々のなかにあった新しいもののいくらかのものは、今日では、もはや当然のこととして考えられるようになった。

  2. 哲学者の見地からみた「個人道徳」
     略(議論としては面白く、かつ、大事な問題であるが、本書の叙述の流れの中では、省略してもよさそう)
 倫理上の革新者として偉大であった人々は、他の人々に比べて、より多くのことを知っていた、ということではなかった。こうした人々は、他の人々以上に多くの希望を懐いていた人々であり、もっと正確にいえば、その欲求が普通の人々よりも非個人的であり、かつ、範囲の広い人々であった。

 予言者なり聖人なりが変えたいと思っている社会制度の何らかの部分が原因で悩み苦しむ人々が、この予言者や聖人の意見を支持するのには、当然な個人的理由があるわけである。その結果としておこる革命運動に、抗しがたい力を与えるのは、実に、この苦しむ人々の自己本位の倫理が預言者や聖人の非個人的な倫理と合一した時なのである。